日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 「花散らし」ということばをご存じだろうか。桜の散る季節に、テレビやラジオのニュースなどで、「花散らしの雨(かぜ)」などと言っているのをお聞きになった方もいらっしゃるのではないだろうか。もちろん桜の花びらを散らすという意味で使われているのだが、実は小型の国語辞典には載っていないことばなのである。
 だが、だからといって最近生まれたことばかというとそういうわけではない。『日本国語大辞典』(『日国』)、や『広辞苑』などには載っているのである。ただし、そこに書かれているのは、花びらを散らすというものではない、まったく違う意味なのである。
 たとえば『日国』では「方言」として扱っていて、「陰暦三月三日の節句の翌日に野山に遊びに出ること」と解説されている。つまり、「花散らし」と呼ばれる風習があるというのである。そして、この語が使われる地域を、その根拠となった方言資料集から、佐賀県東松浦郡、長崎県対馬(つしま)、壱岐島(いきしま)だとしている。東松浦郡は佐賀県の北西部にあり北は玄界灘に面していて、玄界灘をはさんで壱岐島と向かい合った地域である。他にもこのような風習を「花散らし」と呼んでいる土地はあるのかもしれないが、『日国』を見る限りではかなり限定された地域で使われていたものと推察される。
 ただし「花散らし」は俳句の季語として用いられることがあるのか、ほとんどの歳時記には「磯遊(いそあそび)」の同義語として載せられている。「磯遊」とは文字通り磯に出かけて遊ぶことだが、特に3月の節句のころに海岸や河原に遊びに行くことを言う。もっとも同義語とは言っても「花散らし」は野山に遊びに行くという違いはある。
 陰暦だとその頃は地域によっては桜が咲く時期に当たることから、野山に出かけることを桜の花びらを散らしに行くのだと少し風流に言ったのであろうか。「磯遊」にしろ「花散らし」にしろ、春の訪れをことほぐ行事であったものと思われる。
 なお、インターネットで「花散らし」を検索すると、散るのは桜ではなく、若い男女が野山に出かけるのだから男女のことを暗示させる語だと述べているものもある。その可能性は否定できないが、だからといってそう言い切る根拠はどこにもない。
 また、「花散らし」という語は方言だと書いたが、「花を散らす」「花散らす」という言い方は古くから存在していた。風が吹くなどして、花を枝から落とすといった意味である。『古今和歌集』(905~914)にも素性(そせい)という当時の代表的な歌人の以下のような歌が収められている。

 「花ちらす風の宿りはたれかしるわれに教へよ行きて恨みむ」(春下・七六)

 桜の花を散らせてしまう風が、一時的にとどまっているところを誰か知っているだろうか。私に教えてほしい。訪ねていって恨み言を言ってやろう、といった意味である。
 この「花(を)散らす」という表現が、本来は別の意味であった名詞の「花散らし」といつの間にか結びついて、「花散らしの雨」のような言い方が生まれたのかもしれない。

★神永曉氏、朝日カルチャー新宿教室に登場!
 辞書編集ひとすじ36年の、「日本語、どうでしょう?」の著者、神永さん。辞書の編集とは実際にどのように行っているのか、辞書編集者はどんなことを考えながら辞書を編纂しているのかといったことを、様々なエピソードを交えながら話します。また辞書編集者も悩ませる日本語の奥深さや、辞書編集者だけが知っている日本語の面白さ、ことばへの興味がさらに増す辞書との付き合い方などを、具体例を挙げながら紹介されるそう。
講座名:辞書編集者を惑わす 悩ましい日本語
日時:5月21日(土)13:30-15:00
場所:朝日カルチャーセンター新宿教室
住所:東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル4階(受付)
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第307回
 

 NHKの大河ドラマ『真田丸』で使われたことばが話題になっているらしい。ご存じの方も大勢いらっしゃるであろう、「黙れ、こわっぱ」というやつである。
 西村雅彦さん演じる室賀正武(むろがまさたけ)という信濃の武将が、真田信繁(幸村)の兄である大泉洋さん演じる真田信之に向かって、信之が軍議の場で何か発言をすると、そう怒鳴りつけるのである。西村さんの言い方と、そのときの大泉さんの表情が何ともおかしいのである。
 「こわっぱ」とは、子ども、または若輩者をののしっていう語で、若造といった意味である。「こわらわ(小童)」の変化した語で、「こわらわ」とは幼い子ども、小さな子どものことである。
 「わらは(童)」は、まだ元服していない、10歳前後の子どもを言う。なぜそれくらいの年齢の子どもを「わらわ」と呼ぶのかはよくわかっていないのだが、この年代の子どもは髪を束ねないで下げ垂らした髪型をしていて、それを「わらわ」と言ったことによるという説がある。ただし子どもと髪型の呼称のどちらが先なのかはよくわからない。
 「わっぱ」はこの「わらわ(童)」が変化した語である。もちろん「わっぱ飯」などという、まげ物の弁当入れを言う「わっぱ」のことではないし、車輪や手錠などをいう「わっぱ」とも違う。それらはいずれも漢字で書くと「輪っぱ」である。
 ちなみに、時代劇などで武家の女性の自称として使われる「わらわ(私・妾)」は、この「わらわ(童)」から生まれた語である。童(わらわ)のような未熟な者、幼稚な者といった意味なのであろう。また、「かっぱ(河童)」は、「かわわらは(河童)」の変化した「かわわっぱ」から生まれた語である。
 なお、蛇足ではあるが、室賀正武は天正12年(1584)に、信之・信繁兄弟の父昌幸に殺害される。室賀正武に「こわっぱ」呼ばわりされる信之は永禄(えいろく)9年(1566)の生まれなのでこのときはまだ10歳代で、まさに「こわっぱ」と言える年頃である。ところがそれを演じる大泉洋さんの実年齢はというと、どう考えても20歳前とは言えないはずだが、まったく違和感がない。役者さんはすごいと思う。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」(国枝史郎『名人地獄』1925年)

 この文章を書いた国枝史郎は伝奇性の富んだ小説を数多く発表した大正~昭和前期の作家である。
 みなさんはこの引用文にある「煮え湯を呑(の)まされた」ということばの使い方に違和感をもつことはないであろうか。
 なぜそのようなことを言うのかというと、「煮え湯を飲まされる」は信用している人から裏切られひどい目にあわせられる、という意味のことばだからである。たとえば「腹心の部下に煮え湯を飲まされる」 のような言い方が本来の意味なのである。ところが、この語を敵やライバルなどからひどい目にあわせられるという意味で使う人が増えているらしい。この『名人地獄』の例もまさにそれで、「賊」というのは信頼している人間とは間違っても言えないであろう。
 お手元に国語辞典があったらぜひこの語を引いていただきたいのだが、ほとんどの辞書では、語の意味の最初に「信頼する人から」とか「信用している人から」とかいう条件がつけられているはずである。
 「煮え湯」は沸騰した熱湯という意味だが、信頼していた者から熱湯を出されて、何の疑いも抱かずにいきなり飲んでしまったらひどい目にあったということである。それが、信頼していた者からという本来の意味にあった部分がだんだん薄れてしまって、単にひどい目にあわせられるという意味で使われるようになったものと思われる。
 文化庁が発表した2011(平成23)年度の「国語に関する世論調査」では、「煮え湯を飲まされる」を、本来の意味とされる「信頼していた者から裏切られる」で使う人が64.3パーセント、本来の意味ではない「敵からひどい目に遭わされる」で使う人が23.9パーセントという結果が出ている。この調査の結果では、新しい意味で使うという人はまだ少数派ではあるが、16~19歳に限ってみると、従来の意味で使う人41.0パーセント、新しい意味で使う人37.2パーセントと、その割合がかなり拮抗しているのである。
 この世代がやがて日本をになう年齢に達したときには、新しい意味が優勢になるのかもしれない。そしてそれとともに、国語辞典としても何らかの対応を求められるようになるかもしれないのである。

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 「願わくは今年も家族全員が元気に暮らしていかれますように」

 この文章を読んだとき、「あれ?」と思いになった方もけっこういらっしゃるのではないだろうか。「願わくは」ではなく「願わくば」が正しいのではないかと。
 だが、「願わくは」が本来の言い方で、「願わくば」は実は新しく生まれた言い方なのである。
 「願わくは」は、願うところは、望むことはという意味で、願望や希望の表現を伴って、ひたすら願うという意味を表すことばである。強調して「こい願わくは」と言うこともある。
 文法的な話をさせていただくと、「願わく」は動詞「ねがう(願)」のク語法(活用語の語尾に「く」などがついて、名詞化される語法)で、これに助詞「は」が付いたものが「願わくは」である。もともとは漢文訓読から生まれた語法で、「願わくは、~せんことを」「願わくは~したいものである」といった形で使われた。そのため現代でも、文語調の文章で用いられることが多い。
 「願わくば」はその語源意識が失われて、助詞「は」を濁らせて使うようになった言い方なのである。
 古典の中でこの「願わくは」を使った用例として最も有名なものは、平安後期の歌人西行の歌集『山家集』(12C後)に載せられた以下の歌であろう。

 「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」

 願うことなら桜の花の下で春に死にたいものである。陰暦二月の十五夜のころにといった意味である。
 「願わくば」と濁った用例は時代が下って、江戸時代から見られるようになる。たとえば、

 「南無薬師十二神、願はくば、みづからに、男子にても、女子にても、子だねを一人、さづけたまへ」(浄瑠璃『十二段草子』1610~15頃か)

のような用例がそれである。
 『十二段草子』は浄瑠璃とは言っても現在でも上演されている人形浄瑠璃とは違う、それ以前に発生した、牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語を元にした語り物である。今では神仏に祈るとき、ここにあるように「願わくば」という人も多いのではないだろうか。
 最近の国語辞典では「ねがわくは」を見出しとして、そこで「ねがわくば」ということもあると注記しているもの、「願わくば」を空見出しとしているもの、「願わくば」は誤りだと言い切っているものの3種類に大きく分けられる。
 私は、確かに文法的には誤りかもしれないが、だからといって誤用だと言い切るのはいかがなものかと思っている。

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 「初老」という語が表す年齢を、何歳くらいだとお思いだろうか。だいたい60歳前後であろうか。とすると私自身もそうだということになるのだが。
 「初老」は老人の域にはいりかけた年ごろという意味だが、古くは40歳の異称だったのである。「初老」の用例は、『日本国語大辞典』(『日国』)で引用された、菅原道真(すがわらのみちざね)の漢詩文集『菅家文草(かんけぶんそう)』(900年頃)にある「題白菊花」と題された七言律詩の一句がもっとも古い。菅原道真は後世、学問の神の天神様としてあがめられた人である。こんな句である。

 「霜鬚秋暮驚初老」

 秋の日の暮れ方に、霜のように白くなったあごひげに気づいて自分も40歳になったのかと愕然(がくぜん)とするという意味である。この漢詩を作ったとき道真はまさに数えで40歳であったと推定される。個人差はあるかもしれないが、現代でも40歳近くなると髪の毛に限らずひげにも白いものが増えてくるであろう。初めて自分のそんな姿を見たときの驚きを詠んだ詩である。思い当たる方も多いかもしれない。
 だが、寿命が延びた現代では、たとえひげや髪に白いものが増えてきても、40歳を「初老」という人はいないと思われるし、当人たちもそうは思わないであろう。そのため、最近の辞書は、50歳から60歳前後をさすとしているものが多い。
 『日国』にも、岡茂雄氏という出版社の経営者として数々の名著を世に送り出した方の以下のような文章が引用されている。

 「いいたい放題を喚き合って、なんのこだわりもない。これが五十前後から六十前後までの初老(当時としては)の集まりである」(『本屋風情』1974年)

 わざわざ「当時としては」と断っているが「初老」は「五十前後から六十前後まで」という感覚は現在もあまり変わっていないかもしれない。
 さらに、『日国』の語釈は、「女性では月経閉止期、男性では作業能力が衰えはじめたときから老化現象が顕著になるまでの期間」とかなり具体的である。
 蛇足ながら、「初老」の前と後の年ごろの人を何と呼ぶかというと、前者は「中年」、後者は「老年」であろう。「中年」は青年と老年と間の年ごろという意味だが、今はふつう40歳代から50歳代にかけてをいうことが多いそうである。
 「老年」も「初老」と意識される年齢の範囲が変わったことにより、今は60歳または70歳以上をいうことが多いかもしれない。
 このような年齢を表すことばは、寿命が延びたことにより本来よりも上の年齢をさすようになっているので、辞書もそんな配慮が必要となっている。

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