改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧
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日本武尊(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
《古事記》《日本書紀》《風土記》などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第3皇子,母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ,幼名に小碓(おうす)命,倭男具那(やまとおぐな)王がある。年少にして勇武人にすぐれ

卑弥呼(新版 日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
《魏志倭人伝》に見える邪馬台国の女王。178-183年(後漢霊帝の光和年間)ごろに倭国で戦乱があり,卑弥呼が倭国内の諸小国の首長によって邪馬台国の王に共立された結果,邪馬台国をふくむ倭国の戦乱は,いちおう終息した。卑弥呼は,呪術的宗教の司祭にたけ

上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の称。太上天皇の略。譲位は645年(大化1)皇極天皇が孝徳天皇に皇位を譲ったのに始まり,新帝は姉の皇極に皇祖母尊(すめみおやのみこと)の尊称をたてまつったが,大宝令において〈譲位の帝〉の尊称を太上天皇と定めた。中国の太上皇帝(太上皇)に

昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第124代に数えられる天皇。在位1926-89年。名は裕仁(ひろひと),幼名は迪宮(みちのみや)。大正天皇の第一子。母は皇后九条節子(さだこ)。1916年11月立太子礼を行う。21年3~9月ヨーロッパ各国を回り,11月摂政となる。23年12月難波大助

明治天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第122代に数えられる天皇。1868年に即位し,明治国家の主権者として君臨した。孝明天皇を父とし権大納言中山忠能の女慶子を母として,京都の中山邸で生まれた。祐宮(さちのみや)と命名され,60年(万延1)儲君(ちよくん)となり,立親王の宣下とともに

孝明天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第121代に数えられる天皇。在位1847-66年。仁孝天皇第4皇子。名は統仁(おさひと)。1846年践祚。条約勅許問題以降,積極的に政治に関与。その政治的立場は,強硬な攘夷主義と公武合体論。58年日米修好通商条約の締結に際して,幕府はその勅許を要請し

桃園天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第116代に数えられる天皇。在位1747-62年。名は遐仁(とおひと)。桜町天皇の第1皇子で,1747年(延享4)3月立太子,同年5月践祚。好学の聞えが高く,漢学の造詣も後光明天皇以来と,侍読の臣が感嘆したという。在位の間に起きた宝暦事件は王政復古

霊元天皇(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典)
第112代に数えられる天皇。在位1663-87年。名は識仁(さとひと)。後水尾天皇の第19皇子。誕生の年に兄後光明天皇の猶子となり,早くから皇嗣に予定されていたが,1663年(寛文3)10歳で後西天皇の譲りを受けて践祚した。87年(貞享4)

後水尾天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第108代に数えられる天皇。在位1611-29年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前子。1611年(慶長16)後陽成天皇のあとをうけて即位。20年(元和6)将軍徳川秀忠の女和子(まさこ)を女御とし,24年

後陽成天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第107代に数えられる天皇。在位1586-1611年。諱(いみな)は和仁,のち周仁(かたひと)。正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第1子。母は新上東門院勧修寺晴子。正親町天皇のあとをうけて即位し,第3皇子政仁親王(後水尾天皇)に譲位

崇光天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
北朝第3代天皇。在位1348-51年。光厳天皇第1皇子。名は初め益仁,後に興仁と改めた。母は陽禄門院三条秀子。1338年(延元3・暦応1)立太子,48年(正平3・貞和4)受禅,翌年即位式を挙げたが,51年(正平6・観応2)足利氏内紛により尊氏が南朝に

光明天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
北朝第2代の天皇。在位1336-48年。後伏見天皇の第9皇子。名は豊仁。1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇に反した足利尊氏に擁立された。実際の政務は兄光厳上皇の院政によって行われ,48年(正平3・貞和4)に上皇の皇子崇光天皇に譲位した。51年

光厳天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)

長慶天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第98代に数えられる天皇。在位1368-83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。名は寛成。母は嘉喜門院藤原氏。1368年(正平23・応安1)3月住吉行宮で践祚,以後吉野,河内国天野山,大和国栄山寺に移った。94年8月1日死去。その前に落飾,法名を

後村上天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第97代に数えられる天皇。在位1339-68年。後醍醐天皇の第8皇子。名は初め憲良,のち義良。母は新待賢門院阿野廉子。父天皇の天下一統の戦いに参加し,はじめ北畠顕家とともに東北経営に従い,いったん吉野に戻り,38年(延元3・暦応1)再び東国に向かう

後醍醐天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第96代に数えられる天皇。在位1318-39年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。当時,皇統は大覚寺・持明院両統に分裂

花園天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第95代に数えられる天皇。在位1308-18年。伏見天皇の第3子,母は洞院実雄の女顕親門院藤原季子。名は富仁。大覚寺統,持明院統のきびしい対立の中で,1301年(正安3)大覚寺統後二条天皇のあとをうけるべき持明院統側の人として,急遽,親王とされ

後宇多天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第91代に数えられる天皇。在位1274-87年。亀山天皇の第2皇子。母は左大臣洞院実雄の娘京極院佶子。名は世仁。大覚寺殿と称された。在位中は父亀山上皇の院政時代で,その間と退位後も学問に努めた。1301年(正安3)皇子の後二条天皇が即位すると院政を

亀山天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第90代に数えられる天皇。在位1259-74年。後嵯峨天皇の第3皇子,名は恒仁。母は西園寺実氏の娘大宮院姞子。父天皇のはからいで兄後深草天皇の譲りをうけて即位し,ついで皇子(後宇多天皇)に位を譲って大覚寺統の皇統をひらき,持明院統との対立のもとを

後深草天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第89代に数えられる天皇。在位1246-59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1)上皇の命で弟亀山天皇に譲位し,以後皇統が亀山天皇の大覚寺統に相伝されそうになると,鎌倉幕府の斡旋で皇子伏見天皇の践祚を実現

後嵯峨天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第88代に数えられる天皇。在位1242-46年。土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて

順徳天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第84代に数えられる天皇。在位1210-21年。後鳥羽天皇の第3皇子。名は守成,のち佐渡院とも称す。母は高倉範季の娘修明門院重子。土御門天皇の皇太弟を経て即位。後鳥羽上皇の討幕計画に参画。そのため承久の乱直前の1221年(承久3)4月仲恭天皇に譲位

土御門天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第83代に数えられる天皇。在位1198-1210年。名は為仁(ためひと)。後鳥羽天皇の第1皇子。母は源通親の娘在子(承明門院)。1198年(建久9)後鳥羽天皇の皇太子となり,即日受禅。1210年(承元4)後鳥羽上皇の命により順徳天皇に譲位。父上皇の

後鳥羽天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第82代に数えられる天皇。在位1183-98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚。践祚の後も後白河法皇が院政を行ったが,92年

安徳天皇(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
第81代に数えられる天皇。在位1180-85年。名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。80年(治承4)即位。同年6月摂津国福原に遷都したが,11月京都に帰る。83年(寿永2)7月木曾義仲入京

高倉天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第80代に数えられる天皇。在位1168-80年。名は憲仁(のりひと)。後白河天皇の第7皇子。母は平滋子(建春門院)。1168年(仁安3)六条天皇の譲位を受けて8歳で即位。院政を敷く父法皇と中宮徳子(建礼門院)の父平清盛との対立に悩み,79年(治承3)

後白河天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第77代に数えられる天皇。在位1155-58年。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。母は待賢門院藤原璋子。近衛天皇急死の後,鳥羽院,美福門院,藤原忠通の意向で,後白河の子(後の二条天皇)を即位させるための暫定措置として1155年(久寿2)29歳で即位。

崇徳天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第75代に数えられる天皇。在位1123-41年。鳥羽天皇第1皇子,母は中宮璋子(待賢門院,藤原公実女,白河院養女),実は鳥羽の祖父白河院が璋子に生ませた子といわれる。諱(いみな)は顕仁。1123年(保安4)白河の意向で鳥羽の譲りをうけて即位したが

鳥羽天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
第74代に数えられる天皇。在位1107-23年。父は堀河天皇,母は女御(贈皇太后)苡子(藤原実季女)。諱(いみな)は宗仁。誕生の年に立太子,1107年(嘉承2)堀河天皇が没し即位。藤原忠実が摂政となる。13年(永久1)元服。23年(保安4)

堀河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第73代に数えられる天皇。在位1086-1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。白河天皇の次の東宮には父後三条院の意志で白河天皇の弟実仁親王が立ったが,後三条院は実仁の次にはその弟輔仁を