もちろん「平素」は、通常は「へいそ」と読む。ごくあたりまえの状態や状況の中で生活しているとき、という意味である。「平素から健康にはじゅうぶん注意している」とか、手紙などでは「平素のごぶさたをお許しください」などと使う。
 だったら、他にいったいどんな読み方があるのだ、と思ったかたもいらっしゃるに違いない。
 日本語には、「熟字訓(じゅくじくん)」と呼ばれている読み方ある。漢字2字に一つの訓を対応させた語のことで、「大人(おとな)」「紅葉(もみじ)」「今日(きょう)」などがそれである。「熟字訓」の主なものは、「常用漢字表」の付表に掲載されていて(熟字訓以外の当て字も含む)、この付表はインターネットで見ることもできるので興味のあるかたはぜひご覧いただきたい。けっこう難読語もあると思う。
 今回取り上げた「平素」は付表にはないが、昔の作家はこの語をけっこう自由に読ませようとしていたので、紹介してみたいと思う。引用した例は、その作家独自の読み方とは限らないものも多いし、また、その作家も読みを固定せず、時として使い分けていることもある。

「平素(いつ)」:「糠袋には平素(いつ)よりも多分の洗粉を仕込み」(尾崎紅葉『二人女房』(1891~92))

「平素(ひごろ)」:「さなきだに平素(ひごろ)より随喜渇仰の思ひを運べるもの」(幸田露伴『五重塔』(1891~92))

「平素(つね)」:「平素(つね)には似ず、大袈裟に一つぽっくりと礼をばする」(幸田露伴『五重塔』(1891~92))

「平素(しょっちゅう)」:「平素(しょっちゅう)もう疑惧(うたがひ)の念を抱いて苦痛(くるしみ)の為に刺激(こづ)き廻されて居る自分の今に思ひ比べると」(島崎藤村『破戒』(1906))

「平素(ふだん)」:「平素(ふだん)から芸人には似合はない一本気な我儘な御世辞のない瀬川のこと」(永井荷風『腕くらべ』(1916~17))

「平素(いつも)」:「意外にも、その日の曾根は涙ぐんでゐるやうな人であった。何となく平素(いつも)よりは萎(しお)れてゐた」(島崎藤村『家』(1910~11))

 これらの例を見ると、要するに「平素」は「いつ」「ひごろ」「つね」「しょっちゅう」「ふだん」「いつも」という語と同義語だということがわかる。ただ、それぞれの例文を丹念に見ると意味が微妙に異なるので面白い。中には、「平素」と書いていながら、「へいそ」と読ませると印象が硬くなってしまうため、わざわざ柔らかな和語で読ませようとしたのではないかと思えるものもある。
 このように熟語を自由に読ませることができる日本語って、本当に面白いと思う。そして、それを表現できるルビ(振り仮名)も、すごい発明だったのではないだろうか。感心しているのは私だけかもしれないが。

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 最近は手紙を書くことがほとんどなくなり、用件はもっぱらメールで済ませてしまう。ただメールでも、手紙の形式に則って書いた方が据わりがいい気がするので、末尾に「時節柄ご自愛下さい」などと、いかにも手紙文らしい文章を添えることもある。どちらかといえば儀礼的に添えていたものだが、このコロナ禍にあっては、「自愛」ということばの重みが増した気がしてならない。自分も含めて、今は「自愛」するしかないのだというような。
 ところで、この「自愛」ということばだが、手紙の中で普通に使われるようになったのは、いったいいつ頃からなのだろうか。この語自体の使用例はけっこう古く、『日本国語大辞典(日国)』によれば、奈良時代の史料を集めた「寧楽遺文(ならいぶん)」(竹内理三編)所収の『家伝』(760年頃)で使われている。だが、これは手紙文ではない。
 『日国』ではその次に引用されている『明衡往来(めいごうおうらい)』(11世紀中頃)の例が、手紙文のものである。「往来」とは手紙のことで、『明衡往来』は、男子用の手紙の文例集である。そこで「自愛」は、「自愛玉躰、不可混風塵之客」という文章の中で使われている。「玉躰」は「玉体」で相手の体を敬っていう語、「風塵」は俗世間のことなので、自愛なさって、俗世間の雑事に煩わされないように、ということのようだ。
 その後も「自愛」は手紙文の中で使われ続けたようで、『日国』には引用されていないが、『浮世風呂』『浮世床』の作者として知られる式亭三馬 (しきていさんば)撰の『大全一筆啓上 (たいぜんいっぴつけいじょう)』(1810年)という手紙文例集にも使用例がある。そこに収録された病気見舞いの手紙の文例の中に、「折角御自愛可被成候」とある。「折角御自愛なさるべく候」と読み、「折角」は、つとめて、全力を傾けてという意味だ。この『大全一筆啓上』は、インターネットでデジタル画像を閲覧できるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。お家流の立派な文字で書かれている。この本は模刻本(複製本)も数多く存在するので、かなり売れたのかもしれない。だとすると、これによって「自愛」の文例が広まった可能性はじゅうぶんにある。
 極めつけは、『日国』で引用している、明治時代の小学校の国語の教科書『小学読本』(若林虎三郎編 1884年)の以下のような例だろう(読みを補った)。実は今回のタイトルには、その一部を使っている。
 「厳寒の時節尊体御自愛専一に被遊候(あそばされそうろう)」(五)
 若林編の『小学読本』は、明治期に検定教科書が生まれる以前の教科書である。この教科書がどの程度使われたのか不明ながら、小学生にこのような手紙の文章を教えようとした点が何よりもすごいと思う。「時節柄、ご自愛専一にてお願い申し上げます」という表現は、今でも改まった手紙で時々見かけるが、こんな手紙を小学生からもらったら、きっと腰を抜かしてしまうに違いない。
 それはさておき、今このようなときに「自愛」を呼びかけることは、つくづく大切なことだと思う。だから、時節柄どうか皆さまもご自愛くださいますように。

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 それまでのいきさつや気持ちを一度リセットして、物事を新たにやり直すことを「新規まき直し」と言う。『日本国語大辞典(日国)』では、二葉亭四迷の小説『其面影』(1906年)の

 「如何(どう)だ、君、帰って最(も)う一遍新規蒔直しを行(や)っちゃ?」(七七)

など、すべて明治以降の例だが4例引用している。
 ところが、この「新規まき直し」を「新規まき返し」と言う人がいるらしい。先頃発表された2019年(令和元年)度の「国語に関する世論調査」で、「新規まき直し」を使う人が42.7%、「新規まき返し」を使う人が44.4%という結果が出た。つまり、本来の言い方ではない「新規まき返し」を使う人の方がわずかだが多いのである。しかも特に20 代~60 代では,「新規まき返し」を選択した人の割合の方が多い。
 「『新規まき返し』と言う人がいるらしい」と書いたのは、なぜこのような結果になったのか、私にはいささか疑問があるからだ。といっても、文化庁の調査自体がおかしいということではない。
 実は、「新規まき返し」の実際の使用例を、私はほとんど見つけることができないのである。わずかにインターネットでの使用例を見つけただけなのだ。口頭ではそのように言うことが多いのかと思って、国会会議録で検索しても、「新規まき返し」は1件も見つからない。だとしたら、いったいどこで使われている言い方なのだろうか。
 「まき直し」は、引用した『其面影』の例にもあるように、「蒔き直し」と書くことも多い。これは、もともとは一度まいた種子を改めてまくという意味で、これから、初めからやり直すという意味になったと考えられているからである。ただ、『日国』にはもう一つ、「巻物をひろげると、元にもどすためには初めから巻き直す必要があるというところから、『巻直』の字を当てるべきだともいう」という説も紹介している。「蒔き直し」ではなく「巻き直し」と書いても間違いではないということのようだ。
 一方の「まき返し」は「巻き返し」で、何か巻くものを巻き移したり、広げてあるものを巻いてもとに戻したりするという意味である。これから、「劣勢の状態から勢いをもり返して、反撃すること。勢いを得て攻撃に転じること」(日国)という意味にもなったわけである。
 従って、「新規」と結びつけて使う場合は、やり直すという意味の「まき直し」は自然だが、反撃するという意味の「まき返し」は、おかしな意味になってしまう。
 「まき直し」と「まき返し」では、「なおし」と「かえし」の違いだけなのでつい間違えてしまうのかもしれない。だが、本来のものとは違う言い方をする人の割合の方が上回っているという調査結果は、やはり解せない。別に私は、本来のものとは違う言い方の使用例を積極的に集めているわけではないのだが、その例をほとんど見つけられないというのは、誰が使っているのだろうかと思ってしまうのである。といって、その例を複数見つけることができたら納得できる、という話でもないのだが。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。2014年11月18日の第187回国会参議院内閣委員会(第10号)における、ある出席者の発言である。

 「のべつくまなく全てのお客さんについて同じような判断方法、チェックリストを使ってやると、これはもう大変なことになるんじゃないかと私も危惧しております。」

 注目していただきたいのは、冒頭の「のべつくまなく」という言い方である。「のべつまくなし」の誤植ではないか、と思われたかたもいらっしゃるに違いない。だが、決して誤植ではない。国会会議録システムで「のべつくまなし」を検索すると、他の発言者のものも見つかる。
 この「のべつまくなし」「のべつくまなし」について、文化庁は2011年度の「国語に関する世論調査」で、どちらを使うか調査している。結果は「のべつまくなし」を使う人が42.8パーセント、「のべつくまなし」を使う人が32.1パーセントというものであった。「のべつくまなし」と言っている人が確実にいることがわかる。
 「のべつまくなし」は、「のべつ幕なし」とも書くが、「絶え間なく続くこと。また、そのさま。ひっきりなし。ぶっつづけ。」(『日本国語大辞典(『日国』)』)という意味である。これを「のべつくまなし」と言ってしまうのは、「まく」を「くま」とひっくり返して言ったもののように見えるのだが、どうもそれほど単純なことではなさそうなのだ。
 もう一度、冒頭で引用した国会参議院内閣委員会での発言をご覧いただきたい。この「のべつくまなし」を「のべつまくなし」の言い間違いだとして、「絶え間なく続くこと。また、そのさま。ひっきりなし。ぶっつづけ。」という意味で使っているだろうか。その意味に取れなくもないが、どこか据わりが悪い。「くまなし」は、「行き届かないところがない。万事に行き渡っている。抜かりがない。」(『日国』)。という語なので、ひょっとすると、「のべつ+くまなし」という言い方があるものと思い込み、すべて行き届かせるという意味で使っているのではないだろうか。だとすると、

 「四十七都道府県すべての地域で、のべつくまなく今申し上げたことをやれと言っているわけではなくて、例えば、雇用促進住宅の足りないところで公営住宅等の活用が見込まれるところを重点的に、こういう住宅を失う方々が早期に多数発生してしまうような地域において公営住宅等の活用がより円滑に行われるための検証をぜひ現場で行っていただいて」
(第171回国会 衆議院 国土交通委員会 第2号 平成21年1月13日)

という発言も同様の意味のものなのかもしれない。
 だが、ここまでだったら、「のべつくまなし」は「のべつまくなし」とは別の語と認識されているという結論を見いだせそうだが、話はさらに複雑になっていく。国会会議録にこんな発言が掲載されているからだ。

 「JASRACさんが、今回、音楽教室で楽曲を演奏されたりとかすることで課金されるということ自体、これ自体は私は否定するものではないんです。のべつ幕なく、全てにちゃんと著作者の権利を確保するという部分では、ルール化がちゃんとされていて」
(第193回国会 衆議院 予算委員会第七分科会 第1号 平成29年2月22日)

 この発言に見られる「のべつ幕なし」は、絶え間なく続くさまという意味ではなく、万事に行き渡っているという意味で使っているように思える。この発言の場合、3つの可能性が考えられる。発言者は「のべつくまなく」と言ったのだが、速記者が「のべつ幕なく」の言い間違いだと判断して修整してしまった。「のべつくまなし」に引きずられて「のべつ幕なし」の意味まで変化しつつある。それとも、発言者独自の用法なのか。
 今回、国会の会議録を元にして書いたのだが、「のべつくまなし」を使っているのは国会議員に限ったことではない。インターネットで検索してもけっこう見つかるのである。そして、「のべつまくなし」の意味の変化までも。「のべつくまなし」が辞書の見出し語になることはないだろうが、今後さらに広まっていく可能性はあり、「のべつまくなし」の意味の変化も含めて、観察を続けなければならない語なのかもしれない。

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 少し前のものだが、まずは以下のスポーツ新聞の記事をお読みください。

 「2年連続開幕投手を任された中日・大野が6回9安打6失点と大炎上。森新監督に初星を贈ることはできなかった。〈略〉チームは昨季最終カードの巨人戦〈略〉で2試合連続サヨナラ負けを喫した悪夢を振り払い、最下位からの巻き返しへ再スタートを切りたかったが、返り討ちにあう形となった。」(2017年4月1日「スポーツニッポン」)

 よくある内容のスポーツ記事(中日が巨人に負けることがよくあるという意味ではない。念のため)だと思う。なぜこれを引用したのかというと、「返り討ちにあう」の使い方に注目していただきたかったからである。
 『日本国語大辞典(日国)』で「返り討ち」を引いてみると、

(1)自分と関係のある人を殺傷した相手に復讐をしようとして、逆にその相手に討たれること。
(2)江戸時代、主人が下人を手討ちにしようとして、かえって下人に殺されること。この場合、家は断絶となった。
(3)転じて、一般に、相手にしかえしをしようとして、逆にまたやっつけられること。

以上の3つの意味が示されている。これらの意味に共通しているのは、(2)の意味は別にして、「復讐(ふくしゅう)」とか「しかえし」をしようとして、逆にやり返されるということである。(2)の意味も江戸時代の定めで、形としては下人の側に落ち度などがあったときに主人が手討ちにしようとしたという、前提のある意味だと思われる。
 ところが、冒頭のスポーツ新聞の記事を読むと、ここで使われている「返り討ち」には、「復讐」とか「しかえし」とかいった強い意味合いの前提はない。「返り討ちにあう」の形で、単に襲ってきた相手や戦う相手に(満を持して)応戦したものの、逆にやられてしまうという意味で使われている。実は、この襲ってきた相手に反撃したものの、逆に打ち負かされてしまうという意味は、この記事に限らずかなり広まっているようなのだ。
 おそらくこれは「返り討ち」が例えば、東川篤哉のミステリー小説『謎解きはディナーのあとで3』(2012年)にも、

 「犯人は凶器として木刀を用いております。風祭警部の推理によれば、この木刀は隆文氏が泥棒撃退のために自ら持ち出したもの。隆文氏はその木刀を泥棒に奪われ返り討ちにあった、警部はそう推理したのでございます。」(さよならはディナーのあとで)

とあるように、単に襲ってくる相手を打ち負かすという意味で使われるようになったためであろう。
 最近の国語辞典の中には、この新しい意味について触れているものが出始めている。『日国』も、実際の使用例もあることなので、語釈の内容を検討しなければならないようだ。

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