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足利尊氏(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三〇五 - 五八 室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を
新田義貞(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三八 鎌倉・南北朝時代の武将。新田朝氏の嫡子。小太郎。左中将、右衛門佐、治部大輔を歴任。義貞は元弘三年(一三三三)河内に蜂起した楠木正成討伐の楠木合戦に御家人として参加したが途中で上野に帰国した。ところが幕府の軍費調達の有徳
楠木正成(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三六 南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく
北条時宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二五一 - 八四 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して
北条時頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二二七 - 六三 鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着
北条泰時(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一八三 - 一二四二 鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)
北条政子(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五七 - 一二二五 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから
源義経(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五九 - 八九 鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)ら
源義朝(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一二三 - 六〇 平安時代後期の武将。源為義の長子として保安四年(一一二三)に誕生、母は淡路守藤原忠清の女。生年は没年から逆算したものであり、出生地も不明である。『保元物語』には父為義の言として、「嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて
平清盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一一八 - 八一 平安時代末期の武将。平忠盛の嫡子。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の妹といわれる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜され、生まれたのが清盛という(『仏舎利相承系図』)。この生母は清盛生誕の翌々年病没したらしい
雪舟(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ) 室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京、相国寺に入り、春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい、画事を周文に習った
源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三九 - 一一〇六平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで
藤原頼通(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
藤原道長(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
九六六 - 一〇二七平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫
紫式部(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清
蘇我馬子(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
?-626(推古34)飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた
橋本進吉(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
国語学者。福井県敦賀市に生まれる。代々の医家であったが、5歳にして父を失った。第三高等学校を経て、1906年(明治39)東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる。09年東京帝国大学文科大学助手に任ぜられ、27年(昭和2)助教授、2年後教授となる
西郷従道(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治時代の政治家、軍人。天保十四年(一八四三)五月十四日薩摩藩の下級藩士(御小性与)西郷吉兵衛の第六子(三男)として鹿児島城下加治屋町に生まれる。母は同藩士椎原権右衛門の娘マサ。西郷隆盛は従道の長兄にあたる。幼名は竜助。幼くして両親を失い島津家の茶坊主として
ナポレオン [改訳](文庫クセジュ ベストセレクション)
ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
ニーチェ(文庫クセジュ ベストセレクション)
第一部 ニーチェの生涯と著作 第一章 生涯 ニーチェは好んでポーランド貴族の末裔を称した。しかし実際には、詳細な研究が十八世紀の初頭まで遡って明らかにしたところによれば、ニーチェの家系は完全にドイツ系である。ニーチェの祖先のうちには、数多くの聖職
鳥羽僧正(新版 日本架空伝承人名事典)
覚猷。密教図像の収集、書写に貢献し、後に天台座主にもなった平安時代の高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事、四天王寺別当となり同寺復興に功をたてたあと、三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること二十数年、密教事相の研究に努め、収集の図像は「法輪院本」として重きをなし
西郷隆盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の
大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。
大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。
天璋院(篤姫)(日本大百科全書(ニッポニカ))
徳川13代将軍家定の正室。名は篤子、のち敬子。通称篤姫。幼名は於一。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。父、島津忠剛は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉
林羅山(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代初期の儒学者。江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖。名は信勝または忠、字は子信、通称ははじめ又三郎、のち道春という僧号で呼ばれた。羅山とは儒学者としての号で,中国広東省の羅浮山で宋代の学者が『春秋』を研学したとの故事に基づき
今川氏真(国史大辞典)
一五三八-一六一四。戦国時代の武将。上総介。天文七年(一五三八)義元の子として生まれる。母は武田信虎の女。永禄元年(一五五八)すでに駿河にその発給文書がみられ、国務の一部を委ねられていたが、同三年父義元の討死により家督を相続した。しかし氏真にとって、桶狭間の敗戦の打撃は
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