第378回
2018年04月16日
「改ざんに手を染めたのか」
といっても、財務省の公文書改ざん問題について論じようというわけではない。「手を染める」ということばについてである。「手を染める」は手をつける、事業などに関係するという意味である。「そめる」はその行為がはじまるという意味で、現在では「染める」と書くことが多いのだが、もともとは「初める」あるいは「始める」と表記されていた。だが、なぜ「初(始)める」が「染める」と書くようになったのかはよくわからない。
インターネットで検索すると、「手を染める」は、作家の谷崎潤一郎が昭和に入って使い始めたと言われていて、小説『吉野葛』を執筆中に谷崎の遊び心から「手を染める」が生まれたと書かれているものがあった。出どころはテレビのバラエティー番組である。谷崎の『吉野葛』(1931年)は大学生のときに読んで深く感銘を受けた小説なので、もしそれが本当ならとてもうれしい。
だが、日本語の歴史を文献を通じて見てきた辞書編集者として確信をもって言えることだが、「手を染める」の表記は谷崎の創始ではない。なぜそのようなことが言えるのか。
その根拠のひとつが、『名語記(みょうごき)』(1275年)という鎌倉時代の辞書にある。『日本国語大辞典(日国)』の「そめる(初)」の項目で引用されているのだが、一部を示すと以下のような内容だ。
「みそむ、ききそむのそむ如何。これは、初の心につかへり。〈略〉そむは猶、ただ染の字なるべしとおぼえ侍(は)べり。いろをつけはじむる心地也。そむる義とこそ推せられたれ」
「みそむ(初めて会う)」「ききそむ(初めて聞く)」という語の「そむ」について説明した部分である。どういう内容かというと、「そむ」は「初」という意味で使っている。〈略〉また「そむ」はやはり「染」の字だと思われる。色を付け始めるという意味であり、染めるという意味だと推測できる、というものである。これから何かをしはじめるという意味の「そめる」を「染める」と表記するのは少なくとも鎌倉時代から行われていたことがわかる。
さらに『日国』では「そめる(染)」の解説の中で、「(「手をそめる」などの形で)ある物事を始める。その事に関係する」という意味で使われるとし、菊池寛の小説『藤十郎の恋』(1919年)の、
「不義非道な色事には、一指をだに染めることをしなかった」
という例を引用している。
さらにこれが決定打になるのだが、『日国』にはないこんな例がある。劇作家の岸田国士の『俳優教育について』という評論で、発表は1926年。『吉野葛』よりも5年古い。
「興行師も一方旧劇といふものがある以上、わざわざこの不景気な新劇に手を染めようとせず、俳優志願者も、少し素質のあるものは、映画などに走り」
このような例があっても、「手を染める」という表記を岸田国士が初めて使ったとは言えないであろう。用例はそのことばのアリバイになるものであるが、それを扱うのはとても難しい。「手を染める」谷崎潤一郎創始説が独り歩きしないよう願うばかりである。
といっても、財務省の公文書改ざん問題について論じようというわけではない。「手を染める」ということばについてである。「手を染める」は手をつける、事業などに関係するという意味である。「そめる」はその行為がはじまるという意味で、現在では「染める」と書くことが多いのだが、もともとは「初める」あるいは「始める」と表記されていた。だが、なぜ「初(始)める」が「染める」と書くようになったのかはよくわからない。
インターネットで検索すると、「手を染める」は、作家の谷崎潤一郎が昭和に入って使い始めたと言われていて、小説『吉野葛』を執筆中に谷崎の遊び心から「手を染める」が生まれたと書かれているものがあった。出どころはテレビのバラエティー番組である。谷崎の『吉野葛』(1931年)は大学生のときに読んで深く感銘を受けた小説なので、もしそれが本当ならとてもうれしい。
だが、日本語の歴史を文献を通じて見てきた辞書編集者として確信をもって言えることだが、「手を染める」の表記は谷崎の創始ではない。なぜそのようなことが言えるのか。
その根拠のひとつが、『名語記(みょうごき)』(1275年)という鎌倉時代の辞書にある。『日本国語大辞典(日国)』の「そめる(初)」の項目で引用されているのだが、一部を示すと以下のような内容だ。
「みそむ、ききそむのそむ如何。これは、初の心につかへり。〈略〉そむは猶、ただ染の字なるべしとおぼえ侍(は)べり。いろをつけはじむる心地也。そむる義とこそ推せられたれ」
「みそむ(初めて会う)」「ききそむ(初めて聞く)」という語の「そむ」について説明した部分である。どういう内容かというと、「そむ」は「初」という意味で使っている。〈略〉また「そむ」はやはり「染」の字だと思われる。色を付け始めるという意味であり、染めるという意味だと推測できる、というものである。これから何かをしはじめるという意味の「そめる」を「染める」と表記するのは少なくとも鎌倉時代から行われていたことがわかる。
さらに『日国』では「そめる(染)」の解説の中で、「(「手をそめる」などの形で)ある物事を始める。その事に関係する」という意味で使われるとし、菊池寛の小説『藤十郎の恋』(1919年)の、
「不義非道な色事には、一指をだに染めることをしなかった」
という例を引用している。
さらにこれが決定打になるのだが、『日国』にはないこんな例がある。劇作家の岸田国士の『俳優教育について』という評論で、発表は1926年。『吉野葛』よりも5年古い。
「興行師も一方旧劇といふものがある以上、わざわざこの不景気な新劇に手を染めようとせず、俳優志願者も、少し素質のあるものは、映画などに走り」
このような例があっても、「手を染める」という表記を岸田国士が初めて使ったとは言えないであろう。用例はそのことばのアリバイになるものであるが、それを扱うのはとても難しい。「手を染める」谷崎潤一郎創始説が独り歩きしないよう願うばかりである。
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