書籍や雑誌を支える活字の番人――それが校閲という仕事です。新潮社校閲部の石川芳立さんは、なぜ校閲の道を選んだのでしょうか。実はその決断の裏側には、あの名作の存在がありました。
将来の仕事を選ぶ時に「校閲者になろう!」とは、皆さん、なかなか思わないかもしれません。私は変わっているのかな。どうなんでしょう。
1962年生まれ。大学を卒業後、時事通信社の校閲部を経て、30歳で新潮社の校閲部へ。社会人になって以来、一貫して校閲畑を歩んでいる。雑誌『芸術新潮』、『週刊新潮』、書籍の担当を経て、現在は校閲部次長。主な担当書籍は、『ドナルド・キーン著作集(全16巻)』、横山秀夫『看守眼』、大江健三郎/尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』、村山由佳『嘘 Love Lies』、インターネットの掲示板から生まれた中野独人『電車男』など。
取材・文/角山祥道 写真/五十嵐美弥
自分の知らない世界に導く文学への敬意や憧れはずっとありました。その影響か、大学在学中には、「自分には人生の実体験が足りないんじゃないか」と、さまざまなアルバイトに挑戦しましたが、肉体労働にはまったく向いていないことを痛感しただけでした。大学卒業後も築地の魚河岸でアルバイトを続けながら、このままではいけないと行き詰まっていた時に、子ども時代から好きだった宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が強く思い出されたんです。
貧しい少年ジョバンニが、親友カムパネルラと一緒に、夢の中で銀河鉄道に乗って宇宙を旅するという幻想的な物語です。この中でジョバンニは、「活版処」で、活字を拾って生計を立てています。このジョバンニの姿が頭に浮かびました。
《ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子(テーブル)に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函(はこ)をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。》
どこかに、「ジョバンニのようでありたい」と思っている自分がいました。賢治が描いた活版印刷所への憧れから、なぜか校正という仕事を連想し、時事通信社校閲部の入社試験を受けました。運よく採用していただき、その後の校閲人生をスタートさせました。おかげで活版印刷の現場にも触れられましたし、あの時鍛えてくださった先輩や職工さんたちには今も感謝しています。
宮木あや子さんの『校閲ガール』(KADOKAWA)がテレビドラマ化(2016年日本テレビ系)されて話題になっていたころに、他社の校閲事情に興味が湧いてネットで調べていたら、ある出版社の女性校閲部員の記事を見つけて驚きました。校閲を仕事に選んだ理由として、ジョバンニの活字拾いを挙げていたからです。ジョバンニの存在がフックとなって、校閲という仕事を選ぶ精神的ルートがある、世の中には同じように感じた人がいると知って、不思議な気持ちになりました。
30歳で新潮社の校閲部に移り、今にいたります。学生時代から愛読していた大江健三郎さんの本を担当し、ご本人にもお会いできたことは、一生の思い出です。ただ、その場で大江さんから、「三島由紀夫さんが、『新潮社の校閲部は素晴らしい』と褒めていましたよ」と言われた時には、嬉しいというよりも、優秀な先人が築いてきた歴史と、責任の重さがズシッと来ました。新潮社校閲部に期待される「責任の重さ」は、今後も変わらないでしょう。
日常生活では、校閲者である自分を面倒だと思うこともあります。たとえば、「檄を飛ばす」。これは、《人々を急いで呼び集める。また、自分の主張や考えを、広く人々に知らせて同意を求める》(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)こと、つまり「檄文」を送って賛同者を募ることですが、《誤って、がんばるよう激励するように用いられることもある》(同前)とあるように、「ゲキを飛ばす」という使い方が氾濫しています。
また、新聞やテレビなど、巷にあふれる「べき」で止める言い方も気になります。
これは文語「べし」の連体形なので、「べきだ」「べきである」など、体言に当たる語を足すか、終止形「べし」で止めるのが本来の形です。「べし」は語調が強いから、押しつけるような、偉そうな印象になるので避けているのでしょうが、大丈夫、文法が味方ですから、自信を持って「べし」と言い切ってください(笑)。ほかにも「目線」「立ち上げる」などに強い抵抗感を覚えます。なので、「市民目線に立ったプロジェクトを立ち上げるべき」といった実例に触れるたびに、勘弁してくれと言いたくなります。この種の「誤用」にいちいち反応してしまうのは、校閲者の職業病かもしれません。
2018-04-02
出版社:新潮社
18歳で『源氏物語』に出会って以来、80年近くにわたり日本文学を研究し世界に紹介してきたコロンビア大学名誉教授、ドナルド・キーン氏。日本への永住を決意した東日本大震災の年、2011年12月から刊行を開始した氏の文業の集大成となる著作集。
「校閲担当者のおすすめは、キーン先生が日本に惹かれた理由や、軍隊での体験、学者としての遍歴などを率直に書かれた第十巻『自叙伝 決定版』と、第十二~十四巻『明治天皇』です。今年は明治150年だそうですが、明治日本がどのように国家体制を形成していくかが見えてきます」(石川さん)
第一巻「日本の文学」
吉田健一、篠田一士、大庭みな子、平野勇夫/訳 3,888円(税込)
第二巻「百代の過客」 金関寿夫/訳 3,240円(税込)
第三巻「続 百代の過客」 金関寿夫/訳 3,888円(税込)
第四巻「思い出の作家たち」 4,104円(税込)
第五巻「日本人の戦争」 松宮史朗、角地幸男/訳 4,104円(税込)
第六巻「能・文楽・歌舞伎」 3,240円(税込)
第七巻「足利義政と銀閣寺」 角地幸男/訳、他 3,240円(税込)
第八巻「碧い眼の太郎冠者」 足立康/訳、他 4,104円(税込)
第九巻「世界のなかの日本文化」 司馬遼太郎、安部公房/著 3,888円(税込)
第十巻「自叙伝 決定版」 3,456円(税込)
第十一巻「日本人の西洋発見」 3,672円(税込)
第十二巻「明治天皇〔上〕」 角地幸男/訳 3,240円(税込)
第十三巻「明治天皇〔中〕」 角地幸男/訳 3,240円(税込)
第十四巻「明治天皇〔下〕」 角地幸男/訳 3,240円(税込)
第十五巻「正岡子規・石川啄木」 今夏刊行予定
別巻「補遺・書誌・年譜 他」 刊行日未定