改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧

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陸奥宗光(国史大辞典・世界大百科事典)
明治の政治家,外交官。和歌山藩士伊達宗広の第6子として出生。宗広は和歌山藩大番頭格を務め,千広と号して《大勢三転考》を著す。宗光の幼名牛麿,江戸遊学ののち脱藩,陸奥陽之助と称し坂本竜馬のひきいる海援隊の一員として活躍。維新後政府に出仕,外国事務局御用
大隈重信(国史大辞典・世界大百科事典)
明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末の政局で
板垣退助(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を
福沢諭吉(国史大辞典・世界大百科事典)
明治の思想家,教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。学識豊かな教養人でありながら軽格のため不遇に終わった父の生涯,中津における一家の孤立,下士の生活の惨めさは彼のうちに早くから
伊藤博文(世界大百科事典)
明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換を
岩倉具視(国史大辞典・世界大百科事典)
明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政
木戸孝允(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一郎,孝允と改名,号は松菊。1849年(嘉永2)吉田松陰の門下となり,52年江戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に
徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を
勝海舟(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末・明治の政治家。下級幕臣勝小吉の長男で通称麟太郎,名は義邦,海舟は号。幼少のころ将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめたが,その死によって微禄御家人の生活に戻り,島田虎之助について剣術をきわめ,ついで島田のすすめで蘭学により西洋兵学を身につけた
井伊直弼(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
江戸末期の大老,彦根藩主。掃部頭と称した。1850年(嘉永3),長兄直亮の死により13代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は,開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
アメリカの海軍将官。日本開国の先駆者,最初の日米条約の締結者。ロード・アイランド州サウス・キングストン(ニューポートの説もある)に海軍一家の三男として生まれる。1809年,海軍に入り,兄オリバーOliverHazardPerry指揮下の砲艦勤務を
水野忠邦(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸後期の大名。天保改革の指導者。肥前の唐津藩主水野忠光の庶子として生まれた。1812年(文化9)唐津6万石を襲封すると,すぐに藩政改革の断行を宣言し,藩主親裁の姿勢をとった。15年奏者番に任命され,幕閣への登竜門に立った忠邦は,17年減収をおそれた
大塩平八郎(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
江戸後期の大坂東町奉行所与力で陽明学者。1837年2月に大坂で乱を起こして自殺。父は平八郎敬高,母は大西氏。出生地には大坂天満と阿波美馬郡の2説がある。幼くして両親を失い,与力であった祖父のあとを継ぐ。幼名文之助,長じて平八郎と称し,諱(いみな)は
シーボルト(世界大百科事典)
江戸後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれる。大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に
田沼意次(世界大百科事典)
江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増
杉田玄白(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸中期の蘭方医。若狭国小浜藩医杉田玄甫(甫仙)の子として江戸牛込の小浜藩邸で生まれた。名は翼(たすく),字は子鳳(しほう),号は鷧斎(いさい)といい,晩年には九幸翁とも号した。堂号を小詩仙堂,天真楼といった。官医西玄哲にオランダ流外科を学んだが
大岡忠相(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同姓の忠真の養子となる。93年(元禄6)実兄が八丈島に流罪,96年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が
徳川吉宗(改訂新版 世界大百科事典)
1684-1751(貞享1-宝暦1)江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行
新井白石(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人,天爵堂など。新井家はもと常陸国下妻城主多賀谷氏に仕えたが,関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う。父正済(まさなり)は江戸へ出奔
徳川綱吉(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。生母は本庄氏,桂昌院。1651年(慶安4)父家光の死後,上野国その他で所領15万石を与えられ,61年(寛文1)10万石加増,館林城主となる。64年左大臣鷹司教平女信子と結婚。80年(延宝8)兄4代将軍
益田時貞(天草四郎)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ
徳川家光(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝
伊達政宗(国史大辞典・世界大百科事典)
戦国末期から江戸初期の大名。米沢城主,のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。母は山形城主最上義守の娘。幼名梵天丸。1577年(天正5)元服,伊達中興の祖大膳大夫政宗の名を襲い藤次郎政宗と称する。79年三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫(陽徳院)
上杉謙信(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
越後国の戦国大名,関東管領。父は守護代長尾為景。幼名虎千代,元服後は平三景虎。1543年(天文12)父為景の死後,古志郡栃尾城に移り,48年末兄晴景に代わって越後守護代,事実上の国主の座につく。当初,一族長尾政景と抗争したがこれと和し,越後統治の障害
武田信玄(国史大辞典・世界大百科事典)
戦国期の武将。初め甲斐国の大名で,のちに信濃,駿河と上野,飛驒,美濃,三河,遠江の一部を領有する戦国大名となる。父は信虎。幼名を太郎,勝千代といい,元服して晴信と称し,官途は大膳大夫,信濃守に任ぜられた。1559年(永禄2)に出家して信玄と号し
毛利元就(国史大辞典・世界大百科事典)
戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ,郡山城主となる。25年以降出雲の尼子氏と絶って周防大内氏に属し,40年(天文9)には
斎藤道三(国史大辞典・世界大百科事典)
戦国時代の武将。藤原規秀,長井新九郎規秀(のりひで),斎藤左近大夫利政などと名のる。道三は法名。父長井新左衛門尉は,京都の妙覚寺の僧で,還俗して美濃守護土岐氏の家臣長井弥二郎に仕え,西村と名のり土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人にまで出世した。
北条早雲(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
戦国時代の武将。後北条氏初代。早雲は庵号で,また彼は北条を称したことはなく,一般にいいふるされている呼称は俗称。正しくは伊勢新九郎で,入道して早雲庵宗瑞あるいは宗瑞とみずから記している。実名は長氏とされ,また氏茂などを伝えているが,いずれも確証はない
一休宗純(国史大辞典・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
室町時代の臨済の禅僧。諱(いみな)は宗純,狂雲子とも号した。父は後小松天皇。この皇胤説には疑問をもつ人もあるが,当時の公家の日記にみえ,今日ではほぼ定説となっている。6歳のとき,臨済五山派の名寺である京都安国寺に入り像外集鑑(ぞうがいしゆうかん)についた
足利義政(国史大辞典・世界大百科事典)
室町幕府8代将軍。1449-73年(宝徳1-文明5)在職。6代将軍義教の子,7代将軍義勝の同母弟。母は日野重光の女重子。1441年(嘉吉1)いわゆる嘉吉の乱で義教が横死し,ついで43年義勝も夭死したため家督を継ぐ。46年(文安3)後花園天皇から義成
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