それまでのいきさつや気持ちを一度リセットして、物事を新たにやり直すことを「新規まき直し」と言う。『日本国語大辞典(日国)』では、二葉亭四迷の小説『其面影』(1906年)の

 「如何(どう)だ、君、帰って最(も)う一遍新規蒔直しを行(や)っちゃ?」(七七)

など、すべて明治以降の例だが4例引用している。
 ところが、この「新規まき直し」を「新規まき返し」と言う人がいるらしい。先頃発表された2019年(令和元年)度の「国語に関する世論調査」で、「新規まき直し」を使う人が42.7%、「新規まき返し」を使う人が44.4%という結果が出た。つまり、本来の言い方ではない「新規まき返し」を使う人の方がわずかだが多いのである。しかも特に20 代~60 代では,「新規まき返し」を選択した人の割合の方が多い。
 「『新規まき返し』と言う人がいるらしい」と書いたのは、なぜこのような結果になったのか、私にはいささか疑問があるからだ。といっても、文化庁の調査自体がおかしいということではない。
 実は、「新規まき返し」の実際の使用例を、私はほとんど見つけることができないのである。わずかにインターネットでの使用例を見つけただけなのだ。口頭ではそのように言うことが多いのかと思って、国会会議録で検索しても、「新規まき返し」は1件も見つからない。だとしたら、いったいどこで使われている言い方なのだろうか。
 「まき直し」は、引用した『其面影』の例にもあるように、「蒔き直し」と書くことも多い。これは、もともとは一度まいた種子を改めてまくという意味で、これから、初めからやり直すという意味になったと考えられているからである。ただ、『日国』にはもう一つ、「巻物をひろげると、元にもどすためには初めから巻き直す必要があるというところから、『巻直』の字を当てるべきだともいう」という説も紹介している。「蒔き直し」ではなく「巻き直し」と書いても間違いではないということのようだ。
 一方の「まき返し」は「巻き返し」で、何か巻くものを巻き移したり、広げてあるものを巻いてもとに戻したりするという意味である。これから、「劣勢の状態から勢いをもり返して、反撃すること。勢いを得て攻撃に転じること」(日国)という意味にもなったわけである。
 従って、「新規」と結びつけて使う場合は、やり直すという意味の「まき直し」は自然だが、反撃するという意味の「まき返し」は、おかしな意味になってしまう。
 「まき直し」と「まき返し」では、「なおし」と「かえし」の違いだけなのでつい間違えてしまうのかもしれない。だが、本来のものとは違う言い方をする人の割合の方が上回っているという調査結果は、やはり解せない。別に私は、本来のものとは違う言い方の使用例を積極的に集めているわけではないのだが、その例をほとんど見つけられないというのは、誰が使っているのだろうかと思ってしまうのである。といって、その例を複数見つけることができたら納得できる、という話でもないのだが。

キーワード:


 まずは以下の文章をお読みいただきたい。2014年11月18日の第187回国会参議院内閣委員会(第10号)における、ある出席者の発言である。

 「のべつくまなく全てのお客さんについて同じような判断方法、チェックリストを使ってやると、これはもう大変なことになるんじゃないかと私も危惧しております。」

 注目していただきたいのは、冒頭の「のべつくまなく」という言い方である。「のべつまくなし」の誤植ではないか、と思われたかたもいらっしゃるに違いない。だが、決して誤植ではない。国会会議録システムで「のべつくまなし」を検索すると、他の発言者のものも見つかる。
 この「のべつまくなし」「のべつくまなし」について、文化庁は2011年度の「国語に関する世論調査」で、どちらを使うか調査している。結果は「のべつまくなし」を使う人が42.8パーセント、「のべつくまなし」を使う人が32.1パーセントというものであった。「のべつくまなし」と言っている人が確実にいることがわかる。
 「のべつまくなし」は、「のべつ幕なし」とも書くが、「絶え間なく続くこと。また、そのさま。ひっきりなし。ぶっつづけ。」(『日本国語大辞典(『日国』)』)という意味である。これを「のべつくまなし」と言ってしまうのは、「まく」を「くま」とひっくり返して言ったもののように見えるのだが、どうもそれほど単純なことではなさそうなのだ。
 もう一度、冒頭で引用した国会参議院内閣委員会での発言をご覧いただきたい。この「のべつくまなし」を「のべつまくなし」の言い間違いだとして、「絶え間なく続くこと。また、そのさま。ひっきりなし。ぶっつづけ。」という意味で使っているだろうか。その意味に取れなくもないが、どこか据わりが悪い。「くまなし」は、「行き届かないところがない。万事に行き渡っている。抜かりがない。」(『日国』)。という語なので、ひょっとすると、「のべつ+くまなし」という言い方があるものと思い込み、すべて行き届かせるという意味で使っているのではないだろうか。だとすると、

 「四十七都道府県すべての地域で、のべつくまなく今申し上げたことをやれと言っているわけではなくて、例えば、雇用促進住宅の足りないところで公営住宅等の活用が見込まれるところを重点的に、こういう住宅を失う方々が早期に多数発生してしまうような地域において公営住宅等の活用がより円滑に行われるための検証をぜひ現場で行っていただいて」
(第171回国会 衆議院 国土交通委員会 第2号 平成21年1月13日)

という発言も同様の意味のものなのかもしれない。
 だが、ここまでだったら、「のべつくまなし」は「のべつまくなし」とは別の語と認識されているという結論を見いだせそうだが、話はさらに複雑になっていく。国会会議録にこんな発言が掲載されているからだ。

 「JASRACさんが、今回、音楽教室で楽曲を演奏されたりとかすることで課金されるということ自体、これ自体は私は否定するものではないんです。のべつ幕なく、全てにちゃんと著作者の権利を確保するという部分では、ルール化がちゃんとされていて」
(第193回国会 衆議院 予算委員会第七分科会 第1号 平成29年2月22日)

 この発言に見られる「のべつ幕なし」は、絶え間なく続くさまという意味ではなく、万事に行き渡っているという意味で使っているように思える。この発言の場合、3つの可能性が考えられる。発言者は「のべつくまなく」と言ったのだが、速記者が「のべつ幕なく」の言い間違いだと判断して修整してしまった。「のべつくまなし」に引きずられて「のべつ幕なし」の意味まで変化しつつある。それとも、発言者独自の用法なのか。
 今回、国会の会議録を元にして書いたのだが、「のべつくまなし」を使っているのは国会議員に限ったことではない。インターネットで検索してもけっこう見つかるのである。そして、「のべつまくなし」の意味の変化までも。「のべつくまなし」が辞書の見出し語になることはないだろうが、今後さらに広まっていく可能性はあり、「のべつまくなし」の意味の変化も含めて、観察を続けなければならない語なのかもしれない。

キーワード:


 少し前のものだが、まずは以下のスポーツ新聞の記事をお読みください。

 「2年連続開幕投手を任された中日・大野が6回9安打6失点と大炎上。森新監督に初星を贈ることはできなかった。〈略〉チームは昨季最終カードの巨人戦〈略〉で2試合連続サヨナラ負けを喫した悪夢を振り払い、最下位からの巻き返しへ再スタートを切りたかったが、返り討ちにあう形となった。」(2017年4月1日「スポーツニッポン」)

 よくある内容のスポーツ記事(中日が巨人に負けることがよくあるという意味ではない。念のため)だと思う。なぜこれを引用したのかというと、「返り討ちにあう」の使い方に注目していただきたかったからである。
 『日本国語大辞典(日国)』で「返り討ち」を引いてみると、

(1)自分と関係のある人を殺傷した相手に復讐をしようとして、逆にその相手に討たれること。
(2)江戸時代、主人が下人を手討ちにしようとして、かえって下人に殺されること。この場合、家は断絶となった。
(3)転じて、一般に、相手にしかえしをしようとして、逆にまたやっつけられること。

以上の3つの意味が示されている。これらの意味に共通しているのは、(2)の意味は別にして、「復讐(ふくしゅう)」とか「しかえし」をしようとして、逆にやり返されるということである。(2)の意味も江戸時代の定めで、形としては下人の側に落ち度などがあったときに主人が手討ちにしようとしたという、前提のある意味だと思われる。
 ところが、冒頭のスポーツ新聞の記事を読むと、ここで使われている「返り討ち」には、「復讐」とか「しかえし」とかいった強い意味合いの前提はない。「返り討ちにあう」の形で、単に襲ってきた相手や戦う相手に(満を持して)応戦したものの、逆にやられてしまうという意味で使われている。実は、この襲ってきた相手に反撃したものの、逆に打ち負かされてしまうという意味は、この記事に限らずかなり広まっているようなのだ。
 おそらくこれは「返り討ち」が例えば、東川篤哉のミステリー小説『謎解きはディナーのあとで3』(2012年)にも、

 「犯人は凶器として木刀を用いております。風祭警部の推理によれば、この木刀は隆文氏が泥棒撃退のために自ら持ち出したもの。隆文氏はその木刀を泥棒に奪われ返り討ちにあった、警部はそう推理したのでございます。」(さよならはディナーのあとで)

とあるように、単に襲ってくる相手を打ち負かすという意味で使われるようになったためであろう。
 最近の国語辞典の中には、この新しい意味について触れているものが出始めている。『日国』も、実際の使用例もあることなので、語釈の内容を検討しなければならないようだ。

キーワード:


 「知恵熱」という語を、『日本国語大辞典(日国)』で引いてみると、
 「生後六~七か月ごろの乳児に起こる発熱。知恵がつきはじめる時に起こると俗に考えたことからいう。」
と説明されている。これを読んで、おや?自分が使っていた意味とは違う、と思った人もいるかもしれない。おそらくその人は、頭を使いすぎたときに起こる熱の意味で使っているのではないだろうか。
 確かに、「知恵熱」は、人によって意味の取り方がまちまちで、例えば文化庁が発表した2016年度の「国語に関する世論調査」でも、「知恵熱が出た」を、『日国』の意味のように「乳幼児期に突然起こることのある発熱」で使う人が45.6パーセント、『日国』にはない「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」という意味で使う人が40.2パーセント、その両方を使う人は6.9パーセントという結果が出ている。
 『日国』では「知恵熱」の用例として、島崎藤村の『家』(1910~11年)という小説の、

 「『智慧熱といふ奴かも知れんよ』と三吉も言って見た」(上・六)

 という文章を引用している。引用文の前後を読むと、「三吉」の子の「お房」という乳児が熱を出していることがわかる。
 ところが、「知恵熱」を「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」という意味だと考える人がけっこういるのは、どうしたわけなのだろうか。
 その理由は不明ながら、私は「知恵熱」が「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味で使われるようになったのは、けっこう古くからのことではないかと考えている。
 というのは、「知恵熱」と同じ意味で『日国』にも立項されている「知恵ぼとり」という語がある。「ぼとり」は「ほとり」で、熱の意味である。『日国』には以下の2例が引用されている。

*雑俳・俳諧觽‐八〔1786〕「掛乞を見ると泣出す知恵ぼとり」
*滑稽本・和合人〔1823~44〕二・追加下「智慧は総身へ満ちて、智慧ぼとりで熱が出てならねへ」

いずれも江戸時代の用例だが、雑俳例の「掛乞(かけこい)」は掛売りの代金を請求する人のことだし、滑稽本例もたまにいい知恵を出すんだな、と言う相手に引用文のように答えているのである。この2例は、どうあっても乳児の熱ではないだろう。このように「知恵ぼとり」を「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味で使っているということは、「知恵熱」も古くからその意味で使っていた可能性がありそうなのである。ただ、その意味での「知恵熱」の使用例を、現時点では江戸時代までさかのぼって見つけることができないため、勝手な想像でしかないのだが。
 最後に、内輪の話なのだが、『日国』の「知恵ぼとり」の語釈は、「『ちえねつ(知恵熱)』に同じ。」となっている。これは問題がありそうだ。『日国』の「知恵熱」の語釈は、乳児の熱という本来の意味だけなのに、「知恵ぼとり」で引用されている2例は、見てきたように「深く考えたり頭を使ったりした後の発熱」の意味なのだから。『日国』の「知恵熱」の語釈は、「知恵ぼとり」と合わせて、加筆する必要がありそうだ。

キーワード:


 「ぞっとする」といえば、恐怖などを感じて、からだが震え上がるという意味である。たとえば、太宰治の『ヴィヨンの妻』(1947年)に

 「女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。」

とあるように使う。この場合は、泥酔した夫が帰宅したあとに、「ごめん下さい」という女の声が玄関でしたので、「私」が動揺したり恐怖を感じたりしたという意味であろう。
 ところで「ぞっとする」に対して、「ぞっと」と「しない」が結びついた「ぞっとしない」という言い方がある。「ぞっと」を否定しているわけだから、恐ろしくないという意味のように思えるかもしれないが、実はそうではないのである。
 たとえば、『日本国語大辞典』で引用されている夏目漱石の『草枕』(1906年)の例、

*草枕〔1906〕〈夏目漱石〉五「然もそれを濡らした水は、幾日前に汲んだ、溜め置きかと考へると、余りぞっとしない」

は、数日前にくんだ古い水に対して「ぞっとしない」と言っているが、その水が恐ろしくないという意味ではなさそうだ。ためおかれた古い水なので、いい気持ちがしないと言っているのである。
 つまり「ぞっと」は、「ぞっとする」と「ぞっとしない」とで、「ぞっと」の意味が異なるわけである。
 ところが、文化庁が発表した2016年度の「国語に関する世論調査」では、「今回の映画は、余りぞっとしないものだった」を、「面白くない」と「恐ろしくない」の、どちらの意味だと思うかと尋ねたところ、「面白くない」と答えた人が、22.8パーセント、「恐ろしくない」と答えた人が、56.1パーセントという結果になった。文化庁は、「面白くない」の方を本来の意味だと説明しているが、確かにその通りで、「今回の映画は、余りぞっとしないものだった」は、映画は怖くなかったという意味ではなく、面白くない、感動することのない映画だったという意味なのである。だが、この調査ではそう答えた人の方が少ない。
 実は、「ぞっと」には、恐ろしさなどでからだが震え上がるようなさまという意味の他に、美しいものなどに出会ったときに、強い感動が身内を走り抜けるという意味があり、「ぞっとしない」はそれを否定した言い方なのである。
 ただ、「ぞっとしない」という語は、ひょっとすると日常語として使っている人はかなり減っているのかもしれない。そのため、文化庁の調査でも、文字通りの意味に解釈して「恐ろしくない」と答えた人が多くいた可能性はある。そうではあっても、「ぞっとしない」という言い方がまったくすたれたというわけではなさそうなので、本来の意味も知っておいた方がいいと思うのである。

キーワード:


<<前へ    次へ>>