日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 「次第」という語は、名詞として使われたり接尾語として使われたりするのだが、接尾語の使い方がわかりにくいと思ったことはないだろうか。
 接尾語の「次第」とは、「この仕事が終わり次第出かけます」などがそうである。動詞の連用形に付いて、その動作がすんだら直ちに、の意を表す言い方である。ただし、「この仕事が終わり次第出かけます」のような場合は、使い方に悩む方はあまりいらっしゃらないかもしれない。
 だが、「この仕事は終了し次第出かけます」という場合はいかがであろうか。「終了し次第」なのか「終了次第」なのか、迷うことはないだろうか。つまり、「次第」が「漢語+する」の動詞に付く場合に、ということである。
 「終了」が「する」を伴って動詞化した場合、連用形は「終了し」で、接尾語「次第」は連用形に付くのだから「終了し次第」が正しいと言うことになる。ところが「終了」と「次第」の間に「し」が入るとけっこう発音しづらく、かといって「し」を省くと、俗な言い方に思えてしまう。
 この「し」の扱いに関してはけっこう悩む方が多いのではないかと勝手に思っているのだが、残念ながらそこまで触れている辞書はあまり多くはない。私が調べた限りでは、『現代国語例解辞典』(小学館)、『明鏡国語辞典』(大修館)だけがその点に言及している。
 たとえば前者では、『動作・作用の完了の意味をもつ漢語のサ変動詞に限り、「し」の重なりを避けて語幹に接続する形も行われている。「到着次第」「終了次第」など』と補注で述べている。後者も、俗だとしながら、「到着次第」という言い方はあると認めている。
 では、話しことばの場合はどうかというと、NHKは、「~ししだい」は「し」が重なって発音しづらく、話しことばとしてこなれていないとして、「次第」はなるべく使わないようにして「~したらただちに(すぐに)」などのようにするとよいとしている(『ことばのハンドブック 第2版』)。
 「し」を入れても入れなくても今や特に問題はなさそうであるが、言いづらかったら(私自身も確かに発音しにくいと感じることが多い)、NHKのように無理に「~ししだい」を使おうとしないほうがいいのかもしれない。

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 私はこのコラムでもたびたび引用している『日本国語大辞典』第2版の編纂に関わったのだが、そのときは主に引用した文献例を原典に当たって確認するという作業を担当した。もちろんそれは私一人で行ったわけではなく、60名以上の日本語学や日本文学を専攻する大学院生による専門チームを編成しての作業であった。3万点以上の日本語の文献を相手にした地道な仕事ではあったが、そのおかげで、辞書には書けない面白い発見をいくつもすることができた。それが今、このコラムの材料にもなっている。
 ある時、志賀直哉の小説『暗夜行路』から引用した例を見ていたら、「ベット」と書かれているものを見つけた。洋式の寝台をいう「ベッド」を「ベット」と言う人がいるということは知っていたのだが、志賀直哉も「ベット」派だったのかと、たいへんな発見をしたような気がしてなんだかうれしくなった。だが、念のために『暗夜行路』例の底本を見てみると、残念ながら(?)「ベッド」と書かれているではないか。志賀直哉「ベット」派説は見事に崩れ去ったのだが、ひょっとするとその項目の原稿をお書きになった方が「ベット」派だったのかもしれないという疑惑が、新たにわき起こってきた。
 「ベッド」の英語のつづりはbedだから、「ベッド」と書くのが正しいことになる。だがなぜ「ベット」と言ってしまうのかというと、日本語の発音の特質で、濁音(この場合は「ド」)の直前に促音が来ることがなかったからだと説明されている。「ブルドッグ(犬)→ブルドック」「バッグ(かばん)→バック」なども同じである。
 従って「ベッド」ではなく「ベット」だと思い、そのように書いてしまうというのは、けっこう古くから見られる現象である。
 たとえば、

 「各房の内、大なるは客座『シッチングルーム』仏にて『サロン』 寝室 ベットルーム〈略〉皆具す」(久米邦武『米欧回覧実記』1877年)

 「また庭園の諸処には、田舎めきたる別荘をしつらひ、皆洋式のベットを附しす」(「風俗画報‐二三〇号」1901年)

などという例がある。
 久米邦武(くめ・くにたけ)は明治・大正期の歴史学者であるが、明治の初めに岩倉具視(いわくら・ともみ)の米欧視察に随行した。そのときの公式報告書がこの『米欧回覧実記』である。久米邦武にはネーティブの発音が「ベット」と聞こえたのであろうか。
 「風俗画報」は明治から大正にかけて刊行されたわが国最初のグラフ雑誌である。
 現在では、「ベット」は書きことばよりも話しことばで多用されているような気がする。ただし、今後小学生から発音も重視した英語指導が始まるので、つい「ベット」と言ってしまう人も若い層からなくなっていくのかもしれない。それはそれで少し残念な気もする。

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第311回
 

 「批判されて気色ばむ」と言うときの「気色ばむ」を皆さんは何と言っているだろうか。大方は「けしきばむ」であろうし、もし人が「きしょくばむ」と言ったら、それって違うんじゃないの、とついツッコミを入れたくなってしまうかもしれない。
 確かに現在では「けしきばむ」と読むのがふつうであるし、通常の国語辞典も見出し語は「けしきばむ」だけである。だが、古くは間違いなく「きしょくばむ」と読んでいる例があり、「きしょくばむ」がぜったいに間違いだと言い切れないのである。
 たとえば、軍記物語『太平記』(14世紀後)の以下の例がそれである。

 「敵六騎切て落し十一騎に手負せて、仰(のり)たる太刀を押し直し、東寺の方を屹(きっ)と見て、気色(きしょく)はうたる有様は」(巻一七・隆資卿自八幡被寄事)

 ただし、この場合の「きしょくばむ(気色はう)」は、気負いこんだ顔つきをするといった意味で、現代語で使われるような、むっとした怒った表情をするという意味とは異なるのだが。
 そもそも「気色」を「けしき」と読むのは呉音、「きしょく」と読むのは漢音なのだが、「きしょく」と読む例は「けしき」よりもやや新しく中世以降に見られるようになる。
 「気色」は、物の外面の様子や外見から受ける感じというのが原義で、それがやがて表にあらわれた心の内面の様子、ありさまという意味になり、さらには怒りや不快などの強い感情をおもてに表すことを言うようになるのである。
 「気色ばむ」の「ばむ」は動詞を作る接尾語で、そのような性質を少しそなえてくるという意味を添える。「汗ばむ」「黄ばむ」などの「ばむ」も同様である。
 ちなみに「気色が悪い」とか「気色悪い」とか言うときの「気色」は「きしょく」と読み、「けしき」とは読まない。
 現代語では「けしきばむ」で定着している読みを、いまさら「きしょくばむ」まで認めろと言いたいのではなく、ことばとはかくも揺れるものであるということをご理解いただきたいのである。

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 「弱冠23歳で横綱になる」などと言うときの「弱冠」だが、もちろんここでは年が若いという意味で使われているということはおわかりだと思う。だが、それでは何歳から何歳くらいまでが「弱冠」の許容範囲と言えるのかということをお考えになったことはあるだろうか。
 そもそも「弱冠」とは、古代中国の周の制度で、男子20歳を「弱」といい、そのときに元服して冠をかぶるところから生まれた語である。従って、本来は男子20歳の異称であった。ところが次第に意味が拡大し、20歳に限らず年齢の若いことを言うようになるのである。
 では何歳くらいまでが「弱冠」と言えるのだろうか。確実な上限の例とは言えないまでも、有吉佐和子の小説『助左衛門四代記』(1963年)に以下のような記述がある。

 「弱冠三十四歳で和歌山県会の議長を勤めるようになっていたから」

 34歳が若いかどうかということは議論のあるところであろうが、ここで「弱冠」が使われているのは、県議会の議長に就任するには若いという意識があるのかもしれない。とすると、年齢に上限があるというよりも、特定の役職なり地位なりに就くには若いという意識が働くときには、20歳よりもかなり年齢が上でも「弱冠」が使われると考えられる。
 では下限はどうであろうか。
 たとえば、東京都知事も務めた作家猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』(1986年)に、

 「そのなかに、康次郎が弱冠十五歳で肥料商の看板を出していたときに宣伝用に配られた団扇(うちわ)が額に入れて飾ってあった」

とあり、この例はほとんど下限と言えそうである。この例の場合は、年少でありながらひとかどの人間になったというニュアンスが込められているのかもしれない。
 国語辞典での扱いはどうかというと、辞書に載せられた例文の中では20歳以下の年齢で使ったものとしては、17歳くらいまでが多いようである。しかもそれらは、若いながら立派であるという意味合いの例が多いような気がする。
 なお、「弱冠」の「弱」は日本では「わかい」という意味よりも「よわい」という意味で使われることが多いためであろう、同じく「ジャク」と読む「若冠」という使用例が江戸時代以降、現在に至るまでに見られるようになる。
 だが、国語辞典では「若冠」を見出し語にしているものはまだ出ておらず、むしろ誤りであるとしているものもある。新聞などはどうかというと、たとえば時事通信の『最新用字用語ブック』では

(若冠)→弱冠

として、「若」には誤用の字であることを示す、▲印が脇につけられている。
 「若冠」だと思い込んでいる人への配慮であろうが、今後そのように書く人がさらに増える可能性は否定できないと思う。

★神永曉氏、朝日カルチャー新宿教室に登場!
 辞書編集ひとすじ36年の、「日本語、どうでしょう?」の著者、神永さん。辞書の編集とは実際にどのように行っているのか、辞書編集者はどんなことを考えながら辞書を編纂しているのかといったことを、様々なエピソードを交えながら話します。また辞書編集者も悩ませる日本語の奥深さや、辞書編集者だけが知っている日本語の面白さ、ことばへの興味がさらに増す辞書との付き合い方などを、具体例を挙げながら紹介されるそう。
講座名:辞書編集者を惑わす 悩ましい日本語
日時:5月21日(土)13:30-15:00
場所:朝日カルチャーセンター新宿教室
住所:東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル4階(受付)
くわしくはこちら→朝日カルチャーセンター新宿教室

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 「袖振り合うも多生の縁」ということばはご存じだと思う。道を行くとき、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも前世からの因縁によるという意味から、どんな小さな事、ちょっとした人との交渉も偶然に起こるのではなく、すべて深い宿縁によって起こるのであるという意味のことばである。
 だが、このことばはいささか複雑な揺れの見られることばだということは、ご存じだっただろうか。
 まず、「袖振り合う」だが、あるいはそう言っていらっしゃる方も多いかもしれないのだが、「袖すり合う」という言い方も存在するのである。「すり合う」は「擦り合う」または「摺り合う」とも書き、触れ合う、すれ違うという意味で、「振り合う」と同じ意味である。
 ことばの誤用を集めた解説書の中には、この「すり合う」を誤りとしているものもあるが、必ずしもそうとは言い切れない理由がある。たとえば樋口一葉の『やみ夜』(1895年)という小説にも、以下のような用例があるからである。

 「袖すり合ふも他生の縁と聞くを、仮初(かりそめ)ながら十日ごしも見馴れては他処の人とは思はれぬに」

 多くの国語辞典はこの「袖すり合う」も認めているのである。
 さらに面白いことに、「袖振り合う」から「袖ふれあう」という言い方が生まれている。そして、「ふれあう」を「触れ合う」だと考えて、「袖触れ合う」と表記したものまである。国語辞典の中でも保守派と言われている『岩波国語辞典』が、この「袖触れ合う」の表記を優先させているのである。
 また、「多生」という部分にも揺れがあるからややこしい。「多生」は、仏語で、何度も生まれ変わること、つまり輪廻(りんね)のことであるが、これを「他生」と書くこともある。
 「他生」はこの世から見て過去および未来の生をいう語で、「多生」とは本来は意味が異なる。
 さらに、ネット上では「多少の縁」と書かれているものも見かけるが、これは「多生」「他生」を同音語の「多少」だと理解した誤用である。「多少の縁」は、せっかくの出会いを大事にしようという意味で、たまたま出会った異性を口説くときに使うこともあるのかもしれないが、そんな使い方をする輩(やから)とは、縁もゆかりもないと考えた方がよい。

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