日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 少し長いのだが、以下の新聞記事をお読みいただきたい。

 政府は8日、学校法人「森友学園」が運営する塚本幼稚園(大阪市)を安倍晋三首相夫人の昭恵氏が訪れた際に同行した政府職員について「公務だった」と説明し、「私的活動」としていた先の国会答弁を訂正した。土生栄二内閣審議官が同日の衆院経済産業委員会で、民進党の今井雅人氏の質問に答えた。
 昭恵氏は2015年9月に同幼稚園で講演。随行した職員について、土生氏は3日の衆院国土交通委員会で「勤務時間外であり、私的活動だ。公費で出張した事実はない」と答弁していた。しかし、8日の経産委では一転して「連絡調整を行うために公務として同行した」と説明。「事実確認をしていなかった。おわびして訂正したい」と陳謝した。(2017年3月8日「時事通信」)

 のっけからこのような記事を引用したのは、別にこの記事に関連する学校法人「森友学園」への国有地売却問題を論じたいと思ったわけではない。この記事の中に、同じような意味で使われている「随行」が1回「同行」が2回出てくる点に注目していただきたかったのである。実は、この土生栄二内閣審議官の答弁を報じた新聞記事の多くは、ほぼ同じように「随行」と「同行」が混在していたのである。

 いったい、「随行」「同行」には意味の違いがあるのであろうか。
 『日本国語大辞典』(『日国』)によれば、「随行」の意味は「地位の高い人の供としてつき従って行くこと。」であり、「同行」は「つれだって行くこと。」とある。つまり、『日国』の語釈を見る限り、「随行」は主たる任務を帯びたものにつきしたがって行動を共にするという意味合いがありそうだが、「同行」には行動を共にする者同士の上下関係はないと考えられる。だとすると、新聞記事で同じ政府職員の行動を「随行」と表現したり、「同行」と表現したりしているのはどのようなわけなのであろうか。
 勘ぐった見方をすると、この記事が伝える内容の場合、政府職員が首相夫人に随行するのか同行するのかで、かなり意味が異なるように思われる。この記事をよく読んでみると、政府の見解では「同行」と表現しているのに対して、記者が書いた部分は「随行」と表現しているからである。そういえば首相夫人が公人であるか私人であるかということが問題となっていた。
 政府は「同行」という表現にこだわったのかもしれないが、法令を見る限り、公務員に関して「随行」か「同行」かということに関しての細かな規定があるわけではない。たとえば、国家公務員倫理審査会事務局による「国家公務員倫理規程事例集(平成24年増補版)」に、

〔大臣に随行する国際会議における宿泊料〕
問36 海外において開催される会議に当省の大臣が出席することとなっており、一般職の国家公務員である秘書1名が職務として随行する予定である。

 などという使用例があるだけである。
 また「同行」に関しては、同規定集の質疑応答集に以下のような使用例があるだけである。

問44 利害関係者と共に旅行をすることが認められている「公務のための旅行」とは、どのような場合か。
答 出張命令が出されていて、利害関係者の同行が公務に必要な場合である。

 ただ、これらの使用例を見ると、意味の違いについては何ら触れられていないものの、上下関係がわかる使われ方をしているのは「随行」のほうだということが読み取れるであろう。
 だとすると冒頭の新聞記事で政府が「同行」を使ったのは、上下関係がなかったということを示唆しようとして、意図的に「同行」を使ったのではないかという気がしてくる。
 この記事の「随行」と「同行」の使い分けは、いろいろと想像をかきたてるものであった。

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第352回
 

 先月(3月)、学校法人「森友学園」への国有地売却問題で学園理事長が国会に証人喚問されるということがあった。
 そのとき話題になったことばに「忖度」がある。
 首相の口利きがあったのかという問いに対して、学園理事長は「口利きはなかった。忖度したのでしょう」といった使い方をしたのである。この場合の「忖度した」の主語は、売却に関わった関係省庁ということであろう。だが、「忖度」という語はそれ以前にも、「政権の意向をマスメディアが忖度する」といったような使われ方をしていた。このことば自体は決してマイナスイメージのことばではないのだが、何となくそうした使われ方をされることが多くなっていて、正直言って少し残念な気分になっている。
 そもそもこの「忖度」だが、けっこう難読語だと思う。つい、「スンド」とか「ソンド」「フド」などと読んでしまいそうだ。意味は、他人の心の中や考えなどを推し量るということで、「忖」も「度」もはかるという意味である。推し量ることはあっても、それによって何か配慮をするというニュアンスのないことは、言うまでもないことである。
 『日本国語大辞典』は、「忖度」の用例の一つとして、慶應義塾の創立者である福沢諭吉の『文明論之概略』の巻之二第四章にある文章を引用している。

 「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」

 というものなのだが、前後を見ると今読んでも極めて示唆に富んだ内容のものなので、稚拙ではあるが現代語訳を添えておきたい。原文をお読みになりたいかたは、たとえば慶應義塾大学名誉教授の上田修一氏が、慶應義塾図書館所蔵の『文明論之概略』全六巻を底本として、インターネットで公開しているのでそちらをご覧いただきたい。

 人の心の働きはたくさんの事柄から成り立っていて、朝は夕方と異なり、夜は昼と同じではない。今日は徳行のそなわった人でも明日は徳のない品性の卑しい人になり、今年敵だった者が来年には友達になるかもしれない。人の心の働きが時機に応じて変化することは、それが現れれば、ますます思いがけないこととなるのである。幻や魔物のようで、あれこれ考えをめぐらすことも、推し量ることもできない。他人の心の中を推察できないのはもとより言うまでもないことだが、夫婦親子間でもお互いにその心の働きを推し量ることはできない。単に夫婦親子だけでなく、自分の心をもってしても自分自身の心の変化を思い通りにすることはできない。いわゆる「今吾は古吾に非ず(=今の自分は昔のままの自分自身ではない)」というのがこれである。その実態はあたかも晴雨の天候を予測できないのと同じようなものである。

 いかがであろうか。つたない訳文で恐縮なのだが、人の心をあれこれ推し量ることの困難さ、無意味さ、さらに言えばそうすることの愚かしさを語っていると思われる。私自身もそうだが、耳の痛い人も大勢いるのではないだろうか。
 繰り返すが、「忖度」には、他人の心を推し量るという意味だけで、そうした上で何か配慮をするという意味はない。ところが、本来なかったそうした意味が付け加わっているような兆候が感じられる。辞書編集者としてはそれが気がかりなのである。

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 「医学博士」「農学博士」などと言うときの「博士」と、「昆虫博士」「漢字博士」などの「博士」とはどう違うのか、そんなことをお考えになったことはあるだろうか。
 前者は学位の呼び方、後者は物知りのことと、意味が違うのである。
 また、意味の違いばかりではなく、学位の正式な呼び方は「はくし」、ある方面の知識が豊富な人のことは「はかせ」と、使い分けがされている。ただし、学位の呼び名を俗に「はかせ」と言っている人もいないわけではないが。「博士号」や「博士課程」は、「はかせごう」「はかせかてい」のほうが優勢かもしれない。
 「博士」を「はかせ」あるいは「はくし」と読むことは、平安時代から行われていた。ただし、「博」の字音は「ハク」「バク」で、「ハカ」という読みはない。それは「士」も同様で、「士」の字音は「シ」「ジ」で、「セ」はない。そのため、『日本国語大辞典』(『日国』)では、

 「応神以降、『博士』は百済との交渉に関して記録されているので、百済の制度に関係があると思われ、『はかせ』も百済の音かもしれない。」 

と推定している。「百済との交渉」というのは、古代朝鮮の王朝・百済(くだら・ひゃくさい)から送られてきた学問技術の専門家のことで、五経博士(ごきょうはかせ)・医博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)などである。
 これが後に令制で、特定の学術・技芸に専門的に従事し、かつその分野の教育を担当する職の総称となる。「陰陽博士(おんみょうはかせ・おんようはかせ)」「文章博士(もんじょうはかせ)」などの名称は、お聞きになったことがあるかもしれない。
 明治時代になり1887(明治20)年に「学位令」が公布され、学位を「博士」「大博士」の2等に分けることが制定されたのだが、この「博士」は「はくし」と読むのが正しいとされたのである。
 『日国』に、その公布の翌年に「金城だより」という新聞に掲載された、ちょっと面白い内容の記事が引用されているので紹介しておこう。

 「学位令にある博士と言ふ文字の発音方は、従来唱へ来りたる如くハカセと読む事と思ひの外、ハクシと発音する事になり居る由」(明治21年〔1888〕6月21日)

 「金城だより」というのは愛知県で発行された新聞で、現在の中日新聞の前身である。当時の人たちの感覚では、「はかせ」の読みの方がふつうだったようである。

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 とある居酒屋でお品書きに「木の芽和え」とあったので、「『きのめあえ』をください」と言ったら、同席していた者からもお店の店主からもほとんど同時に、「『このめあえ』でしょ」と言われたことがある。「木の芽」とはサンショウの新芽のことで、「木の芽和え」はサンショウの新芽に、味噌や砂糖などをすりまぜて、肉や野菜などをあえたものをいう。
 負け惜しみでも何でもなく「このめあえ」と言うことももちろん知っていたのだが、自分の中では「きのめ」と言うか「このめ」と言うかで揺れていて、そのときの気分で適当に使っているような気がする。
 私自身はそうであるが、一般的な言い方はどちらなのであろうか。
 「木の~」という形の語は、「木」を「き」と読むか「こ」と読むのかふた通りがある。たとえば、「木の香」「木の根」などは「きの~」と読み、「木の間」は「この~」と読むのがふつうである。だが、「木の葉」「木の実」などは、「きの~」とも「この~」とも読まれる。
 「き」も「こ」も「木」という漢字の訓読みではあるが、「き」は単独で使われることもあるが、「こ」は他の語と複合して使われることが多く、単独で使われることはほとんどない。たとえば、「こもれび(木漏れ日)」や「こぬれ(木末)」などである。
 「きのめ」「このめ」の場合、国語辞典ではどちらも見出し語として載せているものがほとんどだが、特に以下の辞典には踏み込んだ記述がある。

『明鏡国語辞典』:「このめ」は、「きのめ」よりも雅語的な言い方。
『新明解国語辞典』:(「このめ」の項に)「きのめ」の古風な表現。
『三省堂国語辞典』:(「このめ」の項に)「雅語」。

 「雅語」とは、洗練された上品な語とか、正しいとされる優雅な語といった意味である。
 また、「このめ」の方が「きのめ」よりも古い例が存在することも確かである。『日本国語大辞典』の「このめ」の例は、サンショウの新芽のことではないが、平安時代の右大将藤原道綱の母の日記『蜻蛉日記(かげろうにっき)』(974年頃成立)の
 「三月になりぬ。このめすずめがくれになりて(=3月になった。木の芽が茂ってスズメの姿が隠れるほどになり)」
という例が一番古い。「このめすずめがくれ」なんて、何とも味のある表現ではないか。
 これに対して確実に「きのめ」と読んでいる例は江戸時代のものである。
 「きのめあえ」と言ってしまった私は、上品な言い方ができないと言うことになるのかもしれないが、少なくとも間違えてはいないということがわかり、少しだけ安心したのであった。

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 埼玉県さいたま市に「見沼(みぬま)たんぼ」と呼ばれている地域がある。同市には見沼区という行政区があるのだが、その区名の由来となった場所である。ただし、「見沼たんぼ」の区域全体が見沼区に含まれるという訳ではなく、周辺の区にもまたがっているようである。「たんぼ」というのは、江戸時代に干拓によってできた新田地区であるからそう呼ばれるようになったらしい。現在も貴重な緑地として残されており、市民の憩いの場所になっているという。私自身は、以前この区域内の小学校に何度かお邪魔したことがあり、ごく一部ではあるが、どこか懐かしい田園風景を実際に見ている。
 この「見沼たんぼ」だが、さいたま市と埼玉県にそれぞれホームページがあるのだが、面白いことに「たんぼ」の表記が異なっているのである。市は「たんぼ」、県は「田圃」と。
 「田」のことをいう「たんぼ」の表記は、平仮名で「たんぼ」と書くか、「た」だけ漢字にして「田んぼ」と書くかで揺れることが多い。「田圃」と漢字で書く表記は当て字である。「田圃」と書いて「でんぼ」「でんぽ」と読むこともあるが、これは田と畑の意味である。
 「たんぼ」は、「たのも(田面)」、あるいは「たおも(田面)」の音変化かと言われている。「たのも」も「たおも」も田の表面という意味である。
 「田圃」は当て字であるうえに、「常用漢字表」に「圃」の字がないことから、「田んぼ」または「たんぼ」という表記が混在している訳である。このため小型の主な国語辞典でも漢字表記欄の扱いが以下のように異なっている。

・当て字である「田圃」だけを示している辞典:『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』
・表記欄は「田圃」で、補注で「田んぼ」とも書くとしている辞典:『岩波国語辞典』『明鏡国語辞典』
・「田んぼ」を標準的な表記とし、「田圃」を慣用的な表記としている辞典:『新選国語辞典』
・「たんぼ」を標準的な表記とし、「田圃」「田んぼ」を慣用的な表記としている辞典:『現代国語例解辞典』(ただし「たんぼ」よりも「田んぼ」の方がわかりやすいため多用されるという注記あり)

 新聞では「田んぼ」、あるいは「田」と言い換えるようにしている。辞典は必ずしも「田んぼ」派が優勢という訳ではないのだが、それでも「田んぼ」と書かれることのほうが多いのは、新聞などの影響だと思われる。
 「見沼たんぼ」に関しては、おそらく正式な表記は決められていないのであろう。だが、さいたま市も埼玉県も、もっとも多いと思われる「田んぼ」ではないところが、何か考えのあってのことなのかと、気になって仕方がない。

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