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モネ(岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
フランスの画家,印象派の開拓者,指導者.パリに生まれる.少年時代をルアーヴルで過ごして海と陽光の美しさに啓発され,同地でブーダンに師事し風景画に開眼する.パリに戻り[1859],はじめトロワイヨン,のちグレールに師事し,P.A.ルノワール,シスレー
三島由紀夫(日本近代文学大事典)
小説家、劇作家。東京市四谷区永住町二番地に生れた。本名は平岡公威きみたけ。父梓と母倭文重しずえの長男。父は農林省官吏で、祖父の定太郎は樺太庁長官をつとめた。母は、前田藩儒者で東京開成中学校長をつとめたことのある橋健三の次女である。祖母の夏子
蘆屋道満(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
平安中期の法師陰陽師。道摩ともいう。安倍晴明と術くらべする人物として登場することが多い。『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』に、道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追放されたと伝える。『峯相記』
キーン ドナルド(日本近代文学大事典・日本大百科全書)
本文:新規日本文学研究者、翻訳者。アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ。本名、DonaldLawrenceKeene。1938年、16歳でコロンビア大学入学。学部生時代はフランス文学、ギリシャ文学を専攻し、人文学の泰斗であるマーク・ヴァン
中原中也(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存詩人。山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村生れ。父謙助、母福の長男。父は陸軍軍医であった。生後まもなく父の勤務地であった旅順に赴き、父の転任にしたがい、その後、山口、広島、金沢に移り住み、大正三年、母、弟とともに山口に帰って下宇野令小学校に入学
尾崎紅葉(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。江戸の芝中門前町に生れた。本名は徳太郎。縁山、半可通人などの別号があり、俳句には十千万堂(十千万)などの別号を用いた。慶応三年一二月一六日は太陽暦では一八六八年一月一〇日に当たる。なお、一説では慶応三年一二月二七日の出生とする
六歌仙(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
『古今和歌集』仮名序で、紀貫之によって論評された六人の歌人の称。僧正遍昭(照)、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友(伴)黒主の六人を指す。六人は「いにしへの事をも歌をも知れる人、よむ人多からず。……近き世にその名きこえたる人」としてあげられ
歌川広重(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれた。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門(または十右衛門)、のち徳兵衛といい、後年には鉄蔵と改めた。1809年(文化6)13歳のときに
小泉八雲(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存随筆家、批評家。イギリス人。のち帰化。ギリシア、アイオニアのリュカディア島生れ。島の名にちなんで命名された。父チャールスはアイルランド系の軍医、母はギリシア人ローザ゠カシマティ。生後一年半、父の西印度諸島赴任によりダブリンへ帰ったが
拾遺往生伝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
大江匡房の『続本朝往生伝』のあとをついで、慶滋保胤の『日本往生極楽記』をふくめ、それまでに遺漏のあった異相往生人の行業を集め、後人への結縁・勧進のために三善為康が撰述した往生伝。『日本拾遺往生伝』ともいう。三巻。巻中・下の序によると、はじめは一巻の
三遊亭円朝(日本架空伝承人名事典・日本近代文学大事典・日本大百科全書)
幕末・明治の落語家。本名出淵(いづぶち)次郎吉。父は落語家橘家円太郎。七歳で小円太を名のり初高座。一時、画工を志し歌川国芳に浮世絵を学ぶものの、再び落語家に戻り、二〇歳で三遊亭円朝となる。画技を生かした道具入り正本芝居咄で人気を博したが、師匠二代目
国定忠次(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸後期の博徒。忠次(治)郎ともいう。上野国佐位郡国定村の出身。中農以上に属する長岡与五左衛門の長男。二一歳のとき博徒の縄張を譲られて以来博徒の親分となり、一八三四年(天保五)縄張争いから同じ博徒の島村の伊三郎を殺害し、有名となる。四二年賭場の最中に
岸信介(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八九六-昭和時代の政治家。明治二十九年(一八九六)十一月十三日、山口県熊毛郡田布施村の酒造家佐藤秀助の次男として生まれ、のち父の生家(秀助は養子)岸家を継いだ。佐藤栄作は実弟である。大正九年(一九二〇)東京帝国大学法学部を卒業、農商務省に入り
向田 邦子(日本近代文学大事典・日本大百科全書)
本文:新規脚本家・エッセイスト・小説家。東京府荏原郡世田ヶ谷生れ。第一徴兵保険株式会社に勤める父向田敏雄と、母せいの長女として出生。敏雄は仕事柄転勤が多く、家族を伴っての転居を繰り返した(東京、宇都宮、鹿児島、高松、東京、仙台、東京)。1939
紀伊国屋文左衛門(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一七三四江戸時代中期の江戸の豪商。略して紀文ともいう。その伝記は詳らかでないが、没年六十六歳といわれるので、寛文九年(一六六九)の生まれか。現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定され、はじめ紀州のみかんを江戸に廻漕し、江戸から塩鮭を上方にも
江戸川乱歩(日本大百科全書・世界大百科事典・日本近代文学大事典)
推理作家。本名平井太郎。明治27年10月21日、三重県名張市に生まれる。早稲田(わせだ)大学政経学部卒業。中学生のころに黒岩涙香(るいこう)の『幽霊塔』などの作品に熱中して以来、欧米のミステリーを耽読(たんどく)。ペンネームは彼が傾倒したエドガー
大姫(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一一九七源頼朝の長女、母は北条政子。治承二年(一一七八、一説には同三年)生まる。頼朝伊豆配流中の誕生。五、六歳のころ木曾義仲の長男志水義高十一歳の許嫁となり、義仲敗死の後義高が斬られたため、大姫は愁嘆のあまり病身となり一生を鬱病で過ごした
葛飾北斎(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。江戸本所割下水(現、東京都墨田区)で生まれた。幼少の頃より好んで絵を描き、版画の技術を学び、勝川春草の門に入って写実的な役者絵、黄表紙などの挿絵を描いた。狩野派を学んだために勝川派から追放され、以後は土佐派・琳派
喜多川歌麿(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
江戸中・後期の浮世絵師。本姓は北川。生国には諸説がある。幼名は市太郎、のち勇助(勇記とも)。江戸に出て、狩野派の絵師である鳥山石燕に師事し、のちに浮世絵の第一人者となった。初めは北尾重政・鳥居清長ら先輩の作風を学び、修業を重ねた。歌麿の号は
東洲斎写楽(日本架空伝承人名事典・新版 歌舞伎事典・国史大辞典)
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。一七九四年(寛政六)五月から翌九五年一月までの正味一〇カ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余図という多くを発表。当時おおいに人気を得たらしいが、その後は浮世絵界との交渉をまったく
石川啄木(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八八六-一九一二明治時代の歌人、詩人。名は一、中学時代翠江・麦羊・白蘋(はくひん)と号した。明治十九年(一八八六)二月二十日岩手県南岩手郡日戸村(岩手郡玉山村)に生まれた。父一禎(いってい)は曹洞宗常光寺の住職、母かつは南部藩士工藤条作常房の娘で
二葉亭四迷(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八六四-一九〇九明治時代の小説家。本名長谷川辰之助。元治元年(一八六四)二月二十八日(文久二年(一八六二)十月八日説、元治元年二月三日説もある)、江戸市ヶ谷の尾張藩上屋敷(東京都新宿区、現在陸上自衛隊市谷駐屯地)に生まれた。父は尾張藩士長谷川吉数
ガリレイ(Galileo Galilei)(岩波 世界人名大辞典・デジタル版 集英社世界文学大事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
イタリアの物理学者,天文学者.ピサに生まれる.ピサ[1589]およびパドヴァ[92-1616]の各大学数学教授.ピサの聖堂の吊灯を見て振子の等時性を発見した[1583].ピサの斜塔で落体の実験を行い,アリストテレスの自然学の誤りを正し,近代的力学成立
シェークスピア(デジタル版 集英社世界文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
イギリスの劇作家,詩人。中部イングランド,ウォリックシャーの小さな町ストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。誕生日は4月23日とされるが,それは記録に残る受洗日の4月26日から逆算して,後世がそのように定めたものである。父親ジョンは,近隣の
ジャンヌ・ダルク(日本大百科全書・世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典)
15世紀前半、イギリスのランカスター王家が仕掛けてきた戦争(後期百年戦争)の最中、神の命令を受けたと称して現れ、フランスのバロア王家を支援したロレーヌ出身の女。2年後、異端として殺された。今日われわれのみるジャンヌ・ダルクは、国民国家意識の高揚した
始皇帝(世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書)
中国,秦31代の王(在位,前247-前222),中国最初の皇帝(在位,前222-前210)。姓は嬴(えい),名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽翟の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上した
孔子(国史大辞典・岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
前五五二-四七九中国、春秋時代の学者。儒教の祖。諱は丘、字は仲尼。魯の襄公二十一年(前五五二、または同二十二年ともいう)十月庚子(二十一日)、魯国昌平郷陬邑(すうゆう)に生まれた。父は孔(こつ)、字を叔梁といい、勇士として知られ、母は顔氏の女で徴在と
スターリン(日本大百科全書・世界大百科事典)
本名ジュガシビリДжугашвили/Dzhugashvili。ソ連の政治家。12月21日ジョージア(グルジア)のゴリという町の靴屋の子に生まれる。チフリス(現、ジョージア・トビリシ市)の神学校在学中にマルクス主義の洗礼を受け、職業革命家の道に入った
高浜虚子(日本大百科全書・世界大百科事典)
俳人、小説家。明治7年2月22日(臍(ほぞ)の緒書(おがき)では20日)松山市長町新丁(現湊(みなと)町4丁目)に生まれる。本名清。父池内庄四郎政忠(しょうしろうまさただ)(のちに信夫(のぶお))は藩の剣術監、母は柳(りゅう)。1882年(明治15)
川端康成(日本大百科全書・世界大百科事典)
小説家。明治32年6月14日、大阪に生まれる。医師の父栄吉、母ゲンの長男。1901年(明治34)父、翌年母が亡くなり、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄(しゅくのしょう)(現茨木(いばらき)市宿久庄)で祖父母に育てられた。小学校入学の年祖母、4年のとき姉