「シーン」は、物音や話し声が聞こえず、あたりが静まりかえっているさまを表す語である。辞書の見出しは「しいん」だが、「シーン」と書かれることが多いかもしれない。ただここでは話の都合上、「しいん」と表記する。
 なぜ静まりかえったさまを「しいん」と表現するのか。音がしなくても空気の振動を鼓膜が感じて、そのように聞こえているからだという説があるらしい。だが真偽は別として、「しいん」という語自体は、鼓膜が感じる音を直接表現したものではないだろう。
 あたりが静まりかえっているさまを表す語は、古くから、「しいん」の他にも、「しん」「しんしん」「しんかん」などがあるからだ。「しいん」「しん」は漢字で書かれることはないが(「蕭然」「寂然」などに「しん」とふりがなを振った例はある)、「しんしん」は「森々」「深々」、「しんかん」は「深閑」「森閑」と書かれる。いずれも「しん」で共通するので、何らかの関係があるのかもしれない。
 『日本国語大辞典』によれば、「しん」と「しいん」では、「しん」の例の方が古い。

 *俳諧・毛吹草〔1638〕一「春をしたへる哥や案ずる お座敷は三月しんとしづまりて」

 春を慕う歌をあれこれ考えていて、3月の座敷は静まりかえっているという意味だろう。
 「しいん」の方は、『日国』を見る限り、大正になってからの例が最も古い。

 *末枯〔1917〕〈久保田万太郎〉「四辺(あたり)はシインとして来る」

 後発の「しいん」は、「しん」を強調して生まれた語だろう。
 「深々」は、『日国』によれば、「奥深く静寂なさま。ひっそりと静まりかえっているさま。森森(しんしん)」とあり、

 *平家物語〔13C前〕二・一行阿闍梨之沙汰「冥々として人もなく、行歩(かうほ)に前途まよひ、深々として山ふかし

の例が最も古い。
 ただ『平家物語』のこの例は、解釈が分かれている。『日国』で使用した『平家物語』の底本は、岩波書店の「日本古典文学大系」で、この本文は龍谷大学本によっている。大系本ではこの「深々」の頭注に、「正しくは森々か。樹木が生い茂ること」とある。
 龍谷大学本は、南北朝期の代表的な琵琶法師覚一が書き遺した、覚一本と呼ばれる語り本系の伝本である。
 覚一本は広く読まれたようで、小学館の『日本古典文学全集』も同じ覚一本系の高野本(東京大学国語研究室蔵)を底本にしている。こちらも「深々として山ふかし」だが、やはり頭注に板本の元和版が「森々」なので、「ここは『森々』か」とある。
 つまり、底本のまま「深々」と考え、「奥深く静寂なさま、ひっそりと静まりかえっているさま」の意味だとする『日国』と、「深々」ではなく「森々」が正しく樹木が生い茂っているさまという意味ではないかとする大系や全集と、異なった二つの解釈があるわけだ。
 『日国』の用例部分にかかわった者としてひと言述べさせていただくと、『日国』では基本的に誤記説は採らない。底本の表記を尊重するようにしているのだ。従ってこの場合は底本通り「深々」と判断する。
 またこれは素人考えながら、『平家物語』のこの例は、真っ暗なので人もなく、行く手もわからぬ道をさまよい歩いて行くということである。だとすると、「森々として山ふかし」で山は樹木が生い茂って深いと解釈するよりも、山はひっそりと静まりかえって深いと解釈した方がよさそうな気がするのだがいかがだろうか。
 また、「森々」は、樹木が高く生い茂ったさまをいうが、「深々」と同じように、あたりがひっそりと静まりかえっているさまを表すこともある。『日国』にはその意味の例も3例引用されている。「深々」「森々」は音が同じこともあって、意味が交錯しているのだろう。
 そして興味深いのは、「深」「森」という漢字には、元来「しずか」という意味はないことである。やはりひっそりと静まりかえっているさまを表す「森閑」「深閑」という語はあるが、これは「閑」が「しずか」という意味である。
 「しん」「しいん」がなぜ「しずか」という意味になったのか、俳諧『毛吹草(けふきぐさ)』ではないが、考えれば考えるほど「しんとしずまり」かえってしまいそうだ。

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 他の語について形容詞を作る接尾語の一つに「っぽい」がある。「子どもっぽい」「白っぽい」「俗っぽい」「飽きっぽい」などの「っぽい」である。「ぽい」の形でも使われるが、通常は促音「っ」の入った「っぽい」の形で使われることが多い。
 『日本国語大辞典(日国)』では、「っぽい」を4つの意味に分けて説明している。

(1)名詞に付いて、それを含む度合いが大きい、それによく似た性質である、の意を表わす。多くは、好ましくないことについていう。
(2)色の名に付いて、その色を帯びているの意を表わす。
(3)形容詞・形容動詞の語幹に付いて、その性質が表面に現われている、いかにもそういう感じであるの意を表わす。好ましくないことについていう。
(4)動詞の連用形に付いて、すぐに…する傾向が強い、の意を表わす。好ましくないこと についていう。

 冒頭で掲げた語例では、(1)「子どもっぽい」、(2)「白っぽい」、(3)「俗っぽい」、(4)「飽きっぽい」ということになる。(2)以外は、「好ましくないことについていう」といった補足説明があるが、なぜそのような意味になるのかよくわからない。そもそも、この「っぽい」がどうして生まれたのかもよくわからない。ただ、「飽きっぽい」は滑稽本『浮世風呂』(1809~13年〕の、「荒っぽい」には雑俳『柳多留・一五編』(1780年)の例があるので、江戸時代から使われていたことだけは確かである。
「っぽい」は造語力が強いらしく、「~っぽい」という語を盛んに増殖させている。どれくらい造語力が強いかというと、固有名詞とも結びついて「神永っぽい」などと言うこともあるくらいだ。もっともこの手の語が辞典に載ることは絶対にないが。
『日国』の編集委員だった松井栄一先生は、この「っぽい」の付く語は積極的に『日国』に載せるべきだと考えていたようだ。
 御著書の『国語辞典にない言葉』(南雲堂 1983年)、『続・国語辞典にない言葉』(南雲堂 1985年)を見ると、『日国』第一版で立項はされているものの用例が無い、あるいは1つだけしか用例の無い語や、「寒っぽい」「涙っぽい」のようなやや特殊な語について、第一版刊行後採集した用例を紹介している。これらの用例は、その後刊行された第二版でほとんど反映されている。
 現在、『日国』の第二版には数え方にもよるが、末尾に「っぽい」「ぽい」が付く語は128語ある(方言も含む)。ただ、現時点でも用例のない語がいくつかある。松井先生は2018年に逝去されたので、それらの語の用例を探し出すことは、後を引き継いだ者の使命だと考えている。
 同時に、第二版では立項されていない「っぽい」の付く語を増補することも忘れてはならないだろう。収録できなかった語がまだ見つかるからだ。
 たとえば、徳田秋声の『縮図』(1941年)という小説には、「人情っぽい」(素描・四)がある。また、やはり徳田秋声の『仮装人物』(1935~38年)には「濁りっぽい」(一七)がある。
 太宰治は、『音に就いて』(1937年)というエッセーの中で、「ごみっぽい」を使っている。この「ごみっぽい」は『日本方言大辞典』(小学館)によれば、長野県佐久地方の方言である。太宰は津軽出身だから、太宰の「ごみっぽい」は方言ではなく太宰が普通に使っていた語なのかもしれない。確かに日常会話の中でそのように言ってもおかしくはない。
 「っぽい」の付く語は、集中的に探せばさらに見つかりそうだ。松井先生がご存命だったら、用例があるのなら積極的に『日国』に載せようよ、とおっしゃるに違いない。

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 仕事で、三重県桑名市に行く機会があった。伊勢湾に面している桑名は、何よりもハマグリの産地として知られている。特に「焼き蛤」が有名だ。ただし近年は干潟の減少により、水揚げ量は激減しているらしい。
 桑名の焼き蛤がどれほど有名かというと、昔から「その手は桑名の焼き蛤」という語があるくらいなのである。『日本国語大辞典』には、以下のような例が引用されているので、江戸時代から知られていたらしい。

*洒落本・品川楊枝(しながわようじ)〔1799〕「又はづさうと思って、其手はくはなのやき蛤(ハマクリ)、四日市夜のつきゑゑだア」

 「その手は桑名の焼き蛤」は、「食わない」の「くわな」と地名の「桑名」とを言いかけ、さらにそれを桑名名物「焼き蛤」とした語である。その手にはのらないという意味のしゃれである。
 このような語呂によってもとの文句をもじっていう語を、「無駄口」などという。相手のことば尻をとらえて茶化したり、まぜかえしたりするときや、自分の言おうとしていることばをストレートには言わずに、おどけてみせるときなどに使う。
 映画「男はつらいよ」で、渥美清が演じたフーテンの寅さんが啖呵売(たんかばい)で言う、「結構毛だらけ猫灰だらけ」も「無駄口」の一種である。しかもこれは、同音の「け」で始まる語と、末尾が「け」となる語を重ねただけなので、まさに意味のない「無駄口」である。寅さんはこの後、「見上げたもんだよ屋根屋(やねや)の褌(ふんどし)」と続けていた。寅さんはいささかお上品なようで、「見上げたもんだよ屋根屋の金玉(きんたま)」と言うこともある。褌の中から・・・ということである。
 かつて私は、このような「無駄口」を集めて1冊の辞典が作れないかと企んだことがあった。だが、その野望はいとも簡単に打ち砕かれた。調べてみると、この手の語はそれほど多く集められなかったからである。
 2004年に『日本語便利辞典』という、辞典の付録に載せるような内容のものを集めた辞典を編集したことがある。そこに30語ほどの「無駄口」を収録したのだが、それが私が集められた主なものだった。これだけではとても一冊の辞典にはならない。
 だがどうしても諦めがつかず、もう少し範囲を広げて、「しゃれことば」とでも呼べそうな語を集めてみることにした。今は使わなくとも、江戸時代には使われていた語も合わせて探してみた。
 たとえば、「からすの昆布巻(こぶまき・こんまき)」というのがある。カラスの鳴き声を「かかあ(嚊)」にかけ、それに巻かれるの意でかかあ天下、恐妻家のことをいうしゃれである。
 「くろいぬのお尻(いど)〔尻(けつ)〕 」などというのもある。黒犬だから「尾も白くない」「尾も白うない」に「面白うない」をかけたしゃれである。
 「御浦山吹日陰紅葉」は「おうらやまぶきひかげのもみじ」と読むのだが、「羨(うらや)ましい」を「浦山」にかけ、「日陰の身」を「日陰の紅葉」にかけたしゃれで、自分の境遇にくらべて他を羨む気持ちを表す。
 「御髭(おひげ)の塵助(ちりすけ)」のように人名めいた語もある。 「御髭の塵を払う」から、人にこびへつらう者のことをいう。
 きりがないのでこの辺でやめておくが、集めただけで、結局形にはできなかった。このような語をいったいだれが面白がるんだ?と次第に熱が冷めてしまったことが最大の理由であった。
 とはいうものの、今でもつい口に出して言いそうな無駄口はある。

「ありが鯛(たい)なら芋虫(いもむし)ゃ鯨(くじら)」
「ありがたい」というしゃれ。「あり」に蟻、「たい」を鯛にかけてその大きさの違いをいった語である。
「来たか長(ちょう)さん待ってたほい」
とうとうお出でなさったかという軽口である。「長さん」に意味はない。

 こちらもキリがなさそうだ。
 桑名の赤須賀という漁港でおいしい焼き蛤を食べながら、「無駄口」のことをつい思い出したのである。

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 最近、ある国際政治学者が「大喪の礼」を「たいもの礼」と言って、ネット上で話題になっていた。この政治学者を擁護するつもりはないのだが、ほんとうに「大喪」を「たいも」と読んではいけないのだろうか。辞書編集者としてはそれが気になる。
 『日本国語大辞典(日国)』で「たいそう(大喪)」を引くと、
 「天皇・太皇太后・皇太后・皇后の喪に服すること」
と説明されている。そして、この語釈の末尾には、同義語として「たいも」とある。これは一体何なのだろうか。さらに『日国』では、「たいも(大喪)」が立項されている。そこでは「『たいそう(大喪)』に同じ」とある。「大喪」は、「たいも」と読まれる可能性もあったわけだ。
 『日国』の「たいそう(大喪)」の用例は、次の2例である。

*公議所日誌‐一八・明治二年〔1869〕六月「且国家大喪ある毎に、此令を設けば、囹囲の囚縲、君上の不諱を悦び待たざるを不得」
*皇室服喪令(明治四二年)〔1909〕一九条「天皇、大行天皇、太皇太后、皇太后、皇后の喪に丁るときは大喪とす」

 公的な文書なので、当然のことながらどちらも「大喪」の読みは示されていない。このような読みが確定できない語は、『日国』では、通用している読みの方に用例を寄せ、可能性のある読みを参照見出しとして示すようにしている。「大喪」は、まさにそれに当たると判断したわけである。
 「たいも」と読む可能性が高いのは、2番目の『皇室服喪令』だろう。
 この『皇室服喪令』は、「こうしつふくもれい」とも「こうしつふくそうれい」とも読まれる。ただ「服喪」は、「ふくも」と読むことの方が多いかもしれない。
 『皇室服喪令』は、文字通り皇室の服喪の制を定めたものだが、「喪に服す」という語がしばしば使われている。引用した第19条では、天皇、大行天皇、太皇太后、皇太后、皇后の喪に丁(あた)るときは特に「大喪」とするとしているのである。頻出する「喪に服す」の「喪」は「も」だろうから、「大喪」は「たいも」と読むのかもしれない。
 「喪」という漢字は、字音が「そう」、字訓が「も」なので、「たいも」と読むと重箱読みになる。だが、実際には「喪」という漢字は重箱読みではないが、湯桶(ゆとう)読みにされることは少なくない。「喪章」「喪服」「喪主」の「喪」は「も」である。
 天皇,皇后等の葬儀のやり方を定めたのは、1926年に公布された『皇室喪儀令』からである。これは「そうぎれい」と読む。ただし、この法令では「大喪」ではなく、「大喪儀」という語が使われている。「たい・そうぎ」ではなく「たいそう・ぎ」で、「大喪の儀式」という意味である。『日国』ではこの『皇室喪儀令』を用例として、「大喪儀」で立項している。
 冒頭の国際政治学者が言った「大喪の礼」を定めたのは、1949年(昭和24)に改正された『皇室典範』第25条である。そこには、「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」とある。これにもふりがなはないが、『皇室喪儀令』から受け継いでいるのだろう、多くの人は「たいそうのれい」と読んでいる。
 確かに、「大喪の礼」は現在では「たいそうの礼」と読みならわされている。だから、「たいもの礼」はやはり違和感がある。だが、かつては「大喪」を「たいも」と読んでいた可能性もあったのである。
 ことばにかかわる者として、ことばの答えは一つとは限らないと思うのである。

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 このコラムを連載しているジャパンナレッジに、新たなコンテンツとして『使い方の分かる 類語例解辞典』(小学館)が加わった。
 この辞典の書籍版の発売は1993年のことなので、刊行からすでに30年近くたっている。にもかかわらず、今回新たにジャパンナレッジに収録されたということは、今でも需要があるからなのだろう。この辞典に企画の段階からかかわった者として、実に喜ばしい。
 この辞典が生まれる経緯や編集上の苦労話は、拙著『辞書編集、三十七年』(2018年 草思社)で詳しく書いたので、興味のあるかたはそちらをお読みいただきたい。
 この辞典の企画を立ち上げた当時、類語辞典には、やはりジャパンナレッジに収録されている『角川類語新辞典』(1981年 角川書店)があった。だが私としては、収録語数は限られていても、類語のニュアンスの違いを詳しく解説した辞典を世に問うてみたかったのである。そのような辞典はそれまでなかったし、今でも多くはない。
 似た意味の語をどれだけ知っているかで、文章力に差が出ることは、皆さんも経験があるだろう。ただ、知っていればいいというわけではない。それらの語をどのように使いこなすかが重要なのである。
 『類語例解辞典』では、類語のニュアンスの違いを説明するのに、1985年に初版を刊行した『現代国語例解辞典』でも使用した「類語対比表」を採用した。『現代国語例解辞典』も、私が企画の段階から編集にかかわった辞典である。「類語対比表」は『日本国語大辞典』の編集委員だった松井栄一(まついしげかず)先生の発案である。
 『類語例解辞典』では、たとえば「体の調子がよくて、気力、体力が盛んな様子」を意味する、「元気/健康/丈夫/達者」の各語を類語のグループとして一つにまとめ、それぞれの語のニュアンスの違いを解説している。「類語対比表」はすべてのグループで使ったわけではないが、「元気/健康/丈夫/達者」にはある。
 これらの4語は、「~な体」という場合、4語とも問題なく使えるが、「足が~」だというときは、「丈夫」「達者」を使うのが適切だということがわかる。その理由として、この2語は体の一部がしっかりしているさまを表す語だからだと説明されている。
 また、これらの4語の他に、「息災/壮健/健全/強壮/強健/頑健/健勝/健やか」といった関連する語も添えて、それぞれに意味と使い方を示し、類語の範囲を広げている。
 今回、この辞典がジャパンナレッジに収録されて、デジタルならではの検索ができるようになったのも、使い勝手がよくなった点だと思う。たとえば、「元気」は「活気/元気/生気」というグループも形成しているのだが、すぐにその解説に飛ぶことができるのである。
 また、『類語例解辞典』では、「元気/健康/丈夫/達者」のような類語グループを、10の大分類、それをさらに20の中分類に分けた、計200分類の枠の中に収めている。ジャパンナレッジ版では、ある語を検索すると、中分類に収められた類語グループが一括して表示されるのもありがたい。この類語グループの分類も、ほとんど私が作成したものである。根気のいる作業で、ことばを分類することの難しさをつくづくと思い知らされた。
 現在発売中のこの辞典の書籍版は、2003年に内容は変えずに本文と装丁のデザインを新たにし、新装版と名付けたものである。実は、その前の版は、本文デザインも装丁も私が手がけた。それはそれでとんでもない話だが、それだけにこの辞典に対する思い入れはひとしおなのである。そのため、今回いささか宣伝めいた内容になってしまったことはお許しいただきたい。
 ただ一つ、心残りなことがある。辞典のジャンルとして、類語辞典の重要性をもっと広めたいと思いつつ、在職中に果たせなかったことである。
 ジャパンナレッジには、『類語例解辞典』『角川類語新辞典』という個性的な二つの類語辞典が収録されるようになったので、ともに大いに活用していただきたい。

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