日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「ある人に関する、世間にあまり知られていない話。その人の隠れた面をよく表わしているような話。」

これは、『日本国語大辞典(日国)』の「逸話」という語の語釈である。そしてこれは、他の国語辞典もほとんどが同じ内容である。『日国』ではこの語釈に続いて2つ用例が引用されていて、いずれも近代以降のものである。古い方の例は、

*思出の記〔1900~01〕〈徳富蘆花〉六・一六「伯父の死を聞き知って『彼お丈夫な御方が』とくやみを述べ、猶一場の逸話を語った」

というもの。この用例文中の「逸話」とは、亡くなった「伯父」の隠れた面の話ということであろう。つまり、「ある人」「その人」に関する話だという、『日国』の語釈の内容と合致する。
 ところが、こんな例はどうだろうか。

(1)「先日(こないだ)硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある」(薄田泣菫『茶話』1916年)

(2)「かわうその伝承は日本各地に伝わるが、それもかつては身近にいたからこそ。もはや幻となってしまったニホンカワウソからは新たな逸話はうまれない。」(青木奈緖『幸田家のことば 知る知らぬの種をまく』2017年)

 これらの例に共通するのは、いずれも『日国』や他の国語辞典の語釈とは違って、人に関することではないという点である。(1)は「硯」、(2)は「ニホンカワウソ」である。ただ、(1)は前後を読むと「硯」に関するある人物の話のことではあるのだが。だが、私だったら、どちらのケースも、「伝説」とか「エピソード」などとすると思う。もっとも「エピソード」にも「逸話」同様、ある人に関する話という意味もあるのだが。
 また、私の知人は「○○市の逸話」のように、人ではなく地名に対してこの語を使っていた。「硯」「ニホンカワウソ」「○○市」に人格的なことを認めて、「逸話」と言っているのだと説明できるのかもしれないが、少し無理がありそうだ。さらに、テレビでよく顔を見かける日本語学者が書いた文章で、「北風と太陽」の話を「逸話」と言っているのを読んだこともある。私だったら、これは「寓話」にする。
 いずれにしても、辞書に記載された「逸話」の意味では説明しきれない使用例が、多くはないが見られるということである。「逸話」の意味の範囲が拡大しているということなのだろう。
 だとすると、今後「逸話」の語釈は、元来は人限定なのでその意味は残しつつも、そのものやものごとにまつわる興味深い話という意味を追加した方がいいのかもしれない。そう思って『三省堂国語辞典』第7版を引いてみたら、すでにそのように書かれていた。恐らく現状をふまえての判断なのであろう。さすがである。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「歯みがきしてない犬の多くは8歳頃に、深刻な症状が発覚する。」(西川文二『イヌのホンネ』2015年)

 注目していただきたいのは、文中に使われている「発覚」という語である。この「発覚」の使い方に違和感をもったという人は、かなりいるかもしれない。
 「発覚」は、例えば『日本国語大辞典(日国)』によると、「かくしていた秘密や罪悪、陰謀などがあらわれること。露顕。暴露。」という意味である。そして、そこに引用されている用例は、平安後期の説話文学『江談抄(ごうだんしょう)』(1111年頃)のものが最も古い。

 「致忠男保輔 保昌、兄也 是強盗主也。事発覚繋獄之後」(三)

というもので、「致忠(むねただ)の男児の保輔(やすすけ)〔保昌の兄である〕は、強盗の首領である。事件が「発覚」して獄につながれた後に」という意味だ。この例もそうだが、『日国』で引用されている他の2例、小栗風葉の『青春』(1905~06年)も長塚節(ながつかたかし)の『土』(1910年)も、「小児を山林の奥で獣類同様に育てた」とか、「悪事」とかいった、隠していたよくないことがあらわれるという意味で使われている。
 ところが、冒頭の引用文にある「発覚」はどうだろうか。犬に何か症状が現れるということで、それは深刻なものなのかもしれないが、秘密や罪悪、陰謀があらわれるわけではない。
 「発覚」の「発」は、あばくで、隠れたものごとを表にだすという意味、「覚」は人に気づかれるという意味である。そして「発覚」で、隠していたよくないことがばれてしまうということが本来の意味なのである。
 従って、小型の国語辞典のほとんどは、『日国』同様、隠しごとや悪だくみなどがあらわれることという意味にしている。
 ところが最近、スポーツ紙や週刊誌などで、「熱愛(交際)が発覚」などと書かれた記事をよく見かける。当人達にしてみればそれらは隠そうとしていたことなのかもしれないが、別によくないことでも悪事でもないだろう。これが「不倫」だと違うかもしれないが。
 このような使用例があるからだろう、『明鏡国語辞典 第2版』には、「隠してもいない事柄(特に吉事)に使うのは誤り。『×妊娠[婚約・誕生]が発覚』」とかなり踏み込んだ内容の注がある。確かに、「妊娠・婚約・誕生」は従来「発覚」と一緒に使われなかった語なので、本来の言い方ではない。だが、「誤り」と言い切れるかということになると、いささか疑問がある。ことばの意味が本来のものとは異なるものに変化していくのはよくあること。「発覚」のこの新しい意味がさらに広まる可能性は否定できないのである。好むと好まざるとにかかわらず、辞書ではそれに合わせて、語釈の内容を変えていかなければならない語なのかもしれない。

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 まわりと比べて容貌や風采がいいことを、「押し出しがいい」「押し出しが立派だ」などと言う。「押し出しがいいということだけで当選した」「押し出しは立派なのだからあとは中身がそれに伴うかだ」などのように。
 「押し出し」は、人の目に映るその人の姿や態度のことで、それが人からいい印象を受ける場合に「いい」とか「立派だ」とかいうことになる。
 ところが最近、この「押し出し」を「押し出しが強い」と言う人がいる。例えば、

 「一方、二郎よりも押し出しが強く、逞(たくま)しい本庄は、肉豆腐を頬張り、たまには肉を食べるよう二郎に助言するのです」(秋元大輔『ジブリアニメから学ぶ 宮崎駿の平和論』2014年)

といった使用例がある。文中の「二郎」「本庄」は、スタジオジブリのアニメ「風立ちぬ」の登場人物である。「押し出し」は、冒頭でも述べたように風采や貫禄のことなので、「二郎」よりも「本庄」の方が、見た目が「強い」ということではなく、文中に「たくましい」ともあることから、この場合はどうやら「押しが強い」ということを言いたいらしい。だとすると、それとの混同なのかもしれない。「押しが強い」は、どこまでも自分の意見や希望を通そうとするような人をいうので、そのように読めば不自然ではない。
 この混同はどの程度広まっているのだろうか。「押し出しが強い」が引用した使用例以外にもいくつか見つかっているので、増えつつあるのかもしれない。しかも、反対の意味の「押し出しが弱い」という例まである。

 「女の子は優美だけれども薄ぼんやりしていて、脆弱で、活力が劣り、レースだのフリルだので飾り立てでもしなければ男の子と同様には目立たない、押し出しが弱いというのか」(松浦理英子『裏ヴァージョン』2000年)

 というものだ。
 ただ、「押しが強い」との混同ではなさそうな「押し出しが強い」の例もあるので話はさらにややこしい。「押し出し感の強い車」「押し出しの強い音」「押し出しの強い看板」などといった言い方である。この場合の「押し出し」は、従来の風采、風格、貫禄とは違い、デザインや、単なる見た目、印象という意味で使われているようだ。「押し出し」にはこのような新しい意味が生じているのかもしれず、この意味だと「強い」「弱い」としても間違いだとは言えないような気がしてくる。引用した松浦理英子の例も、こちらの意味に近いのかもしれない。
 さらに、「押し出しがいい」のだから「押し出しが悪い」もあるのではないかと考える人もいるらしい。『大辞泉』は、「押し出しが悪い」の形では普通は使わないとしているが、国研のコーパスで検索すると、1例だけだが書籍の使用例が存在する。
 これらの使用例をどのように考えるべきか。誤用だと言い切ってしまえば簡単なのだろうが、そんな単純なものではない気がする。

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 「へそ」とは、もちろんお腹の中心にある小さなくぼみ、へその緒の取れた跡のことである。なぜその部分を「へそ」と呼ぶのかというと、もともと同じ意味の「ほぞ(古くは「ほそ」)」という語があり、それが変化したからという説がある。だが、どちらも平安時代から使用例があるものの、語源は定かではないと言った方が無難なようだ。漢字ではともに「臍」と書く。
 現在では、この人体の腹部のくぼみは「ほぞ」ではなく「へそ」と呼ばれることの方が多いのだが、これらの語を用いた慣用表現の中には、「ほぞ」が残っているものもある。例えば、「ほぞを噛む(=後悔する)」「ほぞを固める(=覚悟を決める)」などである。おそらくこれを「へそをかむ」「へそを固める」と言うと、誤用だと言う人も多いのではなかろうか。私のパソコンのワープロソフトも、「へそをかむ」は反応しないのだが、「へそを固める」と入力すると、《「ほぞを固める」の誤用》と表示される。
 ところが、「へそをかむ」「へそを固める」は、古い辞書類にはちゃんと載っているのである。『故事俗信ことわざ大辞典 第2版』(小学館)によれば、「へそをかむ」は『尾張俗諺(おわりぞくげん)』(1749年)、「へそを固める」は『日本俚諺大全』(1906~08年)にあるという。『尾張俗諺』は尾張地方のことばを収録したものなので、方言、俗語という可能性もあるが。だが、これをどのように考えるべきなのであろうか。
 「へそをかむ」も「へそを固める」も、私には今のところ文献での使用例は見つけられないのだが、国会会議録検索システムを見ると多くはないが、どちらの例も見つかる。

 前者は、
 「私どもはかって研究のために金を惜んだことを、今になってへそをかんで悔いております」(第26回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第40号 昭和32年5月17日)

 後者は、
 「歴代政府の今日まで沖縄島民に対する態度を見ますと、一体へそを固めておらぬ」(第22回国会 衆議院 法務委員会 第16号 昭和30年6月9日)

というものである。
 口頭で述べる場合、今では「ほぞ」よりも「へそ」の方が一般的なので、つい「へそ」と言ってしまったのかもしれない。
 もちろん私も、「ほぞをかむ」「ほぞを固める」が、本来の言い方であるということに異存はない。だから、通常は「ほぞ」を使う方がいいと思うし、ましてや文章に書くときは「ほぞ」と書くべきだと思う。
 だが、口頭でつい「へそ」と言ってしまったとしても、誤用だとは言い切れない気がするのである。

◇神永さん、立川の朝日カルチャーで講座◇
日本語は、時代や世代によって、意味するところや使い方が微妙に変化し続ける日本語。辞書編集に40年間かかわってきた神永さんが辞書編集者をも悩ませる、微妙におかしな日本語をどう考えるべきか、文献に残された具体例を示しながら解説。
微妙におかしな日本語
■日時:2020年2月8日(土)13:00~14:30
■場所:朝日カルチャーセンター立川教室
(東京都立川市曙町2-1-1 ルミネ立川9階)
■受講料:会員 3,300円 一般 3,960円(税込)
申し込みなどくわしくはこちら↓
https://www.asahiculture.jp/course/tachikawa/75e58e6b-2bb1-8b87-d720-5d8dc50eb374

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 昨年の大晦日の紅白歌合戦で、NHKのバラエティー番組「チコちゃんに叱られる」のチコちゃんが登場して、総合司会の内村光良さんに、「なんで“最後の人”を『トリ』って言うの?」という質問をぶつけていた。
 実は、この質問の答えの監修を私が行った。といっても、私の説ではなく、有力な説が『日本国語大辞典(日国)』に載っているので、私がチェックをしただけなのだが。だから、監修などと偉そうなことを言えるものではない。
 ただ紅白では、時間の都合で要点しか説明できなかったので、この場を借りて少し補足をしておこうと思う。
 『日国』に載っているというのは、(寄席で最後に出演する)主任格の真打は当夜の収入を全部取り、芸人たちに分けていたため、その取るということからという説で、チコちゃんもそのように説明した。この説は、早稲田大学名誉教授だった暉峻康隆(てるおかやすたか)先生の『すらんぐ』(1957年)という著書による。この本は、「おてんば」「あばずれ」「ちんぷんかんぷん」「いんちき」「どさまわり」といった、「スラング(卑語、世俗のことば)」の語源エッセーである。
 少し話が脇道に逸(そ)れるが、暉峻“先生”と書いたのは、実は私はこの『すらんぐ』に少しだけかかわりがあったからである。先生の晩年に、私は何度かお宅にお邪魔して、この『すらんぐ』に加筆したものをお預かりしていたのである。先生の没後、この加筆本は、『新版 すらんぐ(卑語)庶民の感性と知恵のコトバ』(勉誠出版 2010年)として再刊された。
 暉峻先生は井原西鶴の研究者だが、他に俳諧や落語などの著書も多数ある。特に落語に関しては、早稲田大学の落語研究会の初代顧問で、『落語芸談』『落語の年輪』といった著書もある。だから、「トリ」に関する語源説は間違いないと思う。
 この、「トリ」をつとめた真打が寄席の売り上げを取ったあと、出演者に出演料を分配した。それを客一人につきいくらと出演者に割り当てたものを「割り」「席割り」などと呼んでいた。この辺の事情は、川口松太郎の小説『人情馬鹿物語』(1955年)のこんな記述がわかりやすい。

 「その頃の寄席はまだ席割時代で、月ぎめの出演料ではなく、一日の収入から席亭の取り分を引き、残りを芸人の格づけに応じて分配する」

 川口松太郎は若いときに、講釈師の悟道軒円玉(ごどうけんえんぎょく)の家に住み込み、口述筆記の手伝いをしていたので、この記述内容も間違いないだろう。今でも寄席では、まったく同じではないが、これに近い制度が残っているようだ。
 「トリ」はもともとは寄席で使われていた語だが、興行界などで、最後に上演・上映する呼び物の番組や出演者もそう言うようになったのはご存じの通りである。「トリ」はもともとは「取る」ことからなのだが、「トリ」と片仮名で書かれることが多い。また、寄席では「主任」とも書いて「トリ」と読ませている。
 紅白ではその年最後に歌う歌手を「大トリ」などと言っているが、「トリ」という語が興行界で使われるようになってからの言い方だと思われる。紅白が広めた可能性もあるとにらんでいるのだが、残念ながら確証はない。

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