改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧
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「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
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西郷隆盛(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末・明治期の政治家。大久保利通,木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。薩摩国鹿児島城下で下級藩士の子に生まれた。幼名は小吉,吉之介,吉兵衛,吉之助,名は隆永のち隆盛,号は南洲。1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関

大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末維新期の薩摩藩士,鹿児島県初代県令。薩摩藩士横山善助の次男で大山家を継ぐ。格之助と称した。1859年(安政6),誠忠組のメンバーが藩主島津忠義に血誓の請書を出した署名48人の一人で,寺田屋事件では,島津久光の命で志士の鎮圧にあたり,また,倒幕運動

大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・世界大百科事典)
幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画し

子嚢菌類(改訂新版 世界大百科事典)
酵母のように単細胞を主体とするものから,コウジカビ,アオカビ,アカパンカビなどのように糸状細胞のいわゆるカビといわれるものや,さらにマメザヤタケ,チャワンタケ,アミガサタケなどのように比較的大型でキノコ状のものまでをふくむ菌類をまとめた大群である。現在のところ1950属

関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
改訂新版世界大百科事典関ヶ原の戦せきがはらのたたかい1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に

林羅山(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は加賀の武士で父信時より京都に住み,伯父吉勝(米穀商)の養子となる。1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(

島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも

天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1864年(元治1)水戸藩尊攘激派による挙兵事件。水戸藩主徳川斉昭の下で改革政治に登場した者が天狗と呼ばれ,尊攘激派を中心とした天狗党は,保守派とくに諸生党と激しく対立した。1863年(文久3)8月18日の政変で尊攘運動が挫折すると,天狗党の藤田小四

禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により

シャクシャインの戦い(世界大百科事典)
1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方

一条摂政御集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
平安時代の歌人摂政太政大臣藤原伊尹(これただ)の家集。《大鏡》に〈いみじき御集つくり豊蔭′と名のらせ給へり〉と見えるが,大蔵史生倉橋豊蔭に仮託して,伊尹の恋歌を歌物語風にまとめた第1部41首,〈同じ翁の歌〉として収める種々の贈答歌からなる第2部151

仁徳天皇(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本古典文学全集)
応神天皇につぐ16代の天皇とされる。応神の子,履中,反正,允恭天皇の父。諱(いみな)はオホサザキ(大雀,大鷦鷯),宮は難波高津宮,陵は和泉百舌鳥耳原(もずのみみはら)中陵。天皇は幼にして聡明,壮におよび仁慈,ために〈仁徳〉と諡(おくりな)されたが

火祭(世界大百科事典)
大火をたいたり,灯火やたいまつなどの火が大きな役割を果たす祭り。火祭の根底には,火に対するいい知れぬ畏敬の念があり,それが火祭の原動力をなしている場合が多い。火祭はたいてい夜に行われ,その火には祭場の照明や採暖といった実用的な意味のほか,神を招く目印

祈年祭(日本大百科全書・世界大百科事典)
年穀の豊穣と国家の安泰を祈る祭り。年のはじめに豊作を願う春祭と同意。訓読して〈としごいのまつり〉ともいう。その起源は律令以前にさかのぼる春の予祝儀礼にあると思われる。それは当時祈年祭にあたって,御年皇神(みとしのすめがみ)に〈白馬・白猪・白雞〉を献ず

和漢朗詠集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安中期の詩歌選集。2巻。藤原公任撰。寛仁(1017-21)ごろの成立か。平安前期から,文人貴族は《白氏文集》など中国の漢詩文を規範として模倣し,とくに華麗な対句や四六儷(べんれい)文の秀句は,もとの作品から切り離して作文の手本にされたり朗詠されたり

栄花物語(栄華物語)(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集)
宇多天皇から堀河天皇寛治6年(1092)にいたる15代およそ200年間の宮廷貴族の歴史を,仮名文を用いて編年体物語ふうに記した歴史物語。古写本では《栄花物語》と書く。40巻(異本30巻)。藤原道長の栄華を主としているところから書名がつけられ

浜松中納言物語(世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安後期の物語。作者は菅原孝標女(たかすえのむすめ)か。原名は《御津の浜松》で5巻現存,首巻散逸。故宮の息中納言は,義父の大将が式部卿宮に嫁がせると約束していた大将の娘大君と契り,大将を困惑させる。折から中納言は亡父が唐の皇子に転生していると伝聞し,

更級日記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝の日記文学。1巻。作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。作者は上総介であった父孝標とともに東国に過ごし,1020年(寛仁4),任期満ちた父とともに帰京の途につくが,その年から起筆し,59年(康平2)ころまでのことを記しているので,その

夜の寝覚(夜半の寝覚)(世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安後期の物語。現存本の題名は《寝覚》または《夜の寝覚》。作者は菅原孝標女(たかすえのむすめ)と伝えるが,確かでない。現存本は5巻または3巻に分かつが,中間および巻尾(続編)に欠巻がある。ほかに鎌倉期に続編を切り捨て改作縮小したとおもわれる中村本5巻

陸奥話記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
軍記。一名を《陸奥物語》ともいい,《奥州合戦記》とも呼ばれる。作者不詳。1巻。11世紀の中葉に,陸奥の俘囚(ふしゆう)の長であった安倍頼時・貞任父子が起こしたいわゆる〈前九年の役〉の顚末を,その鎮定に活躍した鎮守府将軍源頼義の功業を中心に叙述したもの

本朝文粋(国史大辞典・世界大百科事典)
平安朝漢詩文の総集。14巻。詩中心の総集《扶桑集》(紀斉名(ただな)撰)に対して,日本最初の文中心の総集。編者は藤原明衡(あきひら)。1058年(康平1)ごろの成立か。書名は《唐文粋》により,組織・体式は《文選》による。9世紀前半~11世紀前半の作家

狭衣物語(世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安後期の物語。4巻。作者は後朱雀院の皇女禖子(ばいし)内親王に仕えた宣旨(女房の名)と伝えられる。宣旨は1055年(天喜3)5月の《六条斎院歌合》(題物語)に《玉藻に遊ぶ》という物語を提出しているが,今は散逸している

後拾遺和歌集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
勅撰集。八代集の4番目の歌集。《後拾遺集》とも呼ぶ。撰者は藤原通俊(みちとし)。20巻。1218首。1075年(承保2)に白河天皇の勅命を受け,86年(応徳3)春に草稿本,同年9月に奏覧本が完成。翌87年に改訂して再奏本を作った。組織構成は《古今集》

扶桑略記(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安末期の編年体の歴史書。皇円著。巻末が1094年(嘉保1)で終わり,以降の成立である。もと30巻あったと伝えるが,神武天皇から平城天皇までの抄本と,第2~6巻,第20~30巻の16巻が現存している。引用文献は82種に及び,六国史以下の史書や寺院縁起

江談抄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安末期の説話集。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼(さねかね)が筆録したもの。ただし間接的な聞書,また実兼以外の人物による筆録をも含んでいる。匡房の晩年における談話が中心になっているが,かなり早い時期の言談,あるいは匡房の没後のまた聞きの筆録も加

讃岐典侍日記(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝の日記文学。上下2巻。作者は藤原顕綱の娘長子。讃岐典侍の名は堀河・鳥羽両天皇に仕えた女房名。父が讃岐入道と呼ばれた歌人であったことによる。1110年(天永1)ごろ成る。上巻は1107年(嘉承2)6月堀河天皇の発病に筆を起こし,日増しに容態が悪化

俊頼髄脳(国史大辞典・世界大百科事典)
源俊頼が関白藤原忠実の娘高陽院(かやのいん)泰子に献呈した歌学書。1111-13年(天永2-永久1)ころの著作。《俊秘抄》《俊頼口伝集》などの書名でも伝わる。歌体,歌病(かへい),秀歌論から和歌説話に及ぶ博大な和歌概論に仕立て,院政期歌壇指導者として

大鏡(世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安朝後期成立の歴史物語。文徳天皇の代から後一条天皇の代まで(850-1025)のことを,かなぶみで書いており,いわゆる鏡物(かがみもの)の第1作。作者不詳。近代以前に藤原為業,同能信,近代になっても,源経信,同俊明,同俊房らを作者に擬する諸説が出さ

金葉和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安末期の歌集。勅撰和歌集の第5番目。源俊頼撰。10巻。白河院の院宣をうけ,1124年(天治1)初度本を奏覧したが却下。次いで翌年の二度本も返却,26年(大治1)の末から27年の初めころに三奏本を奏覧し,嘉納された。二度本が流布する。《八代集全註》に

詞花和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安末期の歌集。勅撰和歌集の第6番目。藤原顕輔(あきすけ)撰。10巻。崇徳院の院宣をうけ,1151年(仁平1)奏覧した。歌数400首余りで八代集中最少。保守・革新両派の調和的傾向を示すが,《無名抄》に〈軽々なる歌〉が多いと非難された一面もあり,《後葉