日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ一覧

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武烈天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
生没年不詳。記紀によれば第25代の天皇。在位は5世紀末から6世紀初めころ。小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)天皇ともいう。仁賢(にんけん)天皇の皇子。母は春日大娘(かすがのおおいらつめ)。泊瀬列城(はつせなみき)宮(奈良県桜井市初瀬)に都した。
清寧天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
生没年不詳。記紀によれば第22代の天皇。5世紀に在位。白髪武広国押稚日本根子(しらがのたけひろくにおしわかやまとねこ)天皇ともいう。雄略(ゆうりゃく)天皇の第3子。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。星川皇子の乱を鎮めて即位し、磐余(いわれ)の甕栗
安康天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
記紀によれば第20代天皇。穴穂天皇(あなほのすめらみこと)ともいう。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王(わおう)の興(こう)にあたるとされている。父は允恭(いんぎょう)天皇。母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)。允恭天皇の太子軽(かる)
允恭天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
記紀によれば第19代天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)ともいう。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王(わおう)の済(せい)にあたるとされている。仁徳(にんとく)天皇第4皇子。母は磐之媛(いわのひめ)。大和(やまと)の
反正天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
生没年不詳。記紀では第18代の天皇とする。5世紀中葉の天皇で、『日本書紀』には、河内(かわち)の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)(大阪府羽曳野(はびきの)市丹比付近か)で在位5年にして崩ずと記す。「多遅比瑞歯別(たじひのみずはわけ)(水歯別)天皇(命(みこと))」ともいう。
仲哀天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
生没年不詳。記紀によれば第14代の天皇。4世紀の在位となるが明らかでない。足仲彦(たらしなかつひこ)天皇ともいう。日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子。母は両道入姫(ふだじのいりひめ)。気長足姫(おきながたらしひめ)(神功(じんぐう)皇后)を皇后
成務天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
生没年不詳。記紀によれば第13代の天皇。4世紀中ごろの在位となるが明らかでない。稚足彦(わかたらしひこ)天皇ともいう。景行(けいこう)天皇の第4子。母は八坂入媛(やさかいりひめ)。近江(おうみ)の志賀高穴穂(しがたかあなほ)宮(大津市)に都した。
景行天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
皇室系譜に第12代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁(すいにん)天皇の第3子で、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)である。景行天皇元年に即位して播磨稲日大郎姫
開化天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
皇室系譜に第9代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)。孝元(こうげん)天皇の第2子で、母は欝色謎命(うつしこめのみこと)。孝元天皇57年に、父天皇の没を受けて即位、翌開化元年に都を
孝元天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
皇室系譜に第8代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)。孝霊(こうれい)天皇の皇子で、母は細媛命(ほそひめのみこと)。孝霊36年に19歳で立太子、孝元元年即位、同4年に都を軽(かる)
孝霊天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
皇室系譜に第7代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。孝安(こうあん)天皇の皇子で、母は押媛(おしひめ)。都を黒田(くろだ)(奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町)の廬戸宮(いおとのみや)に
孝昭天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
皇室系譜に第5代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)。懿徳(いとく)天皇の皇子で、母は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)。孝昭元年に即位して都を掖上(わきのかみ)(奈良県御所(ごせ)市北東部)の
安寧天皇(国史大辞典・日本大百科全書)
記紀に第3代天皇とする。『日本書紀』によれば磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)といい、綏靖(すいぜい)天皇の第1皇子、母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)。綏靖天皇25年立太子、同33年父の死を受けて即位、翌2年大和(やまと)
綏靖天皇(日本大百科全書・日本人名大辞典)
皇室系譜に第2代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)。神武(じんむ)天皇の第3子で、母は媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)。神武天皇の没後、庶兄手研耳命(たぎしみみのみこと)を討って
東歌(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
東国地方の歌の意で、『万葉集』巻14と『古今集』巻20の、「東歌」という標題のもとに収められた和歌の総称。万葉集東歌、古今集東歌と、単独ででもいう。[遠藤 宏]万葉集東歌 全部で230首(異伝歌のうち一首全体を記すものを加えると238首)あり、遠江国、信濃国以東の駿河
大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
ロシア皇太子襲撃事件。湖南事件ともいう。1891年(明治24)シベリア鉄道起工式に臨む途中、各国を歴訪していたロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(後の皇帝ニコライ2世。革命により死)は、滞日中の5月11日、滋賀県大津で警衛の巡査津田三蔵(さん
征韓論(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治の初め日本政府の内外で展開された朝鮮侵略の主張。豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略の失敗後、徳川幕府は朝鮮との修交に努めたが、江戸時代中期以降、儒学、国学の学者たちの間で朝鮮侮蔑(ぶべつ)の傾向がしだいに強まり、欧米諸国の圧迫を受けた幕末には、その圧
申楽談儀(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
能楽論書。正しくは『世子(ぜし)六十以後申楽談儀』。1430年(永享2)成立。世阿弥(ぜあみ)の晩年の芸談を次男の観世元能(もとよし)が筆録したもの。観世大夫(だゆう)を長男の元雅(もとまさ)に譲った直後のものである。当時の能楽の実際の演出や、一忠(
正徹物語(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町前期の歌僧正徹の歌論書。2巻。2巻のうち上巻を『徹書記物語』、下巻を『清巌茶話(せいがんさわ)』と区別する伝本もある。成立は1448年(文安5)と1450年(宝徳2)の両説がある。内容は、歌人の逸話、歌学知識、理想とする風体論、自歌自注など多方面
ささめごと(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町時代の連歌論。1冊または2冊。心敬著。1463年(寛正4)、心敬が郷里の紀伊国田井荘(現在和歌山市の一部)に下ったとき、土地の人々の求めに応じて書き与えたものを原型とし、のち何度か増補・改編されている。問答体で構成され、連歌の学び方、作風論、付合論などを中心とするが
水無瀬三吟百韻(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
連歌百韻。1488年(長享2)1月22日張行。宗祇(そうぎ)、肖柏(しょうはく)、宗長による三吟。22日は後鳥羽院(ごとばいん)の月忌で、後鳥羽院の水無瀬の廟(びょう)に奉納。張行場所には諸説あるが、発句に「雪ながら山もとかすむ夕かな」(宗祇)と水無
新撰菟玖波集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町後期の連歌(れんが)選集。20巻。1495年(明応4)成立。周防(すおう)山口の大内政弘(まさひろ)の発起により、一条冬良(ふゆら)、三条西実隆(さねたか)、宗祇(そうぎ)、兼載らの共同編集。勅撰和歌集の部立(ぶだて)を踏襲しているのは先行の『菟
神道集(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
説話集。「安居院作」と記してあるが、具体的な編者は不明。14世紀後半(文和・延文年間)の成立か。10巻50条。天台宗および伊勢神道色の濃い本地垂迹の教義と、有名諸神社の本地仏を記してある。とくに赤城・伊香保・児持山大明神など上野国(群馬県)の利根川西側の神社を中心にして
菟玖波集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
南北朝時代の准勅撰連歌(ちょくせんれんが)集。20巻。二条良基(よしもと)が救済(きゅうせい)の協力を得て編集。文和(ぶんな)5年(1356)3月付けの序文を有するが、完成したのはその年の冬から翌年の春にかけての間のことである。所収の作品は、『日本書
増鏡(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
南北朝時代の歴史物語。3巻。作者は二条良基(よしもと)が最有力視されている。成立年代については諸説があり、上限を1338年(延元3・暦応1)、下限を1376年(天授2・永和2)とするなど幅は広い。記載年代は後鳥羽(ごとば)天皇誕生の1180年(治承4
風姿花伝(花伝書)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
能の大成者世阿弥(ぜあみ)の能楽論で、日本を代表する芸術論。1400年(応永7)に三編までがまとめられ、父観阿弥(かんあみ)の教えに基づいて著したものである。ただ1人の真実の後継者に能の真髄を伝えようとして書かれた秘伝であるが、汎(はん)演劇論として
行幸(日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
「みゆき」とも読み、「幸」または「御幸」とも書く。天皇の出行をいう。天子の行く所、万民が恩恵に浴するので「幸」というと古書にみえる。平安中期以降、上皇の場合を御幸(ごこう)といって行幸と区別した。明治以後、行幸について鹵簿(ろぼ)(行列)や行在所(あ
島津斉彬(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸末期の薩摩藩主。斉興の長男。文化6年9月28日江戸に生まれる。異母弟久光を推す一派との家督争い(お由良騒動)を経て1851年(嘉永4)43歳で藩主となった。その間曽祖父重豪の感化もあって洋学に傾倒し、蘭医シーボルトに会見、川本幸民、箕作阮甫、高野長英、杉田成卿
皇室祭祀(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
皇室で執り行われる祭祀で、おもに神道的儀式を基本としている。皇室祭祀には、新嘗祭など古代からの祭祀を継承したものや、元始祭などのように明治維新後の神道国教化政策、神仏分離政策の影響を受けて新たに定められた神道祭祀など多数ある。現行の皇室祭祀は、明治維新後新たに制度化
大嘗祭(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
天皇が即位ののち初めて新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ天神地祇(てんじんちぎ)に奉り、自らも食す祭りのことで、天皇一世一度の最大の祭り。「おおにえのまつり」「おおむべのまつり」ともよび、践祚(せんそ)大嘗祭ともいう。毎年11月その年の新
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