第497回
2023年01月23日
三重県松阪市にある、松浦武四郎誕生地に行ったときのことである。武四郎は、第494回「伊勢方言と横光利一」でも書いたが、「北海道」の名付け親として知られている。誕生地というのは、旧伊勢街道に面した武四郎の実家である。ただ武四郎はその家で育ったわけではないらしい。
そこは現在、主屋、離れ、蔵などが保存されている。その主屋に靴を脱いで上がり、内部をしばし見学したのち、再び靴を履こうとしていたときのことである。70歳代とおぼしき男性のスタッフから、「靴すべり」を使ってくださいね、と声をかけられた。「靴すべり」?
「靴べら」のことだとすぐにわかったが、初めて聞く語である。このあたりの方言かと思い、三重県出身の同行者に聞いてみたところ、知らないと言う。
家に帰り『日本国語大辞典(日国)』を引いてみたが、載っていない。インターネットで検索して、ようやく関西方面で使われているらしいと知った。富山県でも使われているという報告もある。
「靴べら」は、靴を履くときに、かかとの部分にあてて足を入れやすくするための、先端がへらのようになったものである。『日国』では、水上滝太郎の小説『大阪の宿』(1925~26)が最も古い用例だが、それが初出ということはないだろう。ただ、日本には靴を履く習慣はなかったわけだから、靴べらが使われるようになったのは間違いなく明治以降のことだろう。
日本人が「靴べら」を使うようになって、それを最初から「靴べら」と呼んでいたかどうかは疑問である。と言うのは、『改正増補和英語林集成』(1886年)に「Kutsuhame クツハメ」という語があるからだ。『和英語林集成』は、幕末に出版された日本最初の和英・英和の部からなる辞典である。アメリカの宣教師で医師だった、ジェームズ・カーチス・ヘボンが編纂したもので、『改正増補和英英和語林集成』はその第3版に当たる。この版で用いられた日本語のローマ字つづりを「ヘボン式」と呼んでいる。
『改正増補和英英和語林集成』の「Kutsuhame クツハメ」の項には、英語による説明がある。
The horn used in putting on a tight shoe, shoe・horn.
horn は角製品、shoe・horn は「靴べら」のことである。
この「靴はめ」がどこで使われていたのか、他の使用例が見つからないのでよくわからない。後に「靴はめ」ではなく、「靴べら」が定着する経緯も不明である。「靴べら」は形状から生まれた語、「靴はめ」はその使用方法から生まれた語といえるが、何らかの理由で形状の方が優勢になったのだろう。「靴すべり」はそのどちらとも違う名称だが、“すべる”のは靴ではなくかかとではないかとツッコミを入れたくなる。
話がいささかそれたが、実は松阪で聞いた「靴すべり」を立項している国語辞典がある。『岩波国語辞典(岩国)』で、私が調べた限り、他に「靴すべり」を立項している辞典はない。ただし、扱いは空見出し(参照見出し)で、語釈は「靴べら」に送っている。
『岩国』で「靴すべり」が空見出しながら立項されたのは、2009年刊行の第7版からである。このときに、「靴すべり」という人もけっこういると判断して載せたのだろうか。その当時も今と変わらぬ辞書編集者だった私は、「靴すべり」が広まったという記憶はない。そして『岩国』は現在の第8版も同じ形で「靴すべり」が立項されている。
私が「靴すべり」という語を知らなかったから言うわけではないが、あまり一般的ではない、ひょっとするとごく一部の地域でしか使われていない語であるにもかかわらず、あえて立項した理由は何だったのだろうか。編集部の考えを聞いてみたいものである。
そこは現在、主屋、離れ、蔵などが保存されている。その主屋に靴を脱いで上がり、内部をしばし見学したのち、再び靴を履こうとしていたときのことである。70歳代とおぼしき男性のスタッフから、「靴すべり」を使ってくださいね、と声をかけられた。「靴すべり」?
「靴べら」のことだとすぐにわかったが、初めて聞く語である。このあたりの方言かと思い、三重県出身の同行者に聞いてみたところ、知らないと言う。
家に帰り『日本国語大辞典(日国)』を引いてみたが、載っていない。インターネットで検索して、ようやく関西方面で使われているらしいと知った。富山県でも使われているという報告もある。
「靴べら」は、靴を履くときに、かかとの部分にあてて足を入れやすくするための、先端がへらのようになったものである。『日国』では、水上滝太郎の小説『大阪の宿』(1925~26)が最も古い用例だが、それが初出ということはないだろう。ただ、日本には靴を履く習慣はなかったわけだから、靴べらが使われるようになったのは間違いなく明治以降のことだろう。
日本人が「靴べら」を使うようになって、それを最初から「靴べら」と呼んでいたかどうかは疑問である。と言うのは、『改正増補和英語林集成』(1886年)に「Kutsuhame クツハメ」という語があるからだ。『和英語林集成』は、幕末に出版された日本最初の和英・英和の部からなる辞典である。アメリカの宣教師で医師だった、ジェームズ・カーチス・ヘボンが編纂したもので、『改正増補和英英和語林集成』はその第3版に当たる。この版で用いられた日本語のローマ字つづりを「ヘボン式」と呼んでいる。
『改正増補和英英和語林集成』の「Kutsuhame クツハメ」の項には、英語による説明がある。
The horn used in putting on a tight shoe, shoe・horn.
horn は角製品、shoe・horn は「靴べら」のことである。
この「靴はめ」がどこで使われていたのか、他の使用例が見つからないのでよくわからない。後に「靴はめ」ではなく、「靴べら」が定着する経緯も不明である。「靴べら」は形状から生まれた語、「靴はめ」はその使用方法から生まれた語といえるが、何らかの理由で形状の方が優勢になったのだろう。「靴すべり」はそのどちらとも違う名称だが、“すべる”のは靴ではなくかかとではないかとツッコミを入れたくなる。
話がいささかそれたが、実は松阪で聞いた「靴すべり」を立項している国語辞典がある。『岩波国語辞典(岩国)』で、私が調べた限り、他に「靴すべり」を立項している辞典はない。ただし、扱いは空見出し(参照見出し)で、語釈は「靴べら」に送っている。
『岩国』で「靴すべり」が空見出しながら立項されたのは、2009年刊行の第7版からである。このときに、「靴すべり」という人もけっこういると判断して載せたのだろうか。その当時も今と変わらぬ辞書編集者だった私は、「靴すべり」が広まったという記憶はない。そして『岩国』は現在の第8版も同じ形で「靴すべり」が立項されている。
私が「靴すべり」という語を知らなかったから言うわけではないが、あまり一般的ではない、ひょっとするとごく一部の地域でしか使われていない語であるにもかかわらず、あえて立項した理由は何だったのだろうか。編集部の考えを聞いてみたいものである。
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