改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧
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神代文字(改訂新版・世界大百科事典)
漢字の渡来および〈かな〉の成立に先だって,上古の日本にかつて行われたと称せられる文字。〈神字〉と書いて,〈かんな〉とも呼ぶ。そのような固有の文字が存在したとする説は,おそくとも室町時代から神道家の間にひろまっており,江戸時代においては,平田篤胤をはじめ国学者のうちに

橋本進吉(世界大百科事典)
国語学者。福井県敦賀(つるが)市に生まれ,1906年東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同大学助手,助教授を経て,29年教授,上田万年(かずとし)のあとをついで国語学科の主任教授となり,43年に定年退官。国語学会初代会長を務めた。日本語の歴史と文法の

東歌(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〈あずま〉とは古代日本の辺境としての東国をさし,そこで行われた地方歌謡をいう。東歌の名は《万葉集》巻十四にみえ,その巻全体が230首の東歌で占められている。また《古今集》巻二十も13首の東歌を収めるが,東国歌謡の特色を顕著に示すのは《万葉集》の方であ

字音(世界大百科事典)
個々の漢字の示す音(オン)。中国語以外の言語では,中国語の字音をその漢字と共に借用して自らの言語に順応させた音をいい,特に〈漢字音〉とも称する。中国語からの借用に当たっては,字音は個々の言語の音韻体系,音節構造に適合するように変形される。このようにし

西郷従道(国史大辞典・世界大百科事典)
明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74

大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1891年5月11日におきたロシア皇太子遭難と犯人処刑をめぐる政治問題。湖南事件ともいう。ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中,軍艦7隻で日本に東遊したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)は琵琶湖遊覧の帰途,大津町(現,大津市)

王政復古(世界大百科事典・日本国語大辞典)
共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新

長州征伐(世界大百科事典)
幕末期,江戸幕府が長州藩攻撃のために起こした戦争で,第1次は未発,第2次は倒幕運動の拠点長州との全面的な軍事対決となった。第1次征長,第2次征長ともいい,この第2次征長戦を長州側では四境戦争と呼ぶ。第1次1864年(元治1)7月18日の禁門の変(蛤御

征韓論(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末・明治初年の朝鮮侵略論をいい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさすことが多い。幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)や木戸孝允(桂

義経記(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集・東洋文庫)
準軍記物語。室町初期の成立。8巻。作者不詳。《判官(ほうがん)物語》《義経(よしつね)物語》ともいう。源義経の一代記だが,義経が平家追討の大将として活躍するもっとも華やかな時期の事跡はほとんど書かれず,幼少期と,平家滅亡後兄の源頼朝に追われて自殺する

申楽談儀(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
正しくは《世子六十以後申楽談儀(ぜしろくじゆういごさるがくだんぎ)》。能の伝書。晩年における世阿弥(ぜあみ)の芸談を次男の元能(もとよし)が筆録・整理したもの。奥書によれば,1430年(永享2)11月,元能が出家遁世するに際し,それまで父世阿弥から受

正徹物語(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
歌論書。正徹著。2巻。1448-50年(文安5-宝徳2)ころ成立。別名《正徹日記》,また上巻を《徹書記物語》,下巻を《清巌茶話》とするものもある。正徹の自著とも門人の聞書ともいわれる。内容は,個条書形式で随筆風に,自作を含む和歌の注や風体論,歌人の逸

ささめごと(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
連歌論。心敬著。1463年(寛正4),心敬が郷里の紀州田井庄(現,和歌山市)に下向したとき,土地の人々の求めに応じて書き与えたものが原形で,のち何度か増補・改編されたため異本が多い。1冊または2冊。問答体で構成されており,連歌修業の方法,風体論,付合

水無瀬三吟百韻(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町時代の連歌。1巻。後鳥羽院の水無瀬の廟に奉納するために,宗祇とその高弟の肖柏,宗長を連衆(れんじゆ)として,1488年(長享2)正月22日の院の月忌に山城国山崎で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。宗祇の発句〈雪ながら山もとかす

新撰菟玖波集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
室町時代の連歌集。一条冬良(ふゆら),宗祇ほか編。1495年(明応4)成立。20巻。《菟玖波集》(1357成立)以後の連歌の発句および付句を対象に編まれた撰集で,《新筑波》ともいう。1494年連歌に関心の深かった九州の守護大内政弘の発案・後援により,

梅花無尽蔵(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
室町中期の禅僧万里集九(ばんりしゆうく)の詩文集。7巻。書名は著者が影響をうけた南宋の陸游(りくゆう)の詩〈要識梅花無尽蔵,人人襟袖帯香帰〉を出典とする。美濃鵜沼の庵居にも同じ名をつけた。作品中最後の年記は文亀2年(1502)3月で,著者みずからが整

浪花節(国史大辞典・世界大百科事典)
浪曲(ろうきよく)ともいう。江戸後期にほぼ形成され,明治時代に大発展した語り物。三味線の伴奏に合わせて独演し,義理人情を主題としたものが多い。関西では,明治40年代まで〈うかれ節〉と称した。起源の時期はあきらかでないが,《嬉遊笑覧(きゆうしようらん)

夢中問答集(国史大辞典・世界大百科事典)
夢窓疎石述の法話集。《夢中問答》ともいう。全3巻。夢窓が足利尊氏の弟直義(ただよし)の問いに対し,仏教の本質,俗信,そして禅の本旨などについて,93項目にわたって平易懇切に答えたものである。すでに夢窓が生存中の1344年(興国5・康永3),若狭守護に

梅松論(国史大辞典・世界大百科事典)
足利政権成立の過程を記した軍記物語。2巻。1352年(正平7・文和1)をさほど下らないころの成立と推定される。京都北野天満宮に参籠した人々が老僧から物語を聞くという,《大鏡》に始まる〈鏡もの〉の形式をとる。書名は北野天神ゆかりの飛梅老松に由来すること

神道集(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
説話集。各巻の内題の下に〈安居院(あぐい)作〉と記すが,実際の編者は不明。南北朝時代(1350-60ころ)の成立か。10巻50条。巻一冒頭と巻五に〈神道由来之事〉〈天神七代事〉と伊勢神道と天台宗の色彩の強い神仏習合の教義をまとめておくなど,神道論書の

菟玖波集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
連歌撰集。1357年(正平12・延文2)成立。20巻。書名は連歌を〈筑波の道〉というによる。《筑波集》《古筑波》とも。二条良基が救済(ぐさい)の協力で古代から当代までの連歌作品を集大成したもので,構成は勅撰和歌集にならう。准勅撰となり,連歌の文学的地

曽我物語(国史大辞典・世界大百科事典)
軍記物ふうの英雄伝記物語。作者不詳。鎌倉後期から室町初期にかけての成立。伝本に真字本(10巻)と仮名本(10巻,または12巻)とがある。1193年(建久4)5月28日夜,曾我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね)兄弟が父の敵工藤祐経(すけつね)

河海抄(世界大百科事典)
南北朝時代の《源氏物語》注釈。20巻。著者は四辻(よつつじ)(源)善成。将軍足利義詮(よしあきら)の命により,貞治年間(1362-68)に成る。平安末期以来の《源氏物語》研究の成果を集成し,著者の見解をも加味して一書となしたもの。内容は,語句の解釈,

増鏡(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
南北朝時代の歴史物語。17巻本と20巻本がある。著者は二条良基が有力視されるが,確証はない。《大鏡》《今鏡》《水鏡》とならぶ〈四鏡〉最後の作品。《今鏡》のあとをうけて,後鳥羽院誕生の1180年(治承4)から,隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に帰還す

風姿花伝(花伝書)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
能楽の大成者世阿弥が父観阿弥の遺訓に基づいて著した最初の能楽論書。略称を《花伝》ともいう。一般には《花伝書》の名で知られているが,著者自身,書名の由来を〈その風を得て,心より心に伝ふる花なれば,風姿花伝と名付く〉と言明している。7編から成るが,当初か

行幸(日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
天皇の出行すなわち御行(みゆき)。天子の行く所,万民が恩恵に浴し,幸いを受けるので〈幸〉というと古書に説明する。大宝・養老令や延喜式制では,行幸に際しては,衛府の官人らが儀仗を整え,列次を組んで警固すること(鹵簿(ろぼ)),駐泊所は行在所(あんざいし

海江田信義(有村俊斎)(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎と称する。弟の死後その義理で日下部家を継ぎ,その旧姓海江田を名のった。通称は武次。早くから西郷隆盛らの運動に関係,1868年(明治

島津久光(世界大百科事典)
幕末の薩摩藩主忠義の実父。父は斉興(なりおき),母は側室お由羅。1858年(安政5)兄斉彬(なりあきら)の遺命で忠義が襲封すると後見となり,藩政の実権を握る。62年(文久2)大兵を率いて上京し,斉彬の遺志を継ぎ公武合体運動を展開。有馬新七ら尊攘派を鎮

島津斉彬(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末の薩摩藩主。斉興の子。世子時代から英明をうたわれ,戸塚静海,高野長英をはじめ当時一流の洋学者に洋書の翻訳や講説をさせ,また徳川斉昭,松平慶永や老中阿部正弘らと親交を結び,その政治的見識を高く買われた。お由羅騒動を経て,1851年(嘉永4)襲封し,

皇室祭祀(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
皇室の祭祀は背後に長い伝統をもつが,1908年皇室祭祀令が制定されるに及び定型化し,47年同令が廃止された後も,皇室の私事としてほぼ同令の規定に準拠して行われている。祭祀令は,皇室の祭祀を大祭と小祭に分け,大祭は天皇みずから祭典を行い,小祭は掌典長が