書きことばとしては使わないが、会話の中では多くの人が使っているはずのことばがある。「ええ(と)」「あの(う)」といったことばである。多くの場合、すぐに次のことばが出なくて考えているときや、次のことばへのつなぎとして、ことばの初めや中間にはさんで使われる。
 これらのことばは、「場つなぎ表現」などと呼ばれているが、国語辞典では感動詞として扱っている。
 このような「場つなぎ表現」は、たとえば同じ「ええ」と言うのでも、「え」と短く言ったり、「えーっ」と少し伸ばして言ったりと、使う人や、使う場面でさまざまだろう。
 一見必要のないことばのようだが、話しことばの中では、けっこう効果的に使われている気がする。よく、「えーっ、本日はお日柄もよく」と、人前で挨拶をするときに冒頭で言う人がいる。最初に「えーっ」と発声した方が、人に聞いてもらえそうな気がするから、実に不思議なことばだ。
 これらのことばを国語辞典に載せるかどうかは編集者の判断によるのだが、どの辞典もわりあい積極的に載せている気がする。ことば自体に意味がなくても、日本語の中でしっかりと機能しているという判断だと思う。
 たとえば、『日本国語大辞典(日国)』では、「え」「ええ」「ええと」「あのう」「そのう」といった語が立項されている。ほとんどが、次のことばがすぐ出ないときや、言いにくくてためらうとき、人に話しかけるときに発することばといった説明がなされている。
 興味深いのは、そこで引用されている用例である。

【え】「滑稽本・浮世床」「人情本・春色梅児誉美」「浮雲〈二葉亭四迷〉」
【ええ】「滑稽本・酩酊気質」「滑稽本・浮世床」「吾輩は猫である〈夏目漱石〉」
【ええと】「滑稽本・浮世床」「浮雲〈二葉亭四迷〉」「吾輩は猫である〈夏目漱石〉」
【あのう】「滑稽本・浮世風呂」「人情本・春色梅児誉美」「浮雲〈二葉亭四迷〉」
【そのう】「浮雲〈二葉亭四迷〉」

 語は違っても、引用されている例は、ほとんどが同じ作品ばかりなのだ。
【ええ】の『酩酊気質(なまえいかたぎ)』と『浮世風呂(うきよぶろ)』は、他の語の例と重複していないが、いずれも『浮世床』と同じ式亭三馬(しきていさんば)(1776~1822年)作の滑稽本である。
 用例を引用した作品が重複しているからといって、ことばの採取に手抜きをしたわけではない。これらの作品だけしか使用例がない、ということでもない。いずれも江戸時代の代表的な文学作品で、こうした滑稽諧謔を旨とする滑稽本や、江戸市民の恋愛や人情の葛藤を描いた人情本は、登場人物の会話がそのまま描かれていることが多いので、この「場つなぎ表現」が頻出しているということなのである。
 庶民の会話をこのように正確に写し取ったこれらの先品は、江戸時代後期に生まれたものだが、その時代の口語を知る上で、貴重な資料となる。そして、それから、私たちが使っている「場つなぎ表現」がこの時代にも使われていたことがわかるわけである(この時代に「場つなぎ表現」が生まれたという意味ではない。念のため)。
 そして明治以降の用例が、二葉亭四迷『浮雲』、夏目漱石『吾輩は猫である』というのも面白い。『浮雲』はご存じのように、言文一致体で描かれた、日本最初の本格的写実小説である。『吾輩は猫である』も苦沙弥先生の飼猫「吾輩」の眼を通して、その家や出入りする変人たちの言動をユーモラスな筆致で写し取り、批判、風刺した作品である。
 いずれの作品も、「場つなぎ表現」が効果的に使われている。
 このような表現は、使いすぎると話が幼稚に聞こえたり、たどたどしく感じられたりするが、適度に使いこなせば、逆に会話に自然に聞こえる効果がある気がする。

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 辞典には、ことわざだけを集めた「ことわざ辞典」と呼ばれるものがある。辞書編集者として私は、この「ことわざ辞典」を担当したことがない。別に避けていたわけではなく、機会がなかっただけである。
 それが最近になって、小学生向けのことわざ辞典に目を通す機会がたまたまあった。かつて勤務していた出版社の『例解学習ことわざ辞典』(第二版)という辞典である。第二版は2002年の刊行なので、刊行からすでに20年たっている。
 ことわざはある程度形が決まっているものなので、20年前のものでも、あまり変わりはないだろうと思って読み始めた。ところが、現在の感覚からするとどうなのだろうかと思うものがいくつかあった。
 たとえば、このコラムの第92回で書いた「蛇ににらまれた蛙」もそうだ。これは、「蛇に見込まれた蛙」が本来の言い方だが、近年は「蛇ににらまれた蛙」と言う人の方が多い。そのようなこともあって、私が担当した小学生向けの国語辞典『例解学習国語辞典』では、「蛇ににらまれた蛙」にしていると、そのコラムで書いた。
 『例解学習ことわざ辞典』では、本来の形の「蛇に見込まれた蛙」で立項されている。だが、もはや「蛇ににらまれた蛙」でいいのではないかと思った。
 そういう目で見ていくと、他にもある。
 「一銭(いっせん)を笑(わら)う者(もの)は一銭(いっせん)に泣(な)く」もそうだろう。本来の形は「一銭」だが、もはや「一円を笑う者は一円に泣く」がふつうだと思う。
 ここで、話が少しだけ脱線することをお許しいただきたい。この「一銭を笑う者は一銭に泣く」に関して、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)におもしろい解説が載っている。

 「貯蓄奨励用に公募され、二等に選ばれた標語が定着したもの。ことわざとしては作者が明らかな珍しい例である。大正八年のこの標語は、逓信省為替貯金局の公式の標語として最も古いものという」

というのだ。少し補足をすると、これは大阪の朝田喜代松さんが作った標語で、二等になった標語は別にもう一つある。一等はというと、「貯金は誰も出来るご奉公」というものであった。いかにも時代を感じさせるが、これにくらべて「一銭を笑う者は一銭に泣く」は、「貯蓄奨励」という枠を超えた、秀逸で普遍的な標語だったと思う。これのみ後世に残った理由もうなずける。
 よく言われることだが、「早起きは三文の徳」ももはや「三文の得」でいいような気がする。漢語の原義でも、「徳」は「得」に通じると考えられるからである。「徳」とも書くという注記は必要かもしれないが。
 「読書百遍義自ずからあらわる」はどうだろう。このことわざには出典があって、中国の歴史書『魏志‐王粛伝』の注に引く「魏略」に拠っている。原文には「読書百徧而義自見」とあり、「読書百徧義自ずから見(あらわ)る」と訓読される。だが、これはふつう「意自ずから通ず」という形で通用しているのではないだろうか。
 ことわざ辞典も、見出し語は広く通用している形に変えていいのではないか。本来の形にこだわることも大事だが、ことわざも変わるものだということを、受け入れるべきなのではないかと思う。

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 「絆(きずな)」については、このコラムの第364回で一度書いたことがある。そこでは、「絆」と結合して使われることが多い動詞は、「深まる」「深める」か、あるいは「強まる」「強める」かということについて考察した。詳しくはそのコラムをお読みいただきたい。
 その中で、「絆」は、今でこそ人と人との断つことのできない結びつきの意味で使われているが、もともとは馬、犬、鷹(たか)などの動物をつなぎとめる綱のことだったとも書いた。
 たとえば、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、次のような歌がある。

 「御厩(みまや)の隅(すみ)なる飼ひ猿は絆離れてさぞ遊ぶ」(353)

お馬小屋の隅にいる飼い猿は、綱を離れて(うれしそうに)遊んでいる、という意味で、これが「きずな」のもともとの意味である。この歌からも、「きずな」は古くはあまりいい意味の語ではなかったことがわかる。
 そして、つなぎとめるものということから、人と人とを離れがたくしているもの、断つことのできない結びつきという意味で用いられるようになる。ただしそれは、出家や往生をさまたげるものとして捉えられていたようだ。
 たとえば『平家物語』では、以下のように使われている。この例は『日本国語大辞典(日国)』で引用されているが少し補った。

 「妻子といふもの無始曠劫(むしこうごう)より以来(このかた)、生死(しようじ)に流転(るてん)するきづななるがゆゑに、仏は重ういましめ給ふなり」(10・維盛入水)

妻子というものは、遠い昔から生と死との世界に流転させる分かちがたい結びつきだから、仏は強く妻子への愛情を戒めていらっしゃるのだ、という意味である。『日国』ではこの『平家物語』の例はもっとも古い例として引用されているが、『平家物語』で初めて「絆」がこの意味で使われたわけではないだろう。この例から何がわかるのかというと、「絆」が表す断つことのできない結びつきとは、仏教的な考えが影響して、古くは出家や往生をさまたげるもの妻や子だったということである。以後の例も、『日国』で引用されているのは、ほとんどが断ち切れないもの、断ち切らなければならないものという意味で使われている。
 これがのちに、現在のような広く人と人との結びつきという意味で使われるようになる。ただ、その意味が生じたのはいつ頃なのか、実はよくわからない。推測の域を出ないのだが、明治以降なのかもしれない。その頃になると、今と同じような意味で使われている例が散見されるからである。
 「きずな」の例は『平家物語』のものがもっとも古い例だと書いたが、「きずな」とほとんど同じ意味で使われ、それよりも古い例のある語が存在する。「ほだし」である。しかもこの語は、「絆」と書かれることもあった。「ほだし」は動詞「ほだす(絆)」の連用形が名詞化した語で、馬などをつないで放れないようにするという意味だが、語源はよくわからない。現在ではほとんど使われることのない語だが、受身の助動詞「れる」の付いた「ほだされる」だけは、今でも使われている。「情にほだされる」などというときの「ほだされる」がそれである。相手の情にひきつけられて、心や行動の自由がしばられるという意味である。
 「きずな」と「ほだし」は同じような意味で使われてきた語だが、「ほだし」は忘れ去られてしまったのに、「きずな」の方にだけ人と人との結びつきというプラスの意味が生じ、使われ続けきたわけで、それはそれでとても興味深い。

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 「多読」という語は、もちろんご存じだろう。文字通り、本をたくさん読んだり、いろいろな本を読んだりすることである。
 ところが、語学教育の世界では、この語を少しばかり違った意味で使っているようだ。私がそのような「多読」を知ったのは、10年以上も前のことである。当時在籍していた出版社の外国語辞典編集部から、英語の「多読」に関する書籍が何点か刊行されたことによる。
 そのときに「多読」とは、英語の場合だと、やさしい英語で書かれたものをたくさん読み、少しずつレベルを上げて使える英語を身につけるものだということを知った。私も学生時代多少経験のある、辞書を片手に英語のペーパーバックを読むという学習法とはまったく違っていた。ただそのときは、このような「多読」の意味を国語辞典にも載せるべきかどうか少し考えただけで、担当していた辞典には時期尚早だと判断して載せず、それっきりにしてしまった。
 それが最近になって、日本語学習者の「多読」のお手伝いをすることになった。「日本語多読道場 yomujp 」というウェブサイトから、私に「多読」のための文章を書いてほしいと依頼されたのである。私が書くものだから、辞典や日本語に関する話でいいという。
 このサイトは、言語学や日本語教育などの書籍を主に出版している株式会社くろしお出版が運営している。「道場主」である同社社長が、日本語学習者向けの「多読」のための読み物が少ないことを見かねて、自ら立ち上げたと聞いた。
 日本語教育の知識などまったくない私が、恐る恐る何本か文章を書いてみると、文章チェック担当の日本語教育の専門家から、思いがけない指摘を受けた。それが、国語辞典の弱点だとかねがね私が思っていたことなので、前置きがいささか長くなったが、この場をかりてそのことについて触れてみたい。

 ひとつは、連語を多用しない方がよいということであった。連語とは「二つ以上の単語が連結して、一つの単語と等しいはたらきをもつ一まとまりをなしているもの」(『日本国語大辞典(日国)』)のことだが、特に注意すべきだと指摘されたのは、助詞に相当するような連語の多用である。たとえば、「をして・について・をもって・によって」などがそれで、このような語を「複合辞」と呼ぶこともある。
 私が注意されたのはたとえば以下のような文章である。

 私は長い間、国語辞典(こくごじてん)の編集(へんしゅう)の仕事をしてきました。国語というのは日本の言語、日本語のことです。つまり国語辞典(こくごじてん)というのは、日本人向(む)けの日本語の辞典(じてん)ということになりますです。

 文中の「という」が、取り消し線もあるようにそれに該当する。確かにこれだけの文章の中に「という」を3回も使っていて、我ながら悪文もいいところである。どうもこの「という」は私の書き癖で、いままでも頻繁に使っていたということを思い知らされた。
 それはさておき、この手の連語は、実は小型の国語辞典ではあまり立項されていない。載せだしたらキリがないということもあるが、あまり重視されていなかったことも事実なのである。
 私もかねがねそのことが気になっていて、かつて『使い方の分かる 類語例解辞典』という類語辞典の編集を担当したときに、助詞・助動詞の解説欄で、執筆者に積極的に連語を取り上げてもらったことがある。ちなみに「という」は、『類語例解辞典』では、「同格・内容説明を表わす」語として、「といった」「との」と比較して解説している。

 もう一つ注意するようにと言われたのは、複合動詞はなるべく避けるということだった。複合動詞とは、「動詞を後部要素として、これに動詞、または他の品詞が複合してできた動詞。『呑み込む』『恥じ入る』『長びく』『相手取る』『値する』の類」(『日国』)である。
 日本語学習者は、単独の語の意味は理解できても、単語が結びつくと意味がわからなくなることがあるらしい。このような複合動詞も、小型の国語辞典では積極的に立項していない。やはり、キリがないというのがその理由である。
 すべての国語辞典を、日本語学習者向けにすることなど、無理な話だろう。だが、もう少しそのような人向けに配慮した辞書も必要なのではないかと思った。

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 化粧をしない、本来のままの顔を「すっぴん」と言う。この「すっぴん」を、化粧をしていなくても美しい人のことをいった語だという説があるらしい。美しい女性、美人のことをいう「べっぴん」と関係のある語だというのが、その理由のようだ。
 確かに、「すっぴん」と「べっぴん」は「ぴん」が共通している。だが、辞書編集者からすると、2語は直接関係のある語とは思えない。
 以下、私見を述べてみる。
 辞書で「すっぴん」を引いてみると、多くが「素っぴん」という表記になっている。ただ、実際には、「スッピン」と片仮名で書くことも多いかもしれない。「素」は、ただそれだけの、ありのままのといった意味だが、実は、「すっぴん」という語がどのようにして生まれた語なのか、よくわかっていない。だから辞書では「ぴん」の部分は漢字が当てられていないのである。
 関係のありそうな語に、比較的古くからある「素面(すめん)」「素顔(すがお)」がある。「すっぴん」と同じ化粧をしていない顔という意味で、どちらもイエズス会宣教師が編纂した『日葡辞書』(1603~04)にも見られる。
 「すっぴん」は、この「素面」から生まれた語だという説がある。ただし、「すめん」がどうして「すっぴん」になったのかはよくわかっていない。
 推測の域を出ないのだが、芝居や歌舞伎で使われていた可能性はある。『日本国語大辞典(日国)』にも引用されているが、『笑解 現代楽屋ことば』(1978年 中田昌秀著)には、

 「すっぴん 化粧をしないこと。素面」

とある。この本は、劇場などの楽屋で役者や芝居関係者が使う隠語を集めたもので、著者は舞台やテレビのプロデューサー、放送作家として、長年演劇界、芸能界などと深く関わってきた人である。文字化された「すっぴん」の例は多くはないが、この本で取り上げられているように、芝居関係者が古くから楽屋で化粧を施した顔に対する語として使っていたのかもしれない。
 一方の「べっぴん」は、本来は特にすぐれた品物や人物という意味で使われていた。品物にも使われていたくらいだから、女性に限らず男性についても言っていたようだ。そのため、古くは「別品」とも書かれていた。
 それがのちに、女性の容姿に限られて使われるようになり、「別嬪」とも書かれるようになったのである。「嬪」は女性の美称だ。
 ただ、『日国』によれば、「明治時代では、美人の意で『別嬪』も『別品』も見られ、作家によっても偏りがある」らしい。たとえば森鴎外は「別品」派だったようだ。小説『雁(がん)』(1911~13)でも、主人公の岡田が金貸しの妾お玉を評するとき「別品」を使っている。
 これらを考え合わせると、「すっぴん」と「べっぴん」の「ぴん」はやはり別のものという気がしてくる。2語が関係がないという証拠は希薄だが、といって関係があるという証拠もない。
 「すっぴん」が美しい女性がいることはわかる。だが、それは語の意味とは何の関係もないことだと思う。

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