「ばか」の語源を聞かれ、考える機会があった。『日本国語大辞典(日国)』には、「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されているので、今まで何の疑問も抱かずに、そうなのかと思い込んでいた。「梵語(ぼんご)」とは、古代インドの文章語サンスクリット語のことである。ところが、念のためにいくつかの国語辞典を引き比べてみると、必ずしも梵語説は定説ではないらしいことがわかり、今まで確信していたものがかなり怪しくなってきたのである。
 もちろん、梵語語源説が完全な誤りだとは言えない。『日国』をはじめとして、『広辞苑』『大辞泉』『大辞林』などの中型の国語辞典は、梵語語源説を採っているのだから。ところが、小型の国語辞典では、語源説を示していないものがほとんどなのである。語源説を載せない理由はよくわからないのだが、ひょっとすると、梵語語源説に疑問があるからなのではなかろうかと思えてくる。
 確かに、よくよく考えてみると、なんで、moha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。この説は、『広辞苑』の編者として知られる新村出の説なのだが。
 「ばか」の語源説とされるものは、他にもある。「ばか」は漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことという意からその意味になったという説である。
 また、漢字で「馬鹿」と書くが、そのように書く理由とされる故事もある。中国の史書『史記』に見えるもので、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるというものである。だがこれは、「馬鹿」という当て字からこじつけた、日本で生まれた俗説であろう。
 このような諸説を並べてみると、「ばか」は、語源のはっきりしない語と考えた方がよさそうな気がしてくる。
 ただ、語源説を調べていく中で、ひとつ心惹かれる説があったので紹介したい。『新明解国語辞典』に載っている、「『はかなし』の語根の強調形」からだという説である。
 「はかなし(はかない)」の意味は、つかの間である、頼りにならないということで、「はかない命」「はかない望み」などと使う語である。「はか」は「計(はか)」のことで、農作業など仕事の目標量、またその実績という意味である。この「はか」は、「はかる(計・量)」「はかどる(捗)」「はかがゆく」などの「はか」と同じ仲間のことばだと考えられている。
 この「はかない」には、思慮分別がじゅうぶんでないという意味もあり、古くは浅はかである、愚かだという意味でも使われていた。例えば、『源氏物語』の「若紫」に、

 「いとはかなう物し給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを」

という例がある。幼いときに光源氏に見いだされ、引き取られて後に光源氏の妻となる紫の上のことをいった文章である。その幼げな姿を、ほんとうにたわいなくいらっしゃるのはふびんで気がかりなことです。これくらいのお年になれば、ほんとうにこのようではない人もおりますのに、という意味である。
 この、たわいない、思慮分別がじゅうぶんでないという意味の「はかなし(はかない)」が、強調形となって「はか(ばか)」と言われるようになり、今の愚かだ、無能だという意味で使われるようになった可能性は大いにあるのではなかろうか。
 「ばか」の語源説としてあまり知られてはいない説だが、個人的にはかなり説得力があるような気がしている。そして、それと同時に、ことばに関しては、すべて単純な思い込みは危険だと思ったのであった。

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 計画などがつぶれたり、だめになったりすることを、俗に「ポシャる」と言う。「新事業は資金が調達できずポシャった」などと使う。『日本国語大辞典(日国)』によれば、徳川夢声のエッセー『夢声半代記』(1929年)の、「新宿座は一週間でポシャったのでした」(新宿座)という例が現時点では一番古いようだ。
 『日国』をはじめ、ほとんどの国語辞典は、この語の見出しを「ポシャる」と「ポシャ」だけカタカナで表記している。多くの人も実際に文章の中で使うときは、「ポシャる」と書くだろう。だが、なぜカタカナで書くのかと考えたことはあるだろうか。
 このように書くのは理由があって、「『ポシャ』は『シャッポ』の『シャ』と『ポ』を逆にしたものの変化した語か」(『日国』)と考えられているからである。
 だが、ちょっと待ってほしい。なぜ、「シャッポ」がひっくり返ると、だめになったり、失敗したりするという意味になるのだろうか。実は、『日国』でも「変化した語か」と「か」とあるように、理由がよくわからないのである。それは他の辞書も同様である。
 ただ、「シャッポ」は「シャッポを脱ぐ」の形で、相手にかなわないと知って降参する、観念するという意味で使われるところから、降参とだめになるとを結びつけて考える向きもあるようだ。だが、そうだとしても今ひとつ説得力に欠ける気がする。「ポシャる」は不思議なことばというよりも、謎のことばなのである。
 さらに辞書では、ごく当たり前のように「シャッポ」という語をその意味を説明することなしに示しているのだが、「シャッポ」って何だろうと思う人はいないのだろうか。「シャッポ」はフランスのchapeau からで、帽子のことなのだが、私の世代にはすぐにわかっても、若い世代には知らないという人がけっこういるかもしれない。だとすると、「シャッポを脱ぐ」と言われても、きょとんとしてしまう人がいる可能性だってありそうだ。
 自戒を込めて言うと、昔の辞書はそれでよかったのだろうが、今の時代の辞書は、ニーズに合わせて、もっと親切に記述する必要がありそうな気がする。

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 タイトルは、最近話題になったフレーズだが、ご記憶だろうか。お笑い系の芸能プロダクション、吉本興業の社長が発したということばである。このプロダクションに所属する芸人さんたちが、特殊詐欺グループの主催する会に出たり、プロダクション会社を通さない仕事、いわゆる「闇営業」をしたりしたという一連の騒動のときに、社長が芸人さんたちに説明を求めた際にそう言ったらしい。
 このことばを聞いたとき、「おや?」と思うことがあった。と言っても、この騒動そのものに関してではない。この、「テープを回してないやろな」という表現についてである。「テープを回す」って、今時、テープを使った録音機を使う人などいるのだろうかと思ったのである。人の話を録音するときは、今は、ボイスレコーダーやICレコーダー、あるいはスマホを使うのではないか、と。
 そのためだろうか、この騒動をネタにした吉本興業所属のウーマンラッシュアワーの一人が、舞台で「お客さんに言いたいことは、『ボイスレコーダーを回すなよ』」と言ったのだそうだ(「朝日新聞」2019年8月17日東京版夕刊)。テープレコーダーが若い人にはわかりにくいと考えて、ボイスレコーダーにしたのだろう。なるほどという気もしないではないが、ボイスレコーダーの内蔵メモリーはテープのように回転しているのだろうか。
 別に、揚げ足をとろうと思っているわけではない。
 テープレコーダーが主流だった時代は、確かに録音することは「テープを回す」であった。ところが、テープを使わない録音機に取って代わられても、「(テープを)回す」ということばだけが残って、「録音する」という意味で使われるのは面白いな、と思ったのである。そういえば、テレビも「チャンネルを回す」といまだに言うことがある。つまみを回してテレビ局を切り替える方式のテレビを知っている世代だけかもしれないが。
 録音機やテレビだけでなく、例えば電子レンジも、それで食品を温めることを「チンする」とか「レンチン」とか言う。だが、今時、温めが終わってチンと鳴る電子レンジなど、ほとんどお目にかかったことがない。わが家のだって、けっこう年季が入っているが、ピーとかピッピとか鳴る。
 このように、そのものの実態は変化したりなくなったりしてしまったのに、ことばだけが残ることがあって、面白い。辞書を編集する者としては、「テープを回す」をどうして「録音」の意味で使うのか、遠からず説明を求められることになるのかもしれないと思うのである。

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 今年、プロ野球ファンの私にとって、野球とは別に、注目すべき出来事があった。中日ドラゴンズの与田監督が、応援団が歌う応援歌に「お前」ということばが使われていることに対して、疑問を呈したことである。チームが好機の際に歌われるチャンステーマに、ピンク・レディーの「サウスポー」の歌詞を、「お前が打たなきゃ誰が打つ」と替えて歌っていたところ、与田監督が、「選手にお前というのはどうなのか」「子どもも多く観戦する中で、そういう表現はいかがなものか」と言ったというのだ。
 ひと言お断りしておくと、中日は私のひいきのチームではないが、だからといって与田監督の考えを批判しようと思っているわけではない。ただ、この「お前」ということばは、時代とともに意味が変遷した語なので、ご存じの方も多いだろうが、一応その流れを押さえておいてほしいと思ったのである。
 「お前」は「御前」と書くのだが、古くは、神仏や貴人の前を敬っていう語であった。「おそば近く」といった意味もある。これがやがて、貴人に対して、その人を直接ささずに、尊敬の意を込めた言い方として使われるようになる。そしてさらには、人称代名詞、すなわち、話し手が聞き手をさし示す語としても用いられるようになった。
 これが、問題の「お前」である。
 当初、この「お前」は、目上の人に対して、敬意をもって用いられていた。例えば、平安時代から室町時代頃までの使用例は、ほとんどがその意味である。
 ところが江戸時代になると、面白いことに、対称になる相手の立場がどんどん下がっていく。江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』(1797年頃)に、「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」とあるので、江戸中期には敬意がかなり失われていたことがわかる。そしてその後も敬意が失われ続け、現在のように、同輩どころか、下位者にまで用いるようになるのである。
 与田監督が反応したのは、この下位者に対して使われる点であろう。確かに、「お前のせいで負けたんだぞ」「お前が悪い」と言われると、いわゆる“上から目線”のようで、言われた側はあまりいい気持ちはしないであろう。
 ただ、「お前」はこのようにぞんざいな言い方でも使われる一方で、「ここはお前だけが頼りなんだよ」と、親しみを込めた言い方で使われるということも見落としてはならないであろう。私には、ドラゴンズの応援歌はそのような意味に聞こえる。
 ことばは一面だけで判断して何でも排除しようとするのではなく、多面的に考えた方が、風通しがよいような気がするのだが、いかがであろうか。

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 「忍法帖」シリーズや、明治の開化期を舞台にした小説など、数多くの推理小説や時代小説、伝奇小説を書いた、山田風太郎という作家はご存じであろう。その山田風太郎が最後に発表した小説が、『柳生十兵衛死す』(1992年)である。柳生十兵衛は、江戸前期の剣術家で、柳生新陰流を極め、父宗矩(むねのり)の死後柳生宗家を継いだ人物。まずはその小説から引用した、以下の文章をお読みいただきたい。

 「将軍の四男たる自分に対して、対等どころかそれ以下の人間に対するような口をきくのには腹がにえくりかえる。」

 注目していただきたいのは、文中の「腹がにえくりかえる」の部分である。私はパソコンでこのコラムを書いているのだが、「腹が煮えくりかえる」と書こうとすると、《「はらわたが煮えくりかえる」の誤用》と自動で表示が出てくる。
 確かに、「はらわたが煮えくりかえる」「はらわたが煮えかえる」が本来の言い方で、「腹が煮えくりかえる」は誤用とされることが多い。辞書でも、『明鏡国語辞典』は「『腹が煮えくり返る』は誤り」であると言い切っている。
 「はらわたが煮えくりかえる(煮えかえる)」は、例えば、大坂の曽根崎(そねざき)天神でおきた、お初と徳兵衛との情死事件を扱った近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』(1703年初演)に、

 「九平次めが、けふ生玉にて徳兵衛を、散々に打擲(ちょうちゃく)したる由、腸が煮え返り」

とあるが、これが本来の使い方であるといえよう。このことについて、異論はない。
 だが、「腹がにえくりかえる」も無視できない状況にあることも確かなのである。
 「はらわた」は、『曾根崎心中』にもあるように「腸」と書く。内臓、特に大腸や小腸の総称である。この「はらわた」が煮えたぎるほどの激しい怒りをこらえることができないさまを、「はらわたが煮えくりかえる(煮えかえる)」という。「はらわた」は「腹」のことなのだから、「腹が煮えくりかえる」といってもよさそうなものだが、古くから「はらわたが」が使われてきた。「腹」だと思っている人は、「はらわた」という語の中に「はら」のがあるので、この慣用表現をうろ覚えにしているということもあるのかもしれない。
 そうしたこともあってか、「腹が煮えくりかえる」という言い方は、じわじわとだが増えている。冒頭の、『柳生十兵衛死す』の例だけでなく、書籍になったものでも、そう書いてある例はけっこうある。
 本来の言い方は「はらわた」なので、テストやクイズでこの部分を「腹」としたら、今は×になるだろう。だから、「腹」とは書かないように気をつけてほしいのだが、実際には、「腹」が広まる可能性は否定できないのである。

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