日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第358回
 

 「冷や奴をあてに一杯飲む」などのように、「あて」ということばを普通に使っているだろうか。「あて」を、酒の肴(さかな)の意味で。
 もし国語辞典がお手近にあったら、この「あて」を引いてみていただきたい。辞典にもよるのだが、意味が載っていなかったというかたも、けっこういらっしゃるのではないだろうか。あるいは、関西方面で使われるといった内容の但し書きのある辞典をお持ちかもしれない。
 そう「あて」はもともとは関西の方言だったのである。だから、この語を載せていない辞典も存在しているというわけである。私の周りでも「あて」と言う人は最近増えているのだが、千葉県出身の私はまったくと言っていいほど使うことはない。「さかな」か「つまみ」である。
 関西方面ではけっこう古くから酒の肴のことを「あて」と言っていたらしく、『日本国語大辞典(『日国』)』では、『大坂繁花風土記(おおさかはんかふどき)』(1814年)の「酒の肴を、あて」という例を引用している。
 ただ、なぜ関西方面で酒の肴を「あて」と言うのかはよくわからないらしい。『日国』では、この酒の肴の意味とは別に、「食事のおかずをいう、演劇社会などの隠語」という意味も記載されているのだが、それとの関係も不明である。だが、全く無関係とも思えない。
 その意味では、以下のような例が引用されている。

 *浮世草子・当世芝居気質〔1777〕一・一「ホヲけふは何とおもふてじゃ大(やっかい)な菜(アテ〈注〉さい)ぢゃな」
 *南水漫遊拾遺〔1820頃〕四「歌舞妓楽屋通言〈略〉あて 飯のさい」

 『当世芝居気質(とうせいしばいかたぎ)』の作者半井金陵(なからいきんりょう)は大坂の人である。
 また、『南水漫遊拾遺』の作者は歌舞伎役者で随筆家でもあった浜松歌国(はままつうたくに)だが、歌国も出身は大坂である。『南水漫遊』は初編・続編・拾遺とあり、内容は歌国が在住していた大坂の事跡、特に演劇について述べられている。『大坂繁花風土記』とほぼ同時代のものであるので、関係がまったくないとは言い切れない気がする。だとすると、酒の肴の「あて」も大坂の芝居関係者の隠語だったのかもしれない。
 こんな話もまた、酒のいい“肴”になりそうだと思うのだが、いかがであろうか。

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■会場:日比谷図書文化館4階スタジオプラス(小ホール)■定員:60名■参加費:1000円
■お申し込み:日比谷図書文化館1階受付、電話(03-3502-3340)、eメール(college@hibiyal.jp)にて受付。
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 先ずは以下の文章をお読みいただきたい。『丹下左膳(たんげさぜん)』で有名な林不忘(はやしふぼう)の『稲生播磨守』(1935年)という作品の一節である。

 「奎堂は追い詰められたごとく、やむなく矢沢の耳へ何ごとか私語ささやく。矢沢は卒然として色をなし、にわかに恐怖昏迷の体。」

 この文章のどこに注目していただきたいのかというと、「色をなす」という語についてである。この語は、国語辞典を見ると、顔色を変えて怒るという意味だと説明されている。たとえば、「色をなして反論する」などと使われるが、これは血相を変えて、つまり顔色が変わるほど怒って反論するという意味である。
 だが、冒頭で引用した『稲生播磨守』では、怒りからではなく、どうやら驚き恐れて顔色が変わるという意味で使われているようなのである。
 「色」は、この場合は色彩のことではなく、表面にあらわれて人に何かを感じさせられるものをいい、「色をなす」の「色」は気持ちによって変化する顔色や表情のことである。「なす」は漢字で「作す」と書く。
 たとえば『日本国語大辞典』で引用している、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905~06)の、

 「只他(ひと)の吾を吾と思はぬ時に於て怫然(ふつぜん)として色を作す」

が本来の使われ方である。「怫然」はむっとして、という意味である。
 冒頭の例の場合は、「色をなす」ではなく「色を失う」というべきものである。「色を失う」は、驚いたり恐れたりして顔色が青くなるということから、意外な事態になってどうしてよいかわからなくなるという意味で使われている。
 「色をなす」の意味を「色を失う」と混同している人はけっこういるようで、他にもそのような使用例を目にすることがある。もちろんそのような混同した意味を辞典に載せることはできないのだが。

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 『現代国語例解辞典』(小学館)の第5版(2016年)の帯に、「1億語を超える国立国語研究所の日本語コーパスを全面的に活用!」とあり、このコーパスの検索結果をグラフ化したコラムがこの版から新たに加わった。コーパスとは、データベース化された大規模な言語資料のことで、言語を分析するための基礎資料になるとして期待されているものである。
 その『現代国語例解辞典』のコラムの中に、「屈服・屈伏」と「降伏・降服」で、「ふく」の漢字表記が、「服」と「伏」とどちらが優勢かということをコーパスを使って調査したものがある。実際の数値は表示されていないのだが、それを見ると、「屈服」と「屈伏」では前者が3分の2、後者が3分の1の割合となっている。また、「降伏」と「降服」では、ほとんどが「降伏」の表記である。
 それぞれの意味は、「屈服(屈伏)」は「相手の力、勢いに負けて従うこと。力尽きて服従すること」(『現代国語例解辞典』)、「降伏(降服)」は「戦いに負けたことを認めて、敵に従うこと」(同)である。
 「服」と「伏」は、白川静著『字通』(平凡社)によると、ともにつきしたがうという意味で、「字源は異なるが、声義に通ずるところがある」という。つまり、別の漢字ではあるが音と意味は通じるところがあるというわけである。
 そうであるなら、「屈服」「屈伏」も「降伏」「降服」もどちらを書いても構わないはずで、実際『日本国語大辞典』の用例を見ると、二語とも古くから「服」「伏」いずれの例も存在する。
 だが、国語辞典の表記欄を見ると、必ずしもそういうことにはなっていないのである。
 「くっぷく」はほとんどの国語辞典では「屈服」「屈伏」の表記を示しているのだが、「屈服」の表記を優先させているのは、『明鏡国語辞典』『三省堂国語辞典』『現代国語例解辞典』などである。ところが、『岩波国語辞典』『新明解国語辞典』では「屈伏」の表記を優先させている。
 一方、「こうふく」は、ほとんどの辞典は「降伏」「降服」の表記を示して「降伏」を優先させているのだが、『新明解国語辞典』は見出しの表記欄には「降伏」しか示さず、項目の末尾に「『降服』とも書く」として他の辞典とは異なる扱いをしている。
 新聞ではどうかというと、報道界が統一使用する語として、「屈服」「降伏」を使うとしている。
 冒頭のコーパスの検索結果によれば、「こうふく」は「降伏」が圧倒的多数を占めているのに、「くっぷく」は「屈服」だけでなく「屈伏」もいまだに勢力を保ち続けているわけで、これは辞典での扱いの揺れが反映しているとみなすべきなのかもしれない。

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 安倍晋三首相が国会審議で、「そもそも」の意味を辞書で調べたら「基本的に」という意味もあると答弁したということが話題になった。辞書にかかわる話なので、辞書の編集に携わってきた者として、何らかのリアクションしておかなければならないと思うのである。
 安倍首相のこの発言を受けて、「毎日新聞」や「朝日新聞」は実際にいくつかの国語辞典を引いて、「そもそも」に「基本的に」という意味があるのかどうか調査している。長年辞書の編集にかかわってきた者として断言できるのだが、「基本的に」という意味を載せている辞書など絶対に存在しない。後で確認すればすぐにわかってしまうのに、なぜそのような発言をしたのだろうか。首相の真意は忖度不能である。
 そもそも、「そもそも」という語は……と、つい言いたくなってしまうのだが、「そもそも」は、品詞の異なるふたつの意味がある。ひとつはこの段落の冒頭で使った「そもそも」で、これは接続詞だが、改めて事柄を説き起こすことを示すことばである。「いったい」とか、「さて」、「だいたい」などという意味をもつ。
 もうひとつは名詞(副詞的にも使う)で、これは接続詞から転じた用法だが、はじめ、最初、発端などといった意味である。「その答えがそもそも間違っているのである」「この計画にはそもそもから反対であった」などと使う。
 「そもそも」は、もともとは主として漢文訓読また漢文訓読調の文章で用いられた語である。漢文訓読では「抑」で「そもそも」と読む。たとえば『論語』「学而」の、

 「夫子至於是邦也、必聞其政。求之与、抑与之与。」は、
 「夫子(ふうし)の是の邦(くに)に至るや必ずその政を聞く。これを求めたるか、抑(そもそも)これを与えたるか。」

と読まれてきた。夫子=先生《孔子のこと》はおいでになった先の国々でその国の政治の相談にあずかりますが、これは先生のほうから求められたものですか、それとも相手の方から招かれたものですか、といった意味である。この場合の「抑(そもそも)」は、「それとも」といったという意味である。
 この漢文訓読で使われた「抑(そもそも)」が古くから和文にも取り入れられ、たとえば平安前期の『竹取物語』のように、

 「抑(そもそも)、いかやうなる心ざしあらん人にか、あはんとおぼす(=いったいどのような誠意のあるかたと結婚しようとお思いですか)」

と使われた。こちらの「抑(そもそも)」は「いったい」という現代語でも使われる意味である。
 日本語は、漢語由来であったり、漢文訓読から生まれたものであったり、もともと和語として存在していたものであったりさまざまである。そしてそのように古くから使われたことばは文語文から口語文に変わったときに決して消滅してしまったわけではなく、現代語としてもしっかりと生き延びているのである。そういった意味で、漢文や古文から日本語を学ぶことはとても大事なことだと思う(それを入試で出題するかどうかは別問題だが)。
 もとより安倍首相が「そもそも」に従来なかった意味があると主張したからと言って、それを斟酌してそのような意味を辞書に載せることはできない。
 またその後、この問題を受けて、政府が閣議で「そもそも」の意味について、『大辞林』に「(物事の)どだい」と記されており、「どだい」には「基本」という意味があるとの答弁書を決定したそうである。確かに『大辞林』の「そもそも」の解説には「どだい」があり、「どだい」を引くと「基本」と出てくるが、だからといって「そもそも」=「基本」となるわけではない。引き合いに出された『大辞林』の編集部も、迷惑な話であったに違いない。
 安倍首相の日本を愛する気持ちをゆめゆめ疑っているわけではない。だが、日本を愛するのなら、国語としての日本語も同じように愛してもらいたいと、一介の辞書編集者は思うのである。

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「忖度」という語が、すっかり流行語のようになってしまった。
 だが、「忖度」には第352回で書いたように、他人の心を推し量るという意味しかなく、現在話題になっているような、推し量ったうえでさらになにか配慮をするという意味はない。
 もし、配慮をするという意味まで含んだ語をどうしても使いたいというのなら、「斟酌(しんしゃく)」のほうがしっくりいくのではないかと思う。
 ただしこの「斟酌」も、本来の意味からどんどん離れて、新しい意味が付け加わっていった語なのである。そういった意味でも「忖度」と非常によく似ている。
 どういうことかというと、「斟(しん))」も「酌(しゃく)」も水や酒などをくむという意味なので、「斟酌」はもともとは酒などをくみかわすという意味の語であった。だが、これがやがて、先方の事情や心の状態をくみとるという意味に変化していく。『日本国語大辞典』(『日国』)ではその意味で使われた近代例として、夏目漱石の『坊っちゃん』のものを引用している。

 「どうか其辺を御斟酌になって、なるべく寛大な御取計を願ひたいと思ひます」

 ここでの「斟酌」は心情を推し量るという意味だけなので、さらに推し量ったうえでの寛大な取り計らいを頼んでいるのである。
 ところが「斟酌」の意味はさらに変化をし続ける。ほどよくとりはからう、気をつかう、手加減することという意味で使われるようになるのである。ちょうど今「忖度」で起きている現象が、「斟酌」でもある時期に起きていたわけである。この意味で引用されている『日国』の用例は、古典例ばかりでちょっとわかりにくいのだが、島崎藤村の『破戒』という小説に以下のようなちょうどよい例がある。

 「そこは県庁でも余程斟酌して呉れてね、百円足らずの金を納めろと言ふのさ。」

 この「斟酌」にはほどよく取り計らうという意味もあるので、今話題になっている新しい意味が付け加わった「忖度」と置き換えても、何の違和感もなさそうである。
 「斟酌」という語が面白いのは、これで新しい意味への変化が終わらなかったことである。どのようなことかいうと、言動をひかえ目にすること、遠慮すること、辞退することといった意味で使われるようになるのである。『日国』では、この意味の近代の例として正宗白鳥の『泥人形』(1911年)の、

 「斟酌なく御指導被下度願上候」

 という例を引用している。遠慮なくご指導くださいとお願いしているのである。
 だが『日国』によると、さすがにこの意味になると、本来の用法から外れたものであるという規範意識から、誤用だという指摘も古くからあったらしい。今まさに「忖度」の新しい意味に対して多くの日本語研究者が指摘しているのと同じ状況である。
 私たちは、まさに「忖度」が「斟酌」と同じような意味の変化を起こしている現場に居合わせているのかもしれない。ことばの世界も歴史は繰り返すということなのであろうか。

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