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改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧

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文武天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六九七―七〇七在位。諱は軽(珂瑠)。諡は天之真宗豊祖父(あまのまむねとよおおじ)天皇。天武天皇の孫、草壁皇子の子。母は阿閇皇女(天智天皇の娘、のちの元明天皇)。天武天皇十二年(六八三)生まれる。持統天皇三年(六八九)、七歳のとき父を失う
天武天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六七三―八六在位。父は舒明、母は皇極(斉明)天皇で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。幼名を大海人(おおしあま・おおあま)皇子といい、諡号を天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。『一代要記』などに
天智天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六六一―六八称制、六八―七一在位。大化改新の中心人物。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。淡海(近江)大津宮天皇とも。推古天皇三十四年(六二六)の生。父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(舒明皇后、皇極・斉明天皇)
舒明天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六二九―四一在位。和風諡号は息長足日広額天皇。父は敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子。母はその異母妹糠手姫皇女、またの名は田村皇女で、天皇の諱田村はこれに因む。推古天皇三十六年(六二八)推古天皇の没後、田村皇子を推す大臣蘇我蝦夷は
崇峻天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『日本書紀』によると五八七―九二在位。諱は泊瀬部、また長谷部若雀命という。欽明天皇の皇子、母は大臣蘇我稲目の娘小姉君。同母兄に穴穂部皇子、異母兄に敏達・用明天皇、異母姉に推古天皇らがいる。五八七年用明天皇の崩後、蘇我馬子と物部守屋が戦端を開くと
用明天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六世紀末の天皇。『日本書紀』によれば五八五―八七年在位。異母兄敏達天皇の死去をうけて即位。橘豊日尊、大兄皇子と称す。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の女、堅塩媛。異母妹の穴穂部間人皇女(母は堅塩媛の妹、小姉君)を妃として、厩戸・来目・殖栗・茨田の諸皇子を得た
欽明天皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
記紀に第29代と伝える天皇。継体(けいたい)天皇と手白香(たしらか)皇后(仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ))の嫡子。名は伝わらず、和風諡号(しごう)は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という
継体天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『日本書紀』によれば、生没年は四五〇―五三一、五〇七―三一在位。諱は男大迹(おおど)、袁本杼・乎富等とも書く。応神天皇の五世の孫と伝えられる。父の彦主人(ひこうし)王は近江国にいたが、越前坂井郡の三国にいた振媛を妃とし、継体天皇を生んだ
雄略天皇(国史大辞典・新版 日本架空伝承人名事典・改訂新版 世界大百科事典)
『日本書紀』では第二十一代で、大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)天皇と表記し、『古事記』では大長谷若建命と表記する。允恭天皇第五子。母は忍坂大中姫命。兄の安康天皇が眉弱(まよわ)王に暗殺されると、王と王を保護した葛城円
垂仁天皇(国史大辞典・新版 日本架空伝承人名事典・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』に第十一代と伝える天皇。活目入彦五十狭茅天皇・伊久米天皇などという。父は崇神天皇、母は大彦命の娘、皇后御間城姫。崇神天皇二十九年誕生、四十八年立太子、六十八年崇神天皇が亡くなると翌年纒向珠城宮に即位したという
崇神天皇(国史大辞典・新版 日本架空伝承人名事典・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』などの皇室系譜では第十代の天皇。開化天皇の皇子。『日本書紀』によれば母は伊香色謎(いかがしこめ)命(『古事記』では伊迦賀色許売(いかがしこめ)命)と伝える。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇
神武天皇(国史大辞典・新版 日本架空伝承人名事典・改訂新版 世界大百科事典)
『日本書紀』および『古事記』によれば、第一代の天皇で、皇室の祖先とされる。その名は、『日本書紀』神代、神皇承運章本文・同第一の一書によれば、神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)尊という。草葺不合(うがやふきあえず)尊の第四子で
神代文字(改訂新版・世界大百科事典)
漢字の渡来および〈かな〉の成立に先だって,上古の日本にかつて行われたと称せられる文字。〈神字〉と書いて,〈かんな〉とも呼ぶ。そのような固有の文字が存在したとする説は,おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっており,江戸時代においては,平田篤胤をはじめ国学者のうちに
橋本進吉(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
国語学者。福井県敦賀市に生まれる。代々の医家であったが、5歳にして父を失った。第三高等学校を経て、1906年(明治39)東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる。09年東京帝国大学文科大学助手に任ぜられ、27年(昭和2)助教授、2年後教授となる
東歌(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
東国地方の歌の意で、『万葉集』巻14と『古今集』巻20の、「東歌」という標題のもとに収められた和歌の総称。万葉集東歌、古今集東歌と、単独ででもいう。[遠藤 宏]万葉集東歌 全部で230首(異伝歌のうち一首全体を記すものを加えると238首)あり、遠江国、信濃国以東の駿河
字音(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
固有の文字をもたなかった中国の近隣諸国が、漢字を書記用具として輸入した際に、それぞれの漢字に伴う中国語の発音を同時に取り入れて、自国語のなかに定着させたもの。「漢字音」または単に「音」ともいう。本来の中国語の発音を「中国(漢)字音」とよぶのに対して
西郷従道(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治時代の政治家、軍人。天保十四年(一八四三)五月十四日薩摩藩の下級藩士(御小性与)西郷吉兵衛の第六子(三男)として鹿児島城下加治屋町に生まれる。母は同藩士椎原権右衛門の娘マサ。西郷隆盛は従道の長兄にあたる。幼名は竜助。幼くして両親を失い島津家の茶坊主として
大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治二十四年(一八九一)滋賀県大津で護衛巡査が来日中のロシア皇太子を負傷させた事件。湖南事件ともいう。シベリア鉄道起工式に参列する途中来日したロシア皇太子ニコラス=アレクサンドロビッチ(のちの皇帝ニコライ二世)は長崎・鹿児島を経て五月九日京都に入った
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
長州征伐(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1864年(元治1)、1865~66年(慶応1~2)にかけて行われた幕府による征長出兵。長州藩では第二次征長を四境戦争とよぶ。[吉本一雄]第一次 1864年7月の蛤御門の変(禁門の変)によって長州藩追討の名目を得た幕府は、尊攘派に打撃を与える意図もあって、征長を表明し出軍した。
征韓論(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
いわゆる「明治六年(一八七三)十月の政変」をひきおこした外交政策論争。明治政府は成立早々の明治元年十二月(一八六九年一月)対馬藩主宗義達に命じて王政復古を朝鮮政府に通告させたが朝鮮政府は釜山で宗氏の家臣に対し、日本からの国書には日本天皇が朝鮮国王より名分論的に
義経記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集・東洋文庫)
著者未詳。八巻。『判官物語』『義経双紙』『義経物語』などとも呼ばれ、これらの名称が物語るように、群雄の行動を軸に時代の変革を描く叙事詩としての軍記物語というよりは、源義経個人の数奇な生涯を描いた伝奇物語というべきもので、琵琶法師がその語り物として語った。
申楽談儀(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
能楽伝書、一冊。正しくは『世子六十以後申楽談儀』。世子とは世阿弥の敬称。世阿弥六十歳、応永二十九年(一四二二)観世大夫を長男元雅に譲って出家したころ、次男元能が、父の芸談を筆記し整理して、この年十一月、元能も芸道を捨て出家する時に、この聞書をまとめて、
正徹物語(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
歌論書。二巻。正徹著。二巻のうち上巻を「徹書記物語」、下巻を「清巌茶話」と称するものもある。下巻は智蘊の聞書と見る説もあるが未詳。成立年時は文安五年(一四四八)とする説と宝徳二年(一四五〇)とする説がある。上・下別々に成立したものか否かもまだはっきりわからない
ささめごと(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町時代の連歌論。1冊または2冊。心敬著。1463年(寛正4)、心敬が郷里の紀伊国田井荘(現在和歌山市の一部)に下ったとき、土地の人々の求めに応じて書き与えたものを原型とし、のち何度か増補・改編されている。問答体で構成され、連歌の学び方、作風論、付合論などを中心とするが
応仁記(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
応仁・文明の乱を題材とした室町時代の戦記文学。著者は明らかでないが、成立の時期は応仁・文明の乱の直後、それも文明五年(一四七三)からさほど時間を経ないころの作と考えられる。内容は三巻からなっているが、各巻とも何々事という見出しを付したいくつかの話にまとめられ
狂雲集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一休宗純の詩集。書名は一休が狂雲子と号したことに由来する。その生涯の言行は不羈奔放、洒脱自在なものがあったが、この詩集はそれを如実に伝える。一休は天性詩文の才に秀でたが、広く古典を学ぶことによってさらにすぐれた。『一休年譜』によれば、一休没年八十八歳の時に
水無瀬三吟百韻(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
長享二年(一四八八)正月二十二日、後鳥羽院の二百五十年の忌日に水無瀬宮法楽として同御影堂に奉納した何人連歌。一冊。正しくは「水無瀬三吟何人百韻」という。何人が賦物で、発句の一字「山」と熟して山人と賦す。発句「雪ながら山もと霞む夕哉
新撰菟玖波集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
准勅撰連歌集。宗祇・兼載ら編。和文序一巻と二十巻。集句は永享前後から明応三年(一四九四)末、四季六巻・賀(含哀傷)・恋三巻・羈旅二巻・雑五巻(含聯句)・神祇一巻(含釈教)・発句二巻。他に作者部類一巻。総句数二千五十三句(うち発句
梅花無尽蔵(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
五山文学作品。著者は万里集九、万里の居所庵名をもって書名とした。七巻八冊。巻一から巻三までは七言絶句の作品を編年順に配列する。巻一は応仁の乱前から文明十七年(一四八五)九月まで、巻二は太田道灌の招請に応じて、江戸下向から始めて長享二年(一四八八)九月まで
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