改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧
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徳川家光(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六〇四 - 五一 江戸幕府第三代将軍。一六二三―五一在職。二代将軍秀忠の次男。慶長九年(一六〇四)七月十七日生まれる。母は秀忠正室浅井氏(お江、崇源院)。兄長丸早世により、実質長男として祖父家康の幼名竹千代を与えられた
伊達政宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
斎藤道三(国史大辞典・世界大百科事典)
? - 一五五六 美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば
北条早雲(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四三二 - 一五一九戦国時代の武将。小田原北条氏の初代。早雲は庵号で、また北条を称したことはなく、一般に言い古されているこの呼称は、俗称というほかない。正しくは、伊勢を氏とし、新九郎を通称としている。入道してからは、「早雲庵宗瑞」あるいは「宗瑞」と
一休宗純(国史大辞典・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
一三九四 - 一四八一 室町時代前期の臨済宗大応派大徳寺派下の禅僧。はじめ法名を周建といい、のち宗純と改め、一時宗順とも称し、道号を一休といい、別に狂雲子と号した。後小松天皇の皇子、母は南朝の遺臣花山院某の女。応永元年(一三九四)京都の民家において出生
足利義政(国史大辞典・世界大百科事典)
一四三五 - 九〇 室町幕府第八代将軍。一四四九―七三在職。六代将軍義教の子で七代将軍義勝の同母弟。永享七年(一四三五)正月二日誕生。幼名三春。嘉吉三年(一四四三)七月義勝の死後、八歳で家督を嗣ぎ文安三年(一四四六)十二月十三日後花園天皇から
世阿弥(国史大辞典・世界大百科事典)
生没年不詳 室町時代前期の能役者・能(謡曲)作者・能楽伝書の著者。大和猿楽観世座(結崎座)の二代目大夫。幼名は鬼夜叉・藤若。通称三郎、実名は元清といい、秦氏を称した。法名は至翁・善芳。阿弥号は正式には世阿弥陀仏で、世阿・世阿弥はその略称
足利義満(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五八 - 一四〇八 室町幕府第三代将軍。一三六八―九四在職。二代義詮の子。母は石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。良子の母通玄寺開山智泉聖通は順徳皇子四辻宮善統親王の孫にあたる。良子は義詮に侍し義満とその弟満詮を生む。義満は延文三年
足利尊氏(国史大辞典・世界大百科事典)
一三〇五 - 五八 室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を
新田義貞(国史大辞典・世界大百科事典)
? - 一三三八 鎌倉・南北朝時代の武将。新田朝氏の嫡子。小太郎。左中将、右衛門佐、治部大輔を歴任。義貞は元弘三年(一三三三)河内に蜂起した楠木正成討伐の楠木合戦に御家人として参加したが途中で上野に帰国した。ところが幕府の軍費調達の有徳
楠木正成(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三六 南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく
北条時宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一二五一 - 八四 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して
北条時頼(国史大辞典・世界大百科事典)
一二二七 - 六三 鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着
北条泰時(国史大辞典・世界大百科事典)
一一八三 - 一二四二 鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)
北条政子(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五七 - 一二二五 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから
源義経(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五九 - 八九 鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)ら
源義朝(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一一二三 - 六〇 平安時代後期の武将。源為義の長子として保安四年(一一二三)に誕生、母は淡路守藤原忠清の女。生年は没年から逆算したものであり、出生地も不明である。『保元物語』には父為義の言として、「嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて
平清盛(国史大辞典・世界大百科事典)
一一一八 - 八一 平安時代末期の武将。平忠盛の嫡子。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の妹といわれる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜され、生まれたのが清盛という(『仏舎利相承系図』)。この生母は清盛生誕の翌々年病没したらしい
雪舟(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ) 室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京、相国寺に入り、春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい、画事を周文に習った
源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三九 - 一一〇六平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで
藤原頼通(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
藤原道長(国史大辞典・世界大百科事典)
九六六 - 一〇二七平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫
紫式部(世界大百科事典)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清