日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 化粧をしない、本来のままの顔を「すっぴん」と言う。この「すっぴん」を、化粧をしていなくても美しい人のことをいった語だという説があるらしい。美しい女性、美人のことをいう「べっぴん」と関係のある語だというのが、その理由のようだ。
 確かに、「すっぴん」と「べっぴん」は「ぴん」が共通している。だが、辞書編集者からすると、2語は直接関係のある語とは思えない。
 以下、私見を述べてみる。
 辞書で「すっぴん」を引いてみると、多くが「素っぴん」という表記になっている。ただ、実際には、「スッピン」と片仮名で書くことも多いかもしれない。「素」は、ただそれだけの、ありのままのといった意味だが、実は、「すっぴん」という語がどのようにして生まれた語なのか、よくわかっていない。だから辞書では「ぴん」の部分は漢字が当てられていないのである。
 関係のありそうな語に、比較的古くからある「素面(すめん)」「素顔(すがお)」がある。「すっぴん」と同じ化粧をしていない顔という意味で、どちらもイエズス会宣教師が編纂した『日葡辞書』(1603~04)にも見られる。
 「すっぴん」は、この「素面」から生まれた語だという説がある。ただし、「すめん」がどうして「すっぴん」になったのかはよくわかっていない。
 推測の域を出ないのだが、芝居や歌舞伎で使われていた可能性はある。『日本国語大辞典(日国)』にも引用されているが、『笑解 現代楽屋ことば』(1978年 中田昌秀著)には、

 「すっぴん 化粧をしないこと。素面」

とある。この本は、劇場などの楽屋で役者や芝居関係者が使う隠語を集めたもので、著者は舞台やテレビのプロデューサー、放送作家として、長年演劇界、芸能界などと深く関わってきた人である。文字化された「すっぴん」の例は多くはないが、この本で取り上げられているように、芝居関係者が古くから楽屋で化粧を施した顔に対する語として使っていたのかもしれない。
 一方の「べっぴん」は、本来は特にすぐれた品物や人物という意味で使われていた。品物にも使われていたくらいだから、女性に限らず男性についても言っていたようだ。そのため、古くは「別品」とも書かれていた。
 それがのちに、女性の容姿に限られて使われるようになり、「別嬪」とも書かれるようになったのである。「嬪」は女性の美称だ。
 ただ、『日国』によれば、「明治時代では、美人の意で『別嬪』も『別品』も見られ、作家によっても偏りがある」らしい。たとえば森鴎外は「別品」派だったようだ。小説『雁(がん)』(1911~13)でも、主人公の岡田が金貸しの妾お玉を評するとき「別品」を使っている。
 これらを考え合わせると、「すっぴん」と「べっぴん」の「ぴん」はやはり別のものという気がしてくる。2語が関係がないという証拠は希薄だが、といって関係があるという証拠もない。
 「すっぴん」が美しい女性がいることはわかる。だが、それは語の意味とは何の関係もないことだと思う。

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 寄席に行ったときのことである。高座に上がった漫才コンビの米粒写経が、「森」と「林」ってどう違うのか、ということをネタにしていた。米粒写経のツッコミ役は日本語学者で、国語辞典の収集家としても知られるサンキュータツオさんなので、どのような内容になるのかと思わず身を乗り出した。すると、相方の居島一平(おりしまいっぺい)さんが少しぼけたあと、サンキューさんが、「林」は「松林」「竹林」のように一種類の樹木からなり、「森」はいろいろ樹木からなる点が違うと説明していた。これに対して居島さんが、「じゃあ、雑木林は?」とぼけるのかなと思ったら、そうはならなかった。もっとも、そんな素人が考えるような展開にしたら漫才ではなくなって、ことばをテーマにした講演会のようになってしまうだろう。
 もちろん、「雑木」は単独の樹木の名ではなく、いろいろな木という意味だから、「雑木林」は「松林」「竹林」のような「林」とは異なる。だが、それについては後ほど述べるとして、「森」と「林」の違いを説明するとき、サンキューさんの語った内容は、とてもわかりやすい説明のひとつなのである。ただ、少しだけ補足させていただきたい。
 「森」と「林」の違いは何かと聞かれると、大人でもどう説明したらいいのか一瞬とまどうに違いない。まさか子どもに、「森」の方が「林」よりも、「木」の数が1つ多いので、「森」の方が木がうっそうと茂っていたり、樹木が生えている面積が大きかったりする、などと答えている人はいないと思うが。
 違いを説明する場合、まず、「もり」と「はやし」の語源は何かということを考えてみるとよい。
 ふつう、「もり」は「盛り」、「はやし」は「生(は)やし」の意からだといわれている。つまり、「もり」は盛り上がっているという意味、「はやし」は樹木などが群がりはえているという意味だと考えられているのである。
 たとえば、その土地の守護神をまつった神社を取り囲む木立(こだち)のことを「鎮守の森(「杜」とも)」と言う。この森は、小高く盛り上がっているように見えることが多い。だから「もり」なのである。これを「鎮守の林」と言うことは決してない。ちなみに「杜」という漢字は、果樹の一種のヤマナシ、あるいは、とじる、ふさぐという意味の漢字で、これを樹木の生い茂った「もり」とするのは、日本での用法である。
 そのようなこともあって、たとえば『万葉集』では「神社」を「もり」と読ませている歌もある(巻七・一三七八)。
 これに対して「林」は、「はやし(ばやし)」と読んで、「スギ林」「マツ林」「タケ林」などと使われることが多い。また、「りん」と読んで、「熱帯降雨林」「原生林」などのようにも使う。これから、「林」は、植物学的な場合に使うことが多いと考えてよさそうだ。だから「雑木林」も、一種類の樹木からなる「林」ではないが、いろいろな樹木が生い茂っているところといった植物学的な意味合いがあるので、何の問題もない。
 くり返すが、もし子どもに「森」と「林」の違いは何かと聞かれたら、どちらも多くの木が生い茂っていることでは同じだが、「森」は木がこんもりと盛り上がるように生い茂っているところ、「林」は植物学的に使うことが多いと教えたら間違いないと思う。

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 変なタイトルを付けたが、痴漢行為について、法律的な解説をしたいわけではない。
 『日本国語大辞典(日国)』で「痴漢」を引いてみると、以下のような2つの意味がある。

 (1)愚かな男。ばかもの。たわけもの。
 (2)女性にみだらな行為をする男。

 「痴」はおろか、「漢」は男という意味で、「痴漢」という語は、本来は(1)の意味で使われていた。それがのちに(2)のような、女性に淫らな行為を働く男や、そのような行為をいうようになった。その意味がいつ頃から広まったのかという話をしたいのである。
 なぜそのようなことを考えたのかというと、NHK Eテレの番組の某ディレクターさんからこんな話を聞いたからだ。彼は、「痴漢」という語が(2)の意味で使われるようになったのには、作家の大江健三郎がかかわっていると考えて、担当する番組でそう取り上げたというのである。
 確かに大江の『性的人間』(1963年)という小説では、詩を書くために痴漢行為を働こうとする少年が登場するし、実際に「痴漢」という語も使われている。「痴漢」という語がこの小説からある程度広まったことは否定しないが、(2)の意味は大江が生み出したものではないだろう。
 『日国』には、大江の例よりも数年早い、

*セルロイドの塔〔1959〕〈三浦朱門〉八「よく週刊誌に中年の痴漢の話が出ているが」

という例が引用されている。この例から、この頃週刊誌では、「痴漢」という語がけっこう頻繁に使われていたこともわかる。
 ところで、『日国』編集部では「日国友の会」というサイトを開設していて、広く読者から、用例の提供をお願いしている。そこに「痴漢」の例が2例投稿されている。
 一つは、中野重治の『夜と日の暮れ』からのもので、単行本掲載は1955年のようなので、 『セルロイドの塔』よりも少しばかり古い。この『夜と日の暮れ』の例は、間違いなく(2)の意味である。
 ところが、もう一例投稿されたものは、明治のもので少しばかり古い。こんな例だ。

 「まことの色情狂かこんな愚にも付かぬことをして騒がす痴漢は用捨なしに打倒してやるか」

1907年(明治40年)6月12日の『静岡民友新聞』の記事である。
 この例を「日国友の会」の担当者は、『夜と日の暮れ』の成立が1955年だとして、それよりも48年さかのぼるものだとしている。
 だが、私はこの判断に対していささか疑問がある。前後をもう少しよく読む必要がありそうだが、この例は、『日国』の「痴漢」の(1)の意味で使っているのではないかと思えるのだ。文中に「色情狂」とあるが、そのような男を、ばか者と糾弾しているのではないかと。
 そういう目で見ていくと、他にもそのような戦前の例がある。岡本綺堂の『郊外生活の一年』というエッセイがそれだ。この文章が書かれたのは1925年である。

 「わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが」

ここでの「痴漢」も一見、女性にみだらな行為をする男のようにも読み取れるが、「例の」と言っているのは、不良仲間の窃盗犯のことなのである。つまりこの例も、そのような者を、愚か者、ばか者といっているように私には思える。
 ただ、『静岡民友新聞』の記事もそうだが、編集部内の見解は分かれそうだ。私はこの2例は、「痴漢」という語にとって、過渡期的な意味で使われていると考えている。そして、新しい(2)の意味が定着するのは、その意味の用例が多く存在する、戦後のことではないかと思うのである。編集会議では、もめるかもしれないが。
 採取した用例の意味の判断は、けっこう難しいのである。

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 だからなんだと言われそうだが、実は私は2月の生まれなので、一度この月のことを書いてみたいと思っていた。といっても、あくまでも辞書的な話なのだが。
 まず、みなさんは「2月」を「ニガツ」と口に出して言うとき、どこにアクセントを置いて言っているだろうか。
 [二\カ゜ツ]?、それとも[ニカ゜ツ\]?
 最初の1拍の「ニ」だけを高く発音する「頭高型(あたまだかがた)」か、「月」の「ツ」のところまでを高く発音する「尾高型(おだかがた)」かということである。「カ゜」は鼻濁音を表している。
 ひょっとすると、頭高型の[二\カ゜ツ]と言っている人も多いかもしれない。だが、「二月」の本来のアクセントは、[ニカ゜ツ\]と尾高型なのである。アクセントを表示している国語辞典は多くはないが、『日本国語大辞典(日国)』では標準アクセントを示した〈標ア〉という欄があり、ここでは[ツ]と尾高型であることを示している。
 ちなみに1月から12月まで、「~月」のアクセントには、2種類ある。それらを分けると以下のようになる。

尾高型:1、2、4、6、7、8、10、11、12月
頭高型:3、5、9月

 アクセントが頭高型なのは、3、5、9月の三か月だけなのである。ところが、最近、2月だけでなく、本来尾高型の4月も[シ\カ゜ツ]と発音する人が増えている。頭高で発音する月の方が少ないのに、なぜそのようになるのか不思議だ。専門家の意見を聞きたいところである。
アクセントの違いは気にする人も多いので、[二\カ゜ツ]が必ずしも間違いだとは言えないだろうが、気をつけた方が無難だと思う。
 2月に関する辞書の話として、もう一つ触れておきたいのは「二・二六事件」である。もちろん、昭和11年(1936)2月26日に、陸軍の皇道派青年将校が武力による政治改革を目ざして起こしたクーデター事件のことだが、事件そのものについての話ではない。
 「二・二六事件」を口に出して言うとき、みなさんはどう発音しているだろうか。このまま読めば「ににろくじけん」だが、「にいにいろくじけん」と言っている人も多いのではないだろうか。かく言う私も「にいにいろく」派だ。
 だが、「にいにいろくじけん」だと思い込んで、「二・二六事件」を辞書で引いたら、引けないことになる。実際、『日国』初版では、どうして「にいにいろくじけん」では引けないんだと言われたことがある。そのため、第2版では「にいにいろくじけん」でも引けるように、空見出し(参照見出し)を設けた。
 もちろん「二」の読みは「に」なので、「にい」はおかしいのだが、引きやすさを優先させたわけである。
 他の辞典でもこのような配慮をするものが出てきていて、『大辞林』は『日国』よりも早く、 第2版(1995年)で空見出しを立項している。電子辞書の『デジタル大辞泉』も、空見出しはないが、「にいにいろくじけん」と入力しても「二・二六事件」が検索できる。
 辞書編集者はより便利な辞書を目指して、目立たないながらも努力を続けていることを知っていただけたら幸いである。

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 「親が亡くなって、一時期ぐれていた」などというときの「ぐれる」だが、二枚貝のハマグリとかかわりのある語だということをご存じだろうか。
 と言っても、別にハマグリが不良になったわけではない。ハマグリという語が、ことば遊び的に変えられ、やがてそれが「ぐれる」という、不良者になるという意味の語になったのである。
 「ぐれる」は俗語っぽい語感があるが、この語が生まれたのは江戸時代のことのようだ。そうなるまでには、以下のような変遷があった。『日本国語大辞典(日国)』の解説を元に、それをたどってみよう。
 先ず江戸時代の初め頃に、「はまぐり(蛤)」の「はま」と「ぐり」を逆にした「ぐりはま」という語が使われるようになる。これは「たね(種)」を「ねた」、「ばしょ(場所)」を「しょば」と言うように、語の音節の順序を逆にしてつくられた「倒語」に似ているが、「物事の手順、結果がくいちがうこと。意味をなさなくなること」(『日国』)という別の意味で使われている。
 なぜ「ぐりはま」がそのような意味になったのか。大槻文彦の『大言海』(1932~35)は、「ハマグリの殻は、逆にすれば合わないところから」だろうと推測している。確かに二枚貝の貝殻は左右相称だが、一方を逆にすると合わなくなる。二枚貝は他にも存在するのにハマグリだったのは、ハマグリを使った「貝合(かいあわせ)」「貝覆(かいおおい)」と呼ばれる、別々にした貝殻を合わせる遊びがあったからだろう。
 さらにこの「ぐりはま」が変化して、「ぐれはま」とも言われるようになる。そしてそれから、「ぐれ」という語が生まれる。この「ぐれ」の動詞化した語が、「ぐれる」なのである。
 「ぐれ」は『日国』によると、江戸時代に「まともな道からそれること。また、それた者」「盗みなどの悪事をはたらくこと。また、その者」という意味で使われている。「ぐれになる」などという言い方もしていたようだ。
 そして、動詞化した「ぐれる」が今と同じような意味で使われるようになったというわけである。
 『日国』には、その「ぐれる」の例として、

*滑稽本・浮世床〔1813~23〕三・下「イヤ全体かたいお方でございましたが、どうして又ぐれさしったか」

といった例などを挙げている。『浮世床』は式亭三馬の作として知られているが、引用文の第三編は滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)の作である。この『浮世床』の例の意味だが、「ぐれる」は不良になるというよりも、「生活態度が地道でなくなる」(『日国』)ということだろう。
 ちなみに、盛り場などをうろついて、ゆすり・たかりや暴力などを振るう不良仲間を「愚連隊」と言うが、「愚連」は当て字で、「ぐれん」は「ぐれる」からだといわれている。『日国』では、この「愚連隊」の例として、

*時事新報‐明治三四年〔1901〕九月一日「横浜遊廓内には近来グレン隊と称する一種の悪党顕はれ」

を引用している。「愚連隊」はどうやらこの頃から生まれたものらしく、けっこう歴史のあるものだったのである。

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くれない、あかね、しゅ……。赤といっても日本にはたくさんの色があります──神永さん監修の美しい日本語を紹介する子ども向けの絵本シリーズ。第二弾は「いろ」にまつわる言葉を紹介。「藍」には葛飾北斎の「神奈川沖裏浪」、「かきつばた色」には尾形光琳「燕子花図屏風」など、言葉に添えられたビジュアルにも注目。『日本のことばずかん いろ』は講談社より2500円(税別)で発売中。

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