「知恵熱」という語を、『日本国語大辞典(日国)』で引いてみると、
 「生後六~七か月ごろの乳児に起こる発熱。知恵がつきはじめる時に起こると俗に考えたことからいう。」
と説明されている。これを読んで、おや?自分が使っていた意味とは違う、と思った人もいるかもしれない。おそらくその人は、頭を使いすぎたときに起こる熱の意味で使っているのではないだろうか。
 確かに、「知恵熱」は、人によって意味の取り方がまちまちで、例えば文化庁が発表した2016年度の「国語に関する世論調査」でも、「知恵熱が出た」を、『日国』の意味のように「乳幼児期に突然起こることのある発熱」で使う人が45.6パーセント、『日国』にはない「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」という意味で使う人が40.2パーセント、その両方を使う人は6.9パーセントという結果が出ている。
 『日国』では「知恵熱」の用例として、島崎藤村の『家』(1910~11年)という小説の、

 「『智慧熱といふ奴かも知れんよ』と三吉も言って見た」(上・六)

 という文章を引用している。引用文の前後を読むと、「三吉」の子の「お房」という乳児が熱を出していることがわかる。
 ところが、「知恵熱」を「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」という意味だと考える人がけっこういるのは、どうしたわけなのだろうか。
 その理由は不明ながら、私は「知恵熱」が「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味で使われるようになったのは、けっこう古くからのことではないかと考えている。
 というのは、「知恵熱」と同じ意味で『日国』にも立項されている「知恵ぼとり」という語がある。「ぼとり」は「ほとり」で、熱の意味である。『日国』には以下の2例が引用されている。

*雑俳・俳諧觽‐八〔1786〕「掛乞を見ると泣出す知恵ぼとり」
*滑稽本・和合人〔1823~44〕二・追加下「智慧は総身へ満ちて、智慧ぼとりで熱が出てならねへ」

いずれも江戸時代の用例だが、雑俳例の「掛乞(かけこい)」は掛売りの代金を請求する人のことだし、滑稽本例もたまにいい知恵を出すんだな、と言う相手に引用文のように答えているのである。この2例は、どうあっても乳児の熱ではないだろう。このように「知恵ぼとり」を「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味で使っているということは、「知恵熱」も古くからその意味で使っていた可能性がありそうなのである。ただ、その意味での「知恵熱」の使用例を、現時点では江戸時代までさかのぼって見つけることができないため、勝手な想像でしかないのだが。
 最後に、内輪の話なのだが、『日国』の「知恵ぼとり」の語釈は、「『ちえねつ(知恵熱)』に同じ。」となっている。これは問題がありそうだ。『日国』の「知恵熱」の語釈は、乳児の熱という本来の意味だけなのに、「知恵ぼとり」で引用されている2例は、見てきたように「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味なのだから。『日国』の「知恵熱」の語釈は、「知恵ぼとり」と合わせて、加筆する必要がありそうだ。

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 「ぞっとする」といえば、恐怖などを感じて、からだが震え上がるという意味である。たとえば、太宰治の『ヴィヨンの妻』(1947年)に

 「女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。」

とあるように使う。この場合は、泥酔した夫が帰宅したあとに、「ごめん下さい」という女の声が玄関でしたので、「私」が動揺したり恐怖を感じたりしたという意味であろう。
 ところで「ぞっとする」に対して、「ぞっと」と「しない」が結びついた「ぞっとしない」という言い方がある。「ぞっと」を否定しているわけだから、恐ろしくないという意味のように思えるかもしれないが、実はそうではないのである。
 たとえば、『日本国語大辞典』で引用されている夏目漱石の『草枕』(1906年)の例、

*草枕〔1906〕〈夏目漱石〉五「然もそれを濡らした水は、幾日前に汲んだ、溜め置きかと考へると、余りぞっとしない」

は、数日前にくんだ古い水に対して「ぞっとしない」と言っているが、その水が恐ろしくないという意味ではなさそうだ。ためおかれた古い水なので、いい気持ちがしないと言っているのである。
 つまり「ぞっと」は、「ぞっとする」と「ぞっとしない」とで、「ぞっと」の意味が異なるわけである。
 ところが、文化庁が発表した2016年度の「国語に関する世論調査」では、「今回の映画は、余りぞっとしないものだった」を、「面白くない」と「恐ろしくない」の、どちらの意味だと思うかと尋ねたところ、「面白くない」と答えた人が、22.8パーセント、「恐ろしくない」と答えた人が、56.1パーセントという結果になった。文化庁は、「面白くない」の方を本来の意味だと説明しているが、確かにその通りで、「今回の映画は、余りぞっとしないものだった」は、映画は怖くなかったという意味ではなく、面白くない、感動することのない映画だったという意味なのである。だが、この調査ではそう答えた人の方が少ない。
 実は、「ぞっと」には、恐ろしさなどでからだが震え上がるようなさまという意味の他に、美しいものなどに出会ったときに、強い感動が身内を走り抜けるという意味があり、「ぞっとしない」はそれを否定した言い方なのである。
 ただ、「ぞっとしない」という語は、ひょっとすると日常語として使っている人はかなり減っているのかもしれない。そのため、文化庁の調査でも、文字通りの意味に解釈して「恐ろしくない」と答えた人が多くいた可能性はある。そうではあっても、「ぞっとしない」という言い方がまったくすたれたというわけではなさそうなので、本来の意味も知っておいた方がいいと思うのである。

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 「縁の下の力持ち」という語をイメージしてみて、と言われたら、どのような情景を思い浮かべるだろうか。例えば、筋骨隆々の小男が縁の下にいて、歯を食いしばってひたすら家屋を支えている姿とか。人に知られずに、陰で苦労、努力することのたとえとして用いられることが多い語なので、おおかたはそんなイメージではないだろうか。
 だが、『日本国語大辞典』の「縁の下の力持ち」の項目で引用されている3例のうち、近世の2例は、現在使われているこの語の意味とはいささか異なっているのである。それは、人のために骨を折るばかりで世の中に認められず、報われないといった、マイナスの意味なのである。
 その近世の2例とは、以下のものである。

*浮世草子・小児養育気質(1773)二・一「数の多き事故進物遣ふて間違へばゑんの下の力もち」
*滑稽本・風来六部集〔1780〕放屁論後編「生まれ付きたる不物好(ふものずき)のわる塊りにかたまって、椽(エン)の下(シタ)の力持、むだ骨だらけの其中に」

前者は、進物を間違えて贈ると無駄になるという意味のようだし、後者も「不物好」つまり変わっているものを好んでいるので、無駄骨だらけだということのようである。
 ところが、近代の例になると、

*思出の記〔1900~01〕〈徳富蘆花〉一〇・六「自ら択むで居る生涯の方針は世の所謂利達の路とは大分違って、云はば椽の下の力持」

といったもので、ここでは、現在使われているように人に知られずに、陰で苦労、努力するという意味になっている。
なぜそのような意味の変化が生じたのか。
 どうやらそれは、「力持ち」という語に秘密がありそうなのである。縁の下にいる「力持ち」とは、つい力自慢の人を想像してしまうが、この場合の「力持ち」とは、重い石などを持ちあげて種々の技を見せる芸を行う者のことらしいのだ。
 なぜそのように考えられるのかというと、同じ意味で「縁の下の舞(まい)」という語があるからなのである。「縁の下の舞」は、人が見ていない所でむなしく苦労することのたとえとして、マイナスの意味で用いられる語である。元来は、大坂四天王寺の経供養(きょうくよう)に聖霊院(しょうりょういん)で催された舞楽が、舞台上ではなく庭で非公開で演じられたところから「縁の下の舞」と呼ばれ、それが人が見ていないところでむなしく苦労することのたとえとなったらしい。同様に、「縁の下の力持ち」も本来は人に見られていないところで演じられている力持ちの芸だった可能性が高いのである。だからマイナスの意味で使われていたのではないだろうか。
 もちろん、「縁の下の力持ち」が現在のように、人に知られないで、陰で苦労、努力することというプラスの意味で使われるのはなんの問題もない。ただ、意味が変化した、面白い語だと思うのである。

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 そんなにぐあいよくいくものではないという意味で、「そうは問屋がおろさない」という言い方がある。そのような安値では問屋が卸し売りをしないということから生まれた言い方らしい。『日本国語大辞典(日国)』にも立項されていて、

*春潮〔1903〕〈田山花袋〉八「此奴め、樺島男爵になる気だナ、さう安くは問屋では卸さん」

などといった用例が引用されている。『日国』では、この『春潮』の例がもっとも古い。
 ところが、この「そうは問屋が卸さない」を、「そうは問屋が許さない」だと思っている人がいるらしい。そのためだろう、文化庁は2006年と2015年の2回、この言い方の使用実態の調査を行っている。ただ10年間でそれほどの変化はなかったようで、「そうは問屋が卸さない」を使う人は、前者が67.7パーセント、後者は70.4パーセント、「そうは問屋が許さない」は、前者が23.5パーセント、後者が23.6パーセントという調査結果になっている。
 だがこの調査結果は、私にはいささか意外なものであった。というのも、文化庁の二度の調査で「許さない」派が20パーセント以上いることになっているにもかかわらず、その実際の使用例を見つけるのはけっこう難しいからである。ひょっとすると、口頭では「許さない」と言ってしまうのかもしれないと思って国会の会議録を検索してみたのだが、たった1例しか見つからない。文化庁がこの言い方について2回も調査をしたネタの出所を知りたいところである。
 ただそうはいっても、「許さない」の使用例がまったく存在しないというわけではない。私が見つけた例だが、以下のようなものがある。一つは浮世粋史が書いた『明治浮世風呂』(1887年)のもの。

 「弗相場(どるそうば)や米の直段(ねだん)も俄(にわか)にどしどし騰(あが)るを附(つけ)こみ濡手で粟とる山師の見込も相場うまくは問屋で許さぬとんとん評子(ひょうし)で青息(あおいき)ふくやら」(七)

 「相場うまくは問屋で」というのは、「そうはうまくは問屋で」というしゃれだろう。『明治浮世風呂』は江戸時代の『浮世風呂』を模して世相を風刺したものだが、浮世粋史が何者なのかよくわからない。国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができるためその本(明治20年共隆社 銀座)の奥付を見ると、「著述兼出版人 千葉茂三郎」とある。だが、その千葉も何者なのか私には調べがつかなかった。
 もう一つは、植物学者の牧野富太郎の随筆集『植物一日一題』(1953年)にある。

 「ショウブは菖蒲から来た名であるから、それをそのまま菖蒲と書けば問題はなかりそうだが、そうは問屋がゆるさない。普通の人はショウブを菖蒲としているが、これは大変な間違いで菖蒲はけっしてショウブではない。」(菖蒲とセキショウ)

 文化庁は、「そうは問屋が卸さない」が本来の言い方とされるとしているが、もちろんそのことについて異存はない。問屋だから、やはり「卸さない」と続けた方が自然だろうから。だが、それぞれの用例をくらべてみると、現時点では「許さない」の例が古いというのはどうしたわけなのだろう。「許さない」は文化庁もいうように本来の言い方ではないにしても、現時点で「卸さない」よりも古い例があるということは、必ずしも誤用とは断定できない気がするのである。
 もちろん、「そうは問屋が卸さない」を使った方が無難だと思うが。

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 日本では、1873年(明治6)に太陽暦が施行され、昼夜を24時に等しく分けた太陽時による定時法が用いられることになった。それ以前の時刻法は「不定時法」と呼ばれるもので、昼(夜明けから日暮れまで)と夜(日暮れから夜明けまで)をそれぞれ6等分して、2×6で一日を12刻としていた。ただしこの場合、季節によって昼夜の長さが異なるため、昼と夜とで一刻の長さは一定しない。
 昼夜の長さは異なっていても、一日は12刻なので、一日や一昼夜を「二六時(にろくじ)」といい、さらに終日、一日中を意味する「二六時中」ということばが使われていた。
 ところが1873年以降、一日が24時間になったために、新たに「四六時中」ということばも生まれた。「二六時中」の「二」を「四」に変えたわけだ。「二六時中」は、昼と夜の2と、それぞれを6等分した6からなり、それなりに意味があったのだが、「四六時中」は単に24時にするために数字を合わせただけなので、ことばの趣はあまりないような気がする。
 ただ、この「四六時中」が生まれたのは、太陽暦が施行されてすぐのことだったようで、『日本国語大辞典(日国)』には、

*音訓新聞字引〔1876〕〈萩原乙彦〉「四六時中 シロクジチュウ 一昼一夜廿四時ナリ」

というわずか3年後の用例が引用されている。この『音訓新聞字引』は書名からもおわかりのように辞書なので、辞書の用例だからだめだということではないのだが、誰かが書いた用例も欲しいところである。「これからは『二六時中』ではなくて、『四六時中』と言わなければならないな」といったような。おそらくそのような使用例が先行してあったから『音訓新聞字引』に「四六時中」が収録されたのではないだろうか。その先行する「四六時中」の例を見つけ出したいと思っているのだが、残念ながら現時点では見つかっていない。
 さらにもう一つ。「四六時中」という語が生まれたからといって、「二六時中」が死語になったわけではない。『日国』では、「二六時中」の例は、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905~06)が一番新しいものだが、「二六時中」を最後に使ったのが漱石だったわけではない。例えば、香納諒一(かのうりょういち)のミステリー小説『無限遠』(2009年 ただし1993年の『春になれば君は』の加筆改題本)にも、

 「しかも、新住民の研究者たちはみな階級ごとに、同じ広さで同じ間どりの家に住み、職場でのステイタスと人間関係を二六時中背負わされている」(疑惑・Ⅱ)

のように、比較的最近になってからも使う作家がいる。おそらくこの語へのこだわりがあるのだろう。この語の意味がだんだん通じなくなっていく可能性はあるのだが、「四六時中」とは逆に、どこまでこだわりをもって使う人がいるのか、これも追いかけてみたいのである。
 いずれも辞書編集者としてのささやかな願いなのだが。

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