日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ一覧

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燕楽(日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
中国音楽の種目名。宴楽、宴饗楽(えんきょうがく)ともいう。各時代の俗楽を取り入れた宮廷の饗宴音楽で、内容が一定しないため、雅正の楽である雅楽と狭義には区別される。宴席に用いる民衆の楽として、その名称は遠く周代にもあるが、隋(ずい)・唐の時代より中央ア
水鏡(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉初期の歴史物語。3巻。作者は中山忠親(ただちか)と考えられている。成立年代は文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)(1185~99)のころと思われる。『大鏡』に先行する歴史物語で、神武(じんむ)天皇より仁明(にんみょう)天皇までの1510年間を編年体
無名草子(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉前期の文学評論書。1冊。『建久物語』『無名物語』などの別名がある。著者は明確でないが、藤原俊成(しゅんぜい)の女(むすめ)の可能性が強い。1200年(正治2)かその翌年の成立であろう。83歳で出家しその後多年仏に仕える老女が、京都東山あたりで花摘
近代秀歌(歌論書)(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・日本古典文学全集)
藤原定家(ていか)の歌論書。元来1209年(承元3)将軍源実朝(さねとも)の求めに応じて書き贈ったもの(遣送本(けんそうぼん))。本文は消息体で詠歌の心得を説き、末尾に秀歌例を付す。歌論の要点は初めに紀貫之(きのつらゆき)以来の和歌史批判を通して源経
古事談(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉初期の説話集。王道后宮、臣節、僧行、勇士、神社仏寺、亭宅諸道の6巻からなる。源顕兼編で、編者の没年(1215)直前の成立か。称徳女帝の淫事、花山帝の出家の真相、在原業平と伊勢斎宮との密通事件とその事後処理など、貴族社会や政治にまつわる秘話や裏面話の数々があからさまに
発心集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉初期の仏教説話集。8巻。鴨長明(かものちょうめい)作。1215年(建保3)ごろ成立か。高僧や名僧という評判がたつのを嫌って、突如失踪(しっそう)、渡し守に身をやつしていた玄賓僧都(げんぴんそうず)、奇行に及び、「狂人」との噂(うわさ)を意識的に広
建春門院中納言日記(たまきはる)(日本国語大辞典・日本大百科全書)
鎌倉前期、後白河(ごしらかわ)院の妃(きさき)建春門院(平滋子(しげこ))に仕え、中納言とよばれた女房の日記。この日記には本来の名はないという。巻頭歌「たまきはるいのちをあだにききしかどきみこひわぶるとしはへにけり」によって『たまきはる』の名称もあり
関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。 [岡本良一]三成挙兵 1598年(慶長3)豊臣秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の
林羅山(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸前期の儒者。名は信勝。字 (あざな) は子信 (ししん) 。剃髪 (ていはつ) して道春 (どうしゅん) と称す。羅山は号。天正 (てんしょう) 11年8月に京都に生まれる。1595年(文禄4)に臨済 (りんざい) 宗の建仁寺 (けんにんじ) に入って、儒学と仏教を学んだが
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1864年(元治1)3月から12月にかけて、水戸藩士の尊王攘夷(じょうい)派のうちの急進派が常陸(ひたち)(茨城県)、下野(しもつけ)(栃木県)、下総(しもうさ)各地の農民を率いて関東各地また中山道(なかせんどう)に転戦した事件。天保(てんぽう)(1
三十六人家集(三十六人集)(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
三十六歌仙のそれぞれの家集の集大成。伝本のなかでは、1112年(天永3)ころの書写と推定される『本願寺本三十六人集』が、三十六人家集としてほぼ完全な姿で伝存する唯一、最古のもので、本願寺証如上人(しょうにょしょうにん)の『天文(てんぶん)日記』(天文
一条摂政御集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
藤原伊尹(これただ)の詠歌を収めた平安中期の私家集。益田家旧蔵本が唯一の写本として伝わり、194首よりなる。『百人一首』で有名な「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」で始まる冒頭から41首までは、大蔵史生(おおくらのししょう)
新撰万葉集(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
平安前期の和歌撰集。2巻。序文によれば上巻は893年(寛平5)、下巻は913年(延喜13)成立という。原形は宇多(うだ)朝(887~897)の「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」歌を主体としてほかの歌合歌を加えて上下
新撰和歌(国史大辞典・日本大百科全書)
紀貫之(きのつらゆき)編の秀歌選。勅命により930年(延長8)から934年(承平4)の間の土佐守(とさのかみ)在任中に撰歌(せんか)し、帰京後に漢文序を付して成立。醍醐(だいご)天皇崩後で奏覧できなかった。四季360日になぞらえた4巻360首で、たと
古今和歌六帖(日本国語大辞典・日本大百科全書)
和歌の類題別私撰(しせん)集。略して『古今六帖』とも。編者・成立年代未詳。兼明(かねあきら)親王、源順(したごう)の編とする説もある。貞元(じょうげん)・天元(てんげん)年間(976~983)の成立といわれる。『万葉集』から『古今集』『後撰集(ごせん
山家集(日本国語大辞典・日本大百科全書)
西行(さいぎょう)の家集。3巻。歌数は系統によって異なるが、陽明文庫本は1552首、六家集板本は1569首。四季、恋、雑(ぞう)に部類されているが、雑の部には何次かの増補の跡がみられる。巻末には百首歌(ひゃくしゅうた)1編を付載する。成立年次、自撰(
長秋詠藻(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
藤原俊成(しゅんぜい)の家集。1178年(治承2)、出家直後の65歳のときに自撰(じせん)され、仁和寺(にんなじ)守覚法親王に進献された。479首を収載。上巻が百首歌、中巻は四季・賀・恋、下巻は雑(ぞう)・釈教・神祇(じんぎ)の構成となっている。書名
船祭(日本大百科全書(ニッポニカ))
飾りたてた船の出ることを特色とする祭りの総称。いちばん一般的な形は、神輿の渡御(お渡り)が海や川を渡るもので、神社から神霊を神輿に移し、さらに船に乗せて、町や集落を巡幸して氏子に恩寵を授ける。茨城県鹿島神宮の御船祭りや愛知県津島神社の津島祭りなど、各地に類例が多い
祈年祭(日本大百科全書・世界大百科事典)
字音で「きねんさい」と称することが多い。この「とし」とは五穀のなかでもっぱら稲をいうが、稲を主として他の穀類に至るまで成熟を祈る祭りである。わが国の社会文化は、本来この稲作中心の農耕社会を基盤として成立しており、春に年穀の豊穣を祈り、秋に豊作を感謝する祭り(新嘗祭)を
和漢朗詠集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安時代中期の歌謡。二巻。『和漢朗詠抄』『倭漢抄』『四条大納言(だいなごん)朗詠集』などともいう。藤原公任撰(きんとうせん)。「和漢」とは和歌と漢詩文をさし、朗詠に適した漢詩文の秀句588首、和歌216首の計804首を上下二巻に収める。上巻は「立春」
更級日記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安中期の日記文学。1巻。菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)作。1060年(康平3)ごろ成立。作者13歳のおり、父の任地上総(かずさ)国(千葉県中央部)から帰京する旅の記録に筆をおこし、以後40余年に及ぶ半生を自伝的に回想した記録。幼いころ草深
陸奥話記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安後期の漢文軍記。1062年(康平5)ごろ成るか。源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)が奥州の豪族安倍頼時(あべのよりとき)父子を征討したいわゆる前九年(ぜんくねん)の役(えき)の一部始終を書いた合戦記である。巻末の文章から、平定後まもなく在京の官
後拾遺和歌集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
院政期に成った第4番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。本来『後拾遺和歌抄』といった。藤原通俊(みちとし)撰(せん)、20巻、1218首。院政期初頭の王政復古政策の一環として、白河(しらかわ)天皇により企図され、1075年(承保2)命が下ったが、通俊が蔵人
扶桑略記(日本大百科全書・世界大百科事典)
神武天皇から堀河天皇までの漢文編年体の歴史書。平安末期の成立で、著者は阿闍梨皇円(?―1169)。仏教関係に重点が置かれている。堀河天皇の1094年(嘉保1)で終わっているので、この後に成立したことは確かである。13世紀後半に成立したと考えられている『本朝書籍目録』によれば30巻
江談抄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安後期の説話集。大江匡房(おおえのまさふさ)(1041―1111)晩年の談話を、藤原実兼(さねかね)(1085―1112)が筆録したもの。一部に実兼以外の筆録も混じっている。匡房の談話は、有職故実(ゆうそくこじつ)、漢詩文、楽器などに関する知識、廷
讃岐典侍日記(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安後期の日記。上下2巻。作者讃岐典侍は藤原顕綱(あきつな)の女(むすめ)、長子。『蜻蛉(かげろう)日記』の著者道綱母(みちつなのはは)の4代の孫。姉兼子が堀河(ほりかわ)帝の乳母(うば)で、その縁によってか同帝に出仕、典侍(てんじ)となる
金葉和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝第5番目の勅撰和歌集。撰集下命者は白河院、撰者は源俊頼。1124年(天治1)に最初の草稿を奏覧に入れたが、新味がないと返却され、次に翌年4月に改撰して奏上したが、今度は現代歌人に偏りすぎるという理由で受納されず、三度目に三代集歌人を復活させた草稿を呈したところ
詞花和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝第6番目の勅撰和歌集。10巻。崇徳院の下命で、藤原顕輔が撰進した。1144年(天養1)下命ののち7年を経て、51年(仁平1)に完成、院の意志でさらに7首を削って409首の第二次精撰本が完成。もっとも小規模な勅撰集である。顕輔の撰集は、前代歌人を重視し、冒険を避けたが
成尋阿闍梨母集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安後期の日記文学的家集。2巻。成尋阿闍梨母(源俊賢女(としかたのむすめ))が、80余歳の高齢に達してから、わが子成尋が求道(ぐどう)のために渡宋(そう)したときの悲しみを、和歌と散文をもって書き綴(つづ)ったもの。別れる前、成尋とともに暮らした岩倉
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