益城町図書館(1)熊本県上益城郡益城町
2016年4月14日午後9時26分、そして翌々日16日午前1時25分。二度にわたり震度7の地震に襲われた、熊本県益城町。熊本地震(注1)から2年。当時、避難所ともなった益城町図書館を訪れました。地震の際のお話を中心に西山広成館長、そして司書の西村まみさんにうかがいました。
そのとき、図書館はどうしたのか?
──まず、益城町図書館についてお聞かせください。
館長:平成21(2009)年4月、総合運動公園内にオープンした益城町交流情報センター(愛称:ミナテラス)に「コンフォートライブラリィー(快適な図書館)」のコンセプトのもと、図書館ができました。ミナテラスは図書館のほかに、会議室や視聴覚室などで構成されています。同公園内には総合体育館や陸上競技場がありました。熊本地震の際に避難所になっていたので、テレビなどを通じてみなさんもご存知かもしれません。
──あれ? そういえば、ここまで歩いてくるときに、確か体育館はなかったような……。
西村:昨年の夏から総合運動公園は改修工事がスタートしています。体育館は地震で地下の杭がかなりの数折れていたそうで、解体されました。いま、建て替えが予定されています。
館長:じつはこの建物も地下の杭が折れているのですが、建物部分は大丈夫でした。今年7月から修繕に入ります。テント村だった陸上競技場も使用中止となっており、グラウンドがいまだ波打っている状態です。
──では地震のときのお話をお聞かせください。2016年4月14日に前震、そして16日の本震。益城町はどちらも震度7と、県内でも最も揺れが大きかったんですよね。地震後、図書館はどんな状態だったんですか?
西村:14日に発生した前震で図書館内のものはかなり壊れました。作り付けの棚だけは倒れませんでしたが、ほとんどの本が落下しました。また吊り下げ式の照明もほとんど落下していました。郷土史料として展示してある、何トンもある石棺が動いていたのには驚きました。
16日の本震では吊り下げ式の照明は入口の3本以外、すべて落下しました。照明はいま、埋め込み式になっています。
館長:前震後すでに、図書館の中は足の踏み場もない、本の海と化していました。次の日から仕事しなきゃいけないと図書館同様、事務所も片づけていたんですが、16日に結局逆戻り。
本震が起きて、避難所となっていた体育館はメインアリーナの天井が全部落ちたんです。天井に若干ひび割れがあったため、人を入れなかったのが幸いしました。もしメインアリーナにみんな避難していたら、100人単位の死者が出ていたと思います。
4月14日の前震後(上)、16日の本震後(下)の図書館。作り付けの棚は倒れていないが、本震後、本や照明器具はほぼすべて落下している。
──お二人の家は大丈夫でしたか?
館長:私の家は益城町ではなかったので、住める状態でしたが、家族はグランメッセ熊本に避難しました。
西村:私の家は、家自体は残っているものの、全壊でした。屋根は全部飛ばされ、壁も半分以上破損しています。破壊されている基礎をきちんと修理して住もうと思っていたのですが、区画整理にひっかかっているので、いずれ退去しなければならないかもしれない。現在、屋根などは改修し、そのまま住んでいる状態です。
館長:熊本は地震対策ではなく、台風対策をメインに考えて建てられた家が多いんです。だから重い瓦の家が多い。それがまた仇になってしまったんですね。
西村:私も落っこちてきた瓦でケガをしました。肋骨にヒビが入ったんです。だからはじめのうち図書館の片づけは手伝えなかった。陸上競技場に病院のテントがあり、治療しに来るついでに図書館には顔を出していたんですが……。
──じつは私、地震の1か月後、熊本に来てるんです。そのとき益城町の方にお会いしたんですが、家はまったく大丈夫だとうかがいました。直下型の阪神大震災でも道を隔てて倒壊している家としていない家があった。熊本地震でも被害はやはり局所的だったんでしょうか?
西村:そうですね。私の家の前の道を挟んで向こう側はすべての家が倒壊していました。「うち、なんで残ったんですか」って聞いたら、「地盤がよかったんだよ」って言われたんです。ほんとうに数メートル、ちょっとずれるだけで状況が違った。図書館に被災家屋の状況地図が貼ってあるのですが、被害は断層に沿って帯状になっています。
本震のとき、私は避難所となっていた役場前の駐車場でウサギと一緒に車に乗っていたんですね。ペットは避難所に入れないので。揺れで軽自動車だから、車自体が浮きました。頭は打つし、ウサギはいなくなるし。車を降りようと下を見たら、地面が割れている。急いで安全なところに車を移動させました。穴が開いたわけではありませんが、もしもちょっとずれていたら、車は動かせなかった。あれはほんとうに衝撃的でしたね。
本震の翌々日に「読み聞かせ」の実施を提案
──地震後の図書館の動きを教えてください。
西村:業務日誌を見ると、本震直後の17日、雑誌を読みたいとみなさんから言われたので、ロビーに雑誌を出しています。前震から体育館に避難されている方はみなさん、時間があるんです。翌18日には、一般書も読みたいと、体育館に避難していた司書がガンバってくれて、なくなってもいい一般書や児童書を提供していますね。
──同じく18日の日誌には「読み聞かせできないか提案」と書かれています。
西村:私たち司書は、普段から仕事で読み聞かせや手遊びなどをやっています。それらが心の癒しになるのがわかっているので、私も自分のいた避難所で自発的にやっていたんですね。子どもたちだけでなく、おじいちゃんやおばあちゃんまでもが喜んでくれたり落ち着いてくれたりした……。ああ、思い出したら、涙が出てきました。
人間、なにもなくなったら、救ってくれるのは明るさだけです。話をするだけでみんな元気になれるんです。だから個人的ではなく、図書館の司書として読み聞かせをさせてほしいと、提案しているんですね。
館長:でもまだ本震から2日しか経っていない。混乱していて、読み聞かせをする状況ではない、と許可することはできませんでした。だけど司書たちが自発的に読み聞かせをやってくれていたり、提案してくれたりするその思いはとても有り難かったです。
──このセンターも避難所になったんですね。
館長:となりの体育館が町の避難所でしたが、メインアリーナの天井が落ちたりしたので、本震後、ミナテラスにも人がどっと押し寄せました。それで図書館内でもカウンター内などに避難スペースをつくりました。ここには最大で300人くらいの方がセンターに避難されていましたね。
また支援で来てくださっていたほかの自治体職員の方やボランティアの方が休んだり、ごはんを食べたりする場所がなかったんです。図書館の側面にはテーブルがあったり、くつろいで本を読むためのたたみコーナーがあったりするので、支援の方にはその場を提供しました。
西村:カウンターは避難所、テーブルのあるところなどは支援の方の休憩所、司書は書架、といったように棲み分けていました。
──本の片づけはいつごろからスタートされたんですか?
西村:まず作業通路を確保しなければならなかったので、地震後まもなく避難している高校生たちやボランティアの方々に協力してもらって、本を書架の下2段に並べたり、書架の脇に積み上げて片づけました。25日には本格的に片づけをスタートさせて、27日には司書が全員集合。もう大地震は来ないだろうと、分類通りに並べ直しの作業を開始しました。5月10日には作業が完了しています。私は肋骨にヒビが入っていて、最初はなかなか参加できませんでしたが。
──館長はどうされていたんですか?
西村:避難所を運営していたからずっとここいましたよね?
館長:避難所運営のために2週間くらいここに缶詰でした。事務所の自分のデスクの横で寝ていましたね、毛布一枚で。プッシュ型支援(注2)のため食べ物は意外とあり、カップ麺とかアルファ米などの保存食とかを食べていました。お風呂には初めのうちはまったく入れませんでした。もう、着の身着のまま。着替えたら洗濯ものになりますからね。
避難している家族には3か月経ってようやく会いに行きました。グランメッセ熊本は車中での避難がメインだったので、探し出すのが大変でしたね。
西村:館長はじめ職員が避難所を運営してくれて、私たち司書は図書館のことに専念できるようにしてくださいました。5月からは通常出勤になりましたが、4月の間は自分の家が大変ならそちらのほうを優先的に、と。しかも、館長は4月に着任したばかりだったんですよ。
館長:1年前にはミナテラス勤務になっていたのですが、館長としての仕事は4月からのスタートでした。まだ右も左もわからない状態で……。建物を修理するために書類をつくらなきゃいけない。だけどその書き方さえもわからなかったわけですから。前の館長が再雇用でいてくれたので、なんとか二人で乗り切ることができました。
また全国から支援に来られた方にも助けられました。こっちが何をしていいいのかわからないときに、ああしろとかこうしろとか的確な指示をしていただきました。益城では宿泊できないから、福岡とか人吉とか玉名とかで宿をとって、毎日何時間もかけて通勤されていましたね。100近くのトイレを毎朝、毎夕掃除してくれた方もいました。心配していた感染症は一切出ませんでした。停電は1週間くらい。避難所だけは先につけていただいて、対応は早かった。
西村:阪神大震災、東日本大震災、そして熊本は三度目。20年の礎がきちんとあることを感じました。
ミナテラスのロビーで始められた読み聞かせ。奥の段ボールの先が避難所となっていた。
──そしてついに司書さん念願の読み聞かせが始まったんですね。
西村:きっかけは京都から行政応援で来られていた先生の一言、「あなたたち司書が読み聞かせをやらなかったら、僕がやります」──それでやっと、許可が下りたんです。子どもたちだけでなく、おじいちゃんとかおばあちゃんも来てくれました。
ロビーで読み聞かせをスタートさせたんですが、写真を見ていただくとわかるように、段ボールを隔てたあちら側には避難している方が住んでおられる。それぞれの生活の場だったんです。避難所の中には読み聞かせをされるのが嫌な方もいらっしゃいます。聴きたくなくてサッといなくなる方もいる。だから様子を見ながら、やっていましたね。数日おきにしてみたりとか、場所を変えてみたりとか。
(注1)2016年4月14日21時26分、熊本地方を震央とする、震源の深さ11キロ、マグニチュード6.5の地震(前震)が発生し、熊本県上益城郡益城町で震度7を観測した。その28時間後の4月16日1時25分には、同じく熊本地方を震央とする、震源の深さ12キロ、マグニチュード7.3の地震(本震)が発生し、熊本県阿蘇郡西原村と益城町で震度7を観測した。これらの地震は、布田川・日奈久(ふたがわ・ひなぐ)断層帯が起こしたもので、その後、震度1以上の余震が、12月31日までに4200回以上発生した。この震災による被害は、死者(関連死を含む)161人、負傷者2692人(ともに12月14日時点)、避難者数18万3882人、避難所数855カ所(ともに4月17日時点)、被害総額約4兆6000億円に達し、激甚災害に指定された。この震災で政府は初めてプッシュ型支援を行い、たとえば佐賀県鳥栖市に開設した物流拠点に約262万食を届けたが、そこから各避難所までは交通渋滞に阻まれ、計画通りの支援を行うことはできなかった。また、震度7を2回経験した益城町では、住宅被害は新しい戸建て住宅にも発生しており、日本建築学会などによる悉皆調査の結果、新耐震設計法の適用下(1981年6月~2000年5月)で木造877棟中、倒壊・崩壊・大破161棟(18.4%)、建築基準法の改正後の耐震基準適用化(2000年6月以降)で317棟中、同19棟(6%)の被害となった(17年9月6日時点)。これらは、設計上の配慮不足や耐震要素の不適切な設計・施工が原因とされた。この震災後、政府は中央防災会議に「熊本地震を踏まえた応急対策・生活支援策検討ワーキンググループ」を設置し、プッシュ型支援など、今回の対応の妥当性について初めて検証(ふりかえり)を行った。将来の南海トラフ巨大地震発生時に有効であると考え、改善することになっている。 (「情報・知識 imidas 2017」「熊本地震(2016年)[防災]の項」)
(注2) 被災した自治体からの要請を待たずに、必要不可欠と見込まれる物資を調達し、被災地に緊急輸送する支援方法。(「デジタル大辞泉」)
インタビューに答えていただいた、西山広成館長と司書の西村まみさん。図書館内の壁面展示の前で。
益城町図書館
2009年4月、「都市と農村が交流する文教の里」の中心的施設として、総合運動公園内にオープンした益城町交流情報センター(愛称:ミナテラス)の「快適な図書館」というコンセプトで開館。ミナテラスは図書館のほか、「情報スペース」の視聴覚室、IT学習室、「交流スペース」の会議室などで構成されている。図書館のコンセプトは「交流型図書館」。小さな子どものためのはだしコーナーやくつろいで本が読めるたたみコーナーなど、さまざまなニーズに対応している。益城町は子育てがしやすい町として知られ、図書館においても蔵書の中で児童書が3割を占めており、親子ふれあい図書館を目指している。
住所 | 〒851-2242 熊本県上益城郡益城町木山236(総合運動公園内) |
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TEL | 096-287-8411 |
HP | http://www.town.mashiki.lg.jp/kouryu/ (益城町交流情報センターホームページ) |
kouryu@town.mashiki.lg.jp | |
開館時間 | 火曜日~日曜日10:00~18:00(水曜日は12:00~20:00) ※休館日は月曜日(祝祭日の場合は翌日)、毎月第3金曜日、年末年始、特別整理期間(年1回) |
利用できるひと | 益城町に在住・在勤・在学者は館外貸出も可能 |
蔵書数 | 約14万冊 |
面積 | 3012.4㎡(交流センター全体) |
開館年月 | 2009年4月 |
地震後のミナテラス裏口。最大1メートルの地盤沈下のため段差が生じている。
4月17日の業務日誌。「避難所にいらっしゃる方々の要望により雑誌をロビーに出したとのこと。(館長より)」と書いてある。
右下には日付表示、2016/05/06とある。地震から3週間で書架はきれいに片付いているが、奥にあるテーブルの先は避難所となっていた。
総合体育館の避難所ではこの簡易間仕切り(1人世帯用)が用いられた。壁は布一枚だけ。
カウンターが避難所となったため、読書優先席(現・学習コーナー)が司書の作業場となっていた。
現在の学習コーナー。パソコンなども利用できる。
地震後、照明器具はすべて埋め込み式になった。
小さな子どもが寝転んで本が読める、はだしコーナー。支援者の休憩所となった。
くつろいだ姿勢でのびのびと本が読めるたたみコーナーも同様に、支援者の休憩所に。
図書館カウンター。地震後はここも避難所となっていた。
古墳時代中期の「城の本(もと)2号墳箱式石棺」。この何トンもする重さの石棺が地震のとき動いた。
地震の注意喚起の掲示板。ヘルメットの貸出についてや、余震に注意などの文言が書いてある。
書架の側板にはくわしい避難経路が掲示されている。
ヘルメットはすぐに手に取れるよう、図書館内に設置。
避難出口となっているテラスへとつづく窓。いざという時のためにカギは締めずに開けた状態。