日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 「十二支」のそれぞれを『日本国語大辞典』で引いてみると、もっとも古い例として、同じ歌が引用されている。平安中期の勅撰和歌集『拾遺和歌集』(1005~07年頃)の「よみ人しらず」の歌である。
 たとえば、今年の「干支(えと)」は「寅」だが、その「寅」の例は次のようなものである。

 「ね うし とら う たつ み ひと夜ねてうしとらこそは思ひけめうきなたつみぞわびしかりける」(物名・四二九)

この歌は、十二支の6番目の「み」までしか出てこず、7番目の「うま」以降を引くと、

 「むま ひつじ さる とり いぬ ゐ むまれよりひつしつくれば山にさるひとりいぬるにひとゐていませ」(物名・四三〇)

となる。
 「物名」とは、「もののな」「ぶつめい」と読み、「物名歌(ぶつめいか)」とも言うが、和歌や俳諧で、歌や句の意味に関係なく、物の名を詠みこんだもののことである。
 四二九番歌は、十二支の「み」までが詠み込まれているのだが、どの部分かおわかりだろうか。「ネて」「ウシトラ」「ウきなタツミぞ」の部分がそれである。
 歌意は、一夜共寝して、わたしのことを不満に思ったようだ。(それなのに)浮名が立つ我が身が情けないことだ、ということである。
 四三〇番歌は、「ムマれ」「ヒツシつくれば」「サル」「ひトリ」「イヌる」「ヰて」の部分に詠み込まれている。だが、この歌は意味がよくわからない。生まれたときから櫃(ひつ)を作っているので山に去って行く。一人で行くのではなく人を連れていらっしゃい、という意味だと思われるが、四二九番歌にくらべるとかなり無理がある。この2首はがんばって十二支を読み込んでいるものの、あまり広まらなかった理由は、そんなところにあったのかもしれない。
 この『拾遺和歌集』の歌からわかることは、平安時代中期には、確実に十二支に12種の動物を当てはめていて、それが、日本では、鼠(子(ね))・牛(丑(うし))・虎(寅(とら))・兎(卯(う))・竜(辰(たつ))・蛇(巳(み))・馬(午(うま))・羊(未(ひつじ))・猿(申(さる))・鶏(酉(とり))・犬(戌(いぬ))・猪(亥(い))だったということである。ただ、十二支に動物を配当したのは中国だが、なぜこのような動物を配したのかはよくわかっていない。
 十二支は本来は暦法で使われた語で、子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)だが、そもそもこれらの漢字には、もともと動物の意味はない。たとえば「寅」は、「つつしむ」という意味の漢字である。映画「男はつらいよ」シリーズの主人公、「寅(とら)さん」のように、この漢字を見て、ほとんどの人が「寅」=「虎」だと思っているだろうが、「寅」はもとより、十二支に使われている漢字には、すべて動物の意味はなかったのである。それが、日本では、こうした十二支にある漢字を、それぞれ当てはめられた動物の名で読む読み方がすっかり定着してしまったというわけである。

●神永さん監修のことば絵本第2弾が発売中!
くれない、あかね、しゅ……。赤といっても日本にはたくさんの色があります──神永さん監修の美しい日本語を紹介する子ども向けの絵本シリーズ。第二弾は「いろ」にまつわる言葉を紹介。「藍」には葛飾北斎の「神奈川沖裏浪」、「かきつばた色」には尾形光琳「燕子花図屏風」など、言葉に添えられたビジュアルにも注目。『日本のことばずかん いろ』は講談社より2500円(税別)で発売中。

キーワード:


 まずは以下の新聞記事をお読みいただきたい。

 「ヤクルトや日本ハム、西武のような指導者育成のシステム化が進まず、一部の球団フロントが実権を握ってコーチが小間使いされている現状がある」(「夕刊フジ」2021年11月4日)

 「引退鳥谷にも見捨てられた阪神…再スタートの地に選ばれず 2軍首脳陣5人が一斉退団」という見出しの記事である。と言っても、別にプロ野球阪神タイガースのコーチングスタッフの育成システムについて論じたいわけではない。記事中の「小間使いされている」という部分に注目していただきたいのである。しつこいようだが、阪神のコーチ陣の待遇について言及したいわけでもない。
 この部分は「球団OB」が語ったとされる部分で、記者が書いた文章ではない。だが、「小間使い」が、「小間使いされる」と動詞化して使われているところが気になったのである。
 「小間使い」は、『日本国語大辞典(日国)』によると、以下の3つの意味がある。

(1)禁中に仕える下級の武士。五石二人扶持。使番に文箱を渡したり、医師の薬籠を女嬬に渡したり、命婦らの外出に輿脇の供をしたりする。
(2)江戸幕府で雑用にたずさわる下級の職。一五俵一人半扶持、一三五人。膳所小間使、風呂屋小間使、広敷小間使、表小間使などがある。
(3)主人の身の回りの雑用に使われる女中。召使い。

 私たちがふつうに思い起こす「小間使い」の意味は(3)だろう。ただ、そのような職業の人も少なくなり、また語釈中にある「女中」の語も含めて差別的な意味合いがあるとして、現在ではあまり使われなくなっていると思う。そのまま、死語になりそうなところだが、ひょっとすると「小間使いする」の形で生き延びるかもしれないと思ったのである。
 「小間使い」の「小間」は、『日国』によると

〔語素〕名詞の上に付いて、こまかな、ささいな、手軽なの意を表わす語。「こまもの」「こまぎれ」「こま使い」など。

だという。「語素」は、複合語や派生語の構成要素となる、意味を持った最小の単位のことである。
 つまり、冒頭の記事もそうだが、「小間使いする」は、手軽に使うとか、便利に使うとかいった意味で用いられていると思われる。
 あることばが変化して、動詞として使われるようになることは、昔からあり別に珍しいことではない。最近でもタピオカが入った飲料を飲むことを「タピる」と言っていたし、江戸時代には茶漬を食べる「茶漬(ちゃづ)る」なんて語もあった。
 「小間使いする」はどうかというと、この「球団OB」が言い出した語というわけではなく、インターネットで検索するとけっこう見つかる。
 現時点では、この意味を載せている辞書は無いが、この用法が広まれば、将来的に辞書に載せられるかもしれない。

●神永さん監修のことば絵本第2弾が発売中!
くれない、あかね、しゅ……。赤といっても日本にはたくさんの色があります──神永さん監修の美しい日本語を紹介する子ども向けの絵本シリーズ。第二弾は「いろ」にまつわる言葉を紹介。「藍」には葛飾北斎の「神奈川沖裏浪」、「かきつばた色」には尾形光琳「燕子花図屏風」など、言葉に添えられたビジュアルにも注目。『日本のことばずかん いろ』は講談社より2500円(税別)で発売中。



キーワード:


 まずはクイズから。

 キューピー株式会社
 シャチハタ株式会社
 キャノン株式会社

 いずれも著名な企業名だが、実はどれも1か所間違いがある。どこかおわかりだろうか?
 正解は、「キューピー」ではなく「キユーピー」、「シャチハタ」ではなく「シヤチハタ」、「キャノン」ではなく「キヤノン」なのである。つまり、「キュ」の「ュ」、「シャ」「キャ」の「ャ」は、正式な社名では小文字にはしていない。
 どうしてそのようなことになっているのだろうか。普通は小文字で書かれる文字を、あえてそうしなかったのは、会社によって事情があるのかもしれない。
 ただ、かつては、キャ、キュ、キョ、シャ、シュ、ショのように小さなャ、ュ、ョを綴(つづ)りにもつ音節を表記する場合、ャ、ュ、ョを小文字にすることはなかったのである。このような、小さなャ、ュ、ョを伴う音のことを、「拗音」と呼んでいる。「拗」とは、ねじれる、まっすぐでないという意味の漢字である。
 この拗音で使われるャ、ュ、ョが、小文字で書かれるようになったのは、比較的新しい。第二次世界大戦後のことなのである。それは、1946年(昭和21)11月16日付けで、内閣訓令第8号とともに、内閣告示第33号によって公布された「現代かなづかい」による。その「備考」欄に、「第九 拗音をあらわすには、や、ゆ、よを用い、なるべく右下に小さく書く」とある。
 なぜそのような注記が必要だったかというと、それ以前は、拗音を小さく書くことはほとんどなかったからである。
 上記の3社は、いずれも創業は戦前なので、拗音を小文字にする必要がなかったということが、最大の理由かもしれない。
 この「現代かなづかい」は、1986年(昭和61年)7月1日制定の内閣訓令第一号、内閣告示第一号で、「現代仮名遣い」として改定されている。その「凡例」「2 拗音」では、具体的に拗音の例が示され、「注意」として、「拗音に用いる『や、ゆ、よ』は、なるべく小書きにする」とある。「なるべく」とわざわざ断っているのは、小文字にはしない表記も認めるということだろう。上記3社のような例もあるからだろうか。
 ちなみに、拗音ではないが、富士フイルム株式会社も、「イ」は小文字にしていない。富士フイルムの前身、富士写真フイルムの創立は1934年(昭和9年)である。
 「フイルム」の表記については、1991年(平成3年)6月28日に内閣告示第2号として告示された、「外来語の表記」に以下のような説明がある。
 「5 『ファ』『フィ』『フェ』『フォ』は,外来音ファ,フィ,フェ,フォに対応する仮名である」としつつ、その注記に、「『ファン』『フィルム』『フェルト』等は、『フアン』『フイルム』『フエルト』と書く慣用もある」と述べている。
 小文字にしない表記も認めているわけで、現状に即しているものと言えるだろう。

●神永さんがラジオに登場!
放送作家・脚本家の小山薫堂さんとフリーアナウンサーの宇賀なつみさんが手紙を通して日本各地にある物語を紹介する番組『日本郵便 SUNDAY’S POST』に神永さんがゲスト出演。手紙をテーマにした番組でどんなお話が繰り広げられるのか、こうご期待。12/12(日)15:00~TOKYO FMをはじめJFN38局ネットで放送。

●神永さん監修のことば絵本が発売中!
神永さんが監修する、名作に登場する美しい日本語に北斎や俵屋宗達などの絵や美しい写真などが添えられた子ども向けの絵本シリーズが刊行開始。言葉を獲得することは表現する力を大きく育むことにつながります。第一作は、自然を見つめる心も養うことを願って「そら」にまつわる「月」「雨」「雲」などの言葉が集められたそうです。『日本のことばずかん そら』は講談社より2500円(税別)で発売中。

キーワード:


 女性週刊誌「女性セブン」の新聞広告に目を通していたら、「手ぐすねする」と書かれているのを見つけた(2021年11月11・18日号)。「小室眞子さん 手ぐすねする『ニューヨークの黒幕』」という記事である。「手ぐすね」は「引く」とともに使われることが多いので、珍しいなと思って同誌を一応確認してみたら、表紙や記事では「手ぐすねひく」になっていた。
 私は雑誌編集の経験がないのでわからないのだが、記事の見出しが新聞広告と本紙とで異なるのはけっこうあることなのかもしれない。たまたまことばに関するものだったので、気づいてしまったのだろう。
 「手ぐすね」は、漢字で「手薬練」と書く(辞書によっては「手薬煉」と表記)。「くすね」は「くすねり(薬練)」の略で、松脂(まつやに)を油で煮て、練りまぜたものである。主に弓の弦に塗って、補強するのに用いる。そして「手ぐすね」で、手に薬練(くすね)をとることをいい、それが転じて、用意して機会を待つという意味になった語である。
 「手ぐすね引く」の「引く」は、「油を引く」「紅を引く」などと同じ、延べて塗り付けるという意味だろう。弓を射るとき、矢を射放した勢いで弓弦が肘(ひじ)の外に回ってくるのを防ぐため、弓手(ゆんで)に薬練を塗って滑りをとめることもしたようだ。
 現在では、「手ぐすね」を単独で使うことは少なく、通常は「手ぐすね(を)引く」と「引く」と結びつけて使われることが多い。国語辞典では、たとえば、『新明解国語辞典』第8版、『明鏡国語辞典』第3版は、「てぐすねひく【手薬煉引く】」という慣用句が見出し語になっているのはそのためだろう。『岩波国語辞典』第8版もこの扱いに近く、見出し語は「手ぐすね」だが、その説明はなく「手ぐすね(を)引く」の説明だけをしている。
 だが、新聞広告にあった「手ぐすねする」が間違いかというと、必ずしもそうとは言い切れない。というのも、『日本国語大辞典(日国)』では、「てぐすね【手薬練】」で引用している江戸時代の2例は、いずれも「手ぐすねする」の例なのである。たとえばその一つはこのような例だ。

*仮名草子・竹斎〔1621~23〕下「さりやこそ左様にあらんと言ひ、てぐすねしてこそ見えにけれ」

 『竹斎』は、「やぶ医竹斎と下僕にらみの介の、京から江戸までの道中記の形をとり、二人の笑話的な行為の描写や名所旧跡の見聞を中心に、狂歌的発想や修辞を生かした文体で書かれた滑稽文学」(『日国』)である。
 もちろん、「手ぐすね(を)引く」の例の方が古くから存在し、圧倒的に多いことは確かである。『日国』を見ると、実際に弓手に薬練(くすね)を塗る意味の例は鎌倉時代から、あらかじめ用意して待ち構える意味は、室町時代から使用例がある。
 小型の国語辞典の中で、唯一「手ぐすねする」を認めているのは、『現代国語例解辞典』第5版である。「てぐすね【手薬練】」で立項し、その使用例として、「てぐすねして待ち構える」と「てぐすねを引く」という例文を載せている。この辞典の初版は私が担当したので、それは『日国』に「手ぐすねする」の例があるからだと断言できる。
 そのようなことから、私は「女性セブン」の新聞広告の「手ぐすねする」を誤用だとは思わないが、「手ぐすね引く」の方が一般的なので、表紙と本文で「ひく」と改めたのは良い判断だったと思う。

キーワード:


 岸田文雄氏が内閣総理大臣に就任した際に、「聞く耳」を持つ人なのかどうかということが話題になった。岸田氏自身が、「特技は人の話をよく聞くこと」と述べたからだが、氏自身が「聞く耳」という語を使ったわけではないようだ。
 だが、たとえば立憲民主党の安住淳氏が記者団に、「(岸田氏は)聞く耳を持っていると言っているので、国民の声、野党の声も聞くと信じている」などと述べている。こうしたことから、「聞く耳」が新聞やテレビのニュースの中でも使われていた。
 この「聞く耳」だが、どの国語辞典にも載っていない。そのような「耳」はないからというよりも、「聞く耳」が単独で使われることがなかったというのがその理由だろう。辞書にない語だし、岸田氏自身がそう言ったわけでもないので、一部の記事では、「聞く力」と括弧付きで言い換えているものもあった。
 「聞く耳」は単独では辞書に載っていないが、「聞く耳を持たない」「聞く耳持たぬ」「聞く耳なし」という形では、いくつかの国語辞典に立項されている。いずれも、「きく(聞・聴)」の子見出しとしてだが。
 子見出しとは、「辞書で、親見出しに対して、その親見出しではじまる成句、ことわざ、あるいは複合語などを示す見出し」(『日本国語大辞典(日国)』)のことをいう。つまり、「聞く耳」は成句の中だけで使われるのが普通だということになる。しかもそれは、否定形で使われることが多いと考えられているのだ。
 たとえば、『日国』では、

*人情本・仮名文章娘節用〔1831~34〕前・二回「ヲヲ釈(わけ)もあらふし義理もあらう。けれどもそりゃア聞耳ゃもたねへ」

という江戸時代の人情本の例を引用している。何かわけや義理があるのかもしれないが、そのようなことを聞く気はないと言っているのである。
 だが、「聞く耳を持つ」「聞く耳がある」という肯定形の使用例がまったくないのかというと、そういうことはない。「持たない」「持たぬ」「ない」というのだから、その反対もありだと考えるのは当然だろう。「聞く耳が備わっている」という使用例もある。
 それなら、「聞く耳(を持つ)」を見出し語にしてもいいのではないかという意見もあるかもしれないが、それほど単純な話ではない。
 「聞く耳を持たない」は、相手の発言を聞く気が無いという意味で使われ、二つ以上の単語が必ず同じような結びつきをして、全体が特定の意味を表す言いまわしという、成句、慣用句の基準に合致する。これに対して「聞く耳を持つ」は、今のところ、単に人の話を聞くというそのままの意味しかなく、成句、慣用句とは言えない。従って、「聞き耳を持たない」以外の立項は難しそうだ。
 だが、「聞く耳(を持つ)」に、「忖度」がそうだったように新しい意味が加わって、たとえば、人の話を聞いて何か配慮をするというような意味で使われるようになったら別かもしれない。ただその可能性は低いだろうから、今のところ辞書には「聞く耳を持たない」しか立項できそうにない。

キーワード: