日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第283回
 

 30数年間辞書の仕事にかかわってきたのだが、日本語のことに関してはわからないことばかりだし、これだけは聞かれたくないということもたくさんある。
 特に苦手なものの一つが「筆順」。講演や会議などで、板書をするのも恥ずかしいくらいである。
 「筆順」は漢字を書くときの字画の順序のことをいうのだが、漢字に限らず仮名についていうこともある、とそんな辞書の語釈のような能書きは言えるのだが、文字ごとの正しい筆順については、もっぱら手引書に頼るしかない。
 その手引書というのは、1958(昭和33)年に当時の文部省から出された「筆順指導の手びき」で、これこそ国が決めた筆順の基準とも呼ぶべきものである。以降、教科書はこれを基にして筆順を示すようになった。
 しかし現行の教科書では、「漢字の筆順は、原則として一般に通用している常識的なものによ」るという検定基準に従っているため(「義務教育諸学校教科用図書検定基準及び高等学校教科用図書検定基準の一部を改正する告示」(平成26年1月17日文部科学省告示第2号))、「一般に通用している常識的な」筆順を採用しているということになっている。
 ただし、そうなると今度は「一般に通用している常識的な」筆順とは何かという問題が生じてくる。そこで、ほとんどの小学校の国語の教科書は、「筆順指導の手びき」で示された筆順と、そこから推定される筆順とを今でも採用し続けている。そのへんの事情は、小学生向けの辞典もまったく同じである。
 自分が苦手だから言うわけではないが、筆順は本当に紛らわしい。上から下へ・左から右へという二大原則があるにはあるが、例外も存在するからである。
 「上」「耳」「馬」「無」のように複数の筆順が広く認められている漢字もある。
 「右」「左」のようにペアとなる漢字なのに、「ナ」の部分の筆順が違う漢字もある。「右」は「ナ」は「丿」を先に書くのだが、これはもともと「又」からの変形だからだそうである。「左」は「一」が先だ。
 なお、仮名の筆順だが、平仮名は一般に通用している筆順はあるが、漢字のように基準となるものは存在しない。
 これに対して片仮名は漢字の一部から作られた字であるため、筆順は漢字に準ずることが多い。
 そこで最後に問題を一つ。「ヲ」の筆順はおわかりだろうか。これも恥ずかしながら私は間違っていた。「フ」→「-」と書いていたのである。
 正解は、「=」→「ノ」なのだそうだ。これは、「ヲ」のもとになった漢字「乎」の筆順によるらしい。
 自分がかなり怪しい筆順でしか書くことができないから言うわけではないが、今教育現場で指導されている筆順は決して普遍的なものではなく、あくまでも常識的なものであると心得るべきであろう。さもないと、よく人の筆順を間違っていると指摘する人を見かけるが、言い方に気をつけないと人間関係を損ねかねない。

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 前回、「たまご」を「玉子」と書くのは当て字だと書いた。当て字とはどういうものかというと、漢字本来の意味には何の関係ない、その漢字の音や訓だけを借りて、ある語の表記にすることである。『日本国語大辞典』にはその例として、「浅増(あさまし)」「目出度(めでたし)」「矢張(やはり)」「野暮(やぼ)」を挙げている。また、外国地名を「亜細亜(アジア)」「仏蘭西(フランス)」などと書いたり、外来語を「珈琲(コーヒー)」などと書いたりすることもあるが、これらもすべて当て字である。さらに、「五月雨(さみだれ)」「紅葉(もみじ)」のように和語を2字以上の漢字で表記するもの(「熟字訓」ともいう)も当て字とすることが多い。
 このような当て字だけを集めた、とてもユニークな辞典があるのをご存じだろうか。『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(笹原宏之編、2010年三省堂)という辞典で、よくぞこれだけ当て字を集めたものだと感心させられる内容のものである。掲載された実例の範囲は、古典文学や近代小説はもとより、漫画、広告、放送、歌詞、Webと実に多岐にわたっている。だから、「夜露死苦(よろしく)」などという表記もちゃんと載っている。
 この辞典にはふつうの辞典では知ることができない自由な発想による漢字表現が数多く載っていて、私の愛読書のひとつなのである。
 たとえば「太田道灌」と書いて、それを何と読ませているかおわかりだろうか。ふつうに読めば「おおたどうかん」だが、もちろんそうではない。この辞書によれば坪内逍遙の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』(1885~86年刊)に出てくるというので、実際に小説の本文に当たってみた。こんな内容である。

 「談話(はなし)なかばへ階子段(はしごだん)を登って来たるは、これもまた二十三四の書生(しょせい)にて、〈中略〉、六七度(ろくしちたび)太田道灌に出逢ったと見えて、胴と縁(ふち)との縁(えん)がきれて放れさうになった古帽子を、故意(わざ)と横さまに被りながら、肩をいからしてあがって来(きた)り。」

 もちろん、書生さんが実際に太田道灌と出会ったわけではないということはこの文章からもおわかりであろう。
 まるで判じ物のようだが、答えは「にわかあめ」である。この書生さんは、にわか雨に数回あったためにつばが取れかかってしまった古帽子を被っていたというわけである。
 この答えを聞いて、落語ファンだったら「あれか!」と思ったかもしれない。そう、落語の『道灌』で知られる故事によった読みなのである。
 太田道灌は、江戸城のもとを築いたことで有名な室町中期の武将である。坪内逍遙が落語から直接発想したのかどうかは不明だが、その故事とは以下のような内容である。
 道灌が狩りに出かけてにわか雨にあっため、土地の娘に蓑笠(みのかさ)を所望したところ、娘は山吹(やまぶき)の枝を差し出したので、道灌は花を所望したわけではないと怒って帰ってしまう。だが後に娘が山吹の枝を差し出したのは、「七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌(『後拾遺集』所収)の意だったと知り、おのれの無学を恥じて歌道に志したという。この歌は「みの一つだになきぞ悲しき(=実の一つも付かないのは奇妙なことだ)」の「み(実)」に「み(蓑)」を掛けて、雨具のないことをそれとなく示しているのである。道灌のこの故事は、湯浅常山という岡山藩に仕えた儒学者が江戸時代中期に書いた随筆『常山紀談』に出てくる。
 こうなってくると、当て字の中にはけっこう奥の深いものもあることがわかる。
 『当て字・当て読み 漢字表現辞典』は愛読書だと書いたが、辞書編集者としては、よくぞこのような面白い辞書を編纂したと思う反面、そのユニークな発想に嫉妬心すら覚える辞書でもある。

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 スーパーのチラシなどで、「本日の特売品 玉子 1ケース 〇〇円」などと書かれているのをご覧になったことがあると思う。これを見て、「たまご」は「常用漢字表」には「卵」という漢字がちゃんとあるのに、なぜ「玉子」と書くのかと疑問に思ったことはないだろうか。
 あるいはお手元に国語辞典があったら、「たまご」という項目を引いてみてほしい。いかがであろうか。辞書にもよるのだが、見出しの漢字表記欄に「玉子」という表記が示されていないものもあるのではないだろうか。
 なぜ辞書の漢字表記欄では示されていないのに、「玉子」はふつうに使われているのだろうか。
 そもそも「たまご」という語が使われるようになったのは、室町時代以降ではないかと考えられている。それ以前はというと、「かいご」と言われていたらしい。たとえば、平安中期の漢和辞書『十巻本和名類聚抄』(934年頃)には、「卵 陸詞曰卵〈音嬾加比古〉鳥胎也」とある。〈音嬾加比古〉という部分が「卵」の読みを示していて、「嬾」は「ラン」、「加比古」は「かひこ(かいこ)」である。「かひ(かい)」は「貝」や「殻」と同語源であろう。
 「かいご」に代わって「たまご」が優勢になっていくのは中世においてで、「蚕」も「かいご」と呼ばれていたため、同音衝突を避けようとしたからだと考えられている。ただし、日本イエズス会がキリシタン宣教師の日本語修得のために刊行した辞書『日葡辞書』(1603~04)に「Tamago (タマゴ)〈訳〉鶏卵。カミ(上)ではCaigo(カイゴ)という」という記載があることから、近世初期までは「かいご」「たまご」が併用されていたことがわかる。「カミ」とは近畿方言のことである。
 江戸時代に入ると、「たまご」が急速に広まるだけでなく、「玉子」の表記も生まれる。「玉子」は音による当て字だと考えられている。
 「玉子」という表記は料理関係の文献に多く見られ、たとえば、『料理物語』(1643年刊)には「玉子酒 玉子をあけ、ひや酒をすこしづつ入、よくときて塩をすこし入、かんをして出候也」などとある。
 『料理物語』は日本最古の料理書で、以後江戸時代に盛んに出版された料理書に大きな影響を与えたと言われている。その影響が漢字の表記にまで及んだかどうかは不明だが、主に料理の世界で「たまご」をいう場合は「玉子」の表記が圧倒的に多くなり、今に至っている。
 現在でも「卵」と書くときは、「ニワトリが卵を産む」などのように生物学的な観点の場合が多く、「玉子」は「玉子焼き」などのように料理で使われることが多い。ただし、「たまご焼き」は「卵焼き」と書かれることがまったくないとは言えない。
 新聞はどうかというと、たとえば共同通信社の『記者ハンドブック』では、
(玉子)→卵 卵とじ 卵焼き
として「常用漢字表」にあるからだろうか「卵」を使うようにしている。ただし、〔注〕として、
「玉子丼」は別。
とある。
 だが、なぜ「玉子丼」のときだけ「玉子」なのかはよくわからない。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「しゃべらぬじいさんの、チェーン=ストークス呼吸(大きくなったり静止したりする不規則な呼吸)を聞きながら床の上に布団をひき、じいさんの手の脈を時々取ってみながら」

 この文章を書いた徳永進氏は、医師でノンフィクション作家でもある方だという。この文章は、『臨床に吹く風』(1986年)というエッセイ集による。いかが

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 「出る○は打たれる」の○に入る漢字一文字を答えなさい、という問題があったとする。皆さんは何と答えるだろうか。
 大方は「杭(くい)」とお答えになるだろうし、正解も通常ならそれで間違いないということになるであろう。
 だが、なぜ断定せずにこのようなあいまいな言い方をするのかというと、文化庁が調査した2006(平成18)年度の「国語に関する世論調査」で、「出る

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