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日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ一覧

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源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三九 - 一一〇六平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで
藤原頼通(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清
蘇我馬子(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
?-626(推古34)飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた
捜神記(東洋文庫・日本大百科全書・集英社世界文学大事典)
東洋文庫10 干宝 竹田晃訳 作者は4世紀半ば,東晋の歴史家で,本書は民間伝説,名士の逸話などを古い書物から抄録したもの。志怪小説とよばれる怪異の記録中もっとも叙述にすぐれ,中国小説の祖とされる。本邦初の全訳。目次 表紙(扉)捜神記原序 巻一
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える
藤原鎌足(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
614‐669(推古22‐天智8)大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ)、御食足(みけたり)とも)といい、推古・舒明朝に仕えた神官で、地位は大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)
日本武尊(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ、幼名に小碓(おうす)命、倭男具那(やまとおぐな)王がある。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
後小松天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一三七七 - 一四三三 一三八二―一四一二在位。名、幹仁(もとひと)。永和三年(一三七七)六月二十七日、前内大臣三条公忠の押小路(おしこうじ)殿で生まれた。父は北朝五代後円融天皇、母は公忠の娘厳子(通陽門院)。永徳二年(一三八二)四月七日
光厳天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三一三 - 六四 一三三一―三三在位。正和二年(一三一三)七月九日、持明院統の後伏見天皇の第一皇子として一条内経の一条邸で生誕。母は前左大臣西園寺公衡の女寧子(のちの広義門院)。名は量仁。大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子には、同統の邦良親王
後宇多天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二六七 - 一三二四 一二七四―八七在位。名は世仁。文永四年(一二六七)十二月一日、亀山天皇の第二皇子として土御門殿で誕生。母は左大臣藤原実雄の女の皇后佶子(京極院)。翌五年六月親王宣下、八月立太子。当時院政を行なっていた後嵯峨上皇が
後深草天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
寛元元年(一二四三)六月十日今出川殿で生まれ、二十八日久仁と命名、親王に立てられた。同四年正月四歳で践祚、父の後嵯峨上皇が院政を行なった。康元元年(一二五六)十一月母の妹公子(東二条院)が入内、翌正嘉元年(一二五七)正月中宮となった
後嵯峨天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一二二〇 - 七二一二四二―四六在位。名は邦仁。承久二年(一二二〇)二月二十六日誕生。土御門天皇の第三皇子。母は参議源通宗の女で典侍の通子(贈皇太后)。翌三年の承久の乱の結果、父の土御門上皇が土佐(のち阿波)に流されて以後は母の叔父の
仲恭天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一二一八-三四 一二二一在位。順徳天皇の皇子。母は九条良経女の立子(のち東一条院)。諱は懐成(かねなり)。建保六年(一二一八)十月十日に生誕し、間もなく翌月二十六日に立太子。順徳天皇が後鳥羽上皇(順徳父)の討幕計画に熱心に関わり譲位したため
土御門天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一九五-一二三一 一一九八―一二一〇在位。諱は為仁。後鳥羽天皇の第一皇子。母は内大臣源通親女の在子(のち承明門院)、実は法印能円の女ともいう。建久六年(一一九五)十一月一日(または十二月二日)生まれる。同九年正月十一日、四歳で践祚
安徳天皇(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一七八-八五 一一八〇―八五在位。治承二年(一一七八)十一月十二日高倉天皇の第一皇子として誕生。母は平清盛の女の中宮平徳子(のちの建礼門院)。諱は言仁。十二月八日親王宣下をうけ、十二月十五日皇太子となる。時に生後一ヵ月余
二条天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一一四三-六五 一一五八―六五在位。後白河天皇の第一子。諱は守仁。母は大炊御門経実の女贈皇太后懿子。康治二年(一一四三)六月十七日生まれる。鳥羽天皇の皇后美福門院得子に養育され、仁和寺覚性法親王の弟子となったが、久寿二年(一一五五)
堀河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇七九-一一〇七 一〇八六―一一〇七在位。白河天皇の第二皇子。母は関白藤原師実の養女、皇后賢子(実父は右大臣源顕房)。承暦三年(一〇七九)七月九日誕生。同年十一月親王宣下あり、善仁と命名。応徳三年(一〇八六)十一月二十六日立太子
白河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇五三-一一二九 一〇七二―八六在位。諱は貞仁。天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し
花山天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
九八四―八六在位。諱は師貞(もろさだ)。出家ののち入覚と号した。冷泉天皇の第一皇子、母は太政大臣(一条摂政)藤原伊尹の女の女御懐子。安和元年(九六八)十月二十六日誕生、同二年八月十三日立太子、永観二年(九八四)八月二十七日叔父円融天皇
冷泉天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
第63代天皇(在位967~969)。村上(むらかみ)天皇第二皇子。母は藤原師輔(もろすけ)の娘安子。諱(いみな)は憲平(のりひら)。藤原元方(もとかた)の娘元子の生んだ広平親王を越えて皇太子となったので、元方は落胆のあまり病死し、天皇が物の怪
村上天皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第62代天皇(在位946~967)。醍醐(だいご)天皇第14皇子。名は成明(なりあき)、母は太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)の女(むすめ)穏子(おんし)。朱雀(すざく)天皇の同母弟。944年(天慶7)19歳で皇太子となり、946年禅を受け即位
醍醐天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八九七―九三〇在位。仁和元年(八八五)正月十八日、宇多天皇の第一皇子として誕生。母は内大臣藤原高藤娘贈皇太后胤子。諱は維城、のち敦仁。寛平元年(八八九)親王宣下、同五年立太子、同九年七月三日、十三歳で元服、同日宇多天皇の譲位で践祚
宇多天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八八七―九七在位 貞観九年(八六七)五月五日、光孝天皇の第七皇子として誕生。母は桓武天皇皇子仲野親王の女班子女王、諱は定省(さだみ)。元慶年間(八七七―八五)侍従となり王侍従と称された。同八年四月十三日
文徳天皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第55代天皇(在位850~858)。仁明(にんみょう)天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘順子(じゅんし)。諱(いみな)は道康(みちやす)。承和(じょうわ)の変(842)で皇太子恒貞(つねさだ)親王が廃されたので、かわって皇太子となり
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