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改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ一覧

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尾崎行雄(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五八 - 一九五四 明治から昭和時代前期にかけての政党政治家。号は咢堂。安政五年(一八五八)十一月二十日、尾崎行正・貞子の長男として相模国津久井郡又野村(神奈川県津久井郡津久井町)に生まれる。地方官であった父の転任で度会県に居住
野口英世(国史大辞典・世界大百科事典)
一八七六 - 一九二八 明治から昭和時代にかけての医学者、細菌学者。幼名清作。明治九年(一八七六)十一月九日佐代助・シカの長男として福島県耶麻郡三ツ和村(猪苗代町)に生まれる。二十九年秋、東京に出て高山歯科医学院の学僕となり、翌年済生学舎に学ぶ
西園寺公望(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四九 - 一九四〇 明治から昭和時代前期にかけての政治家。最後の元老。嘉永二年(一八四九)十月二十三日公家の清華の家柄である右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として京都に生まれる。母は宇佐八幡宮神主正親盛澄の娘斐子。徳大寺実則の実弟
田中正造(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四一 - 一九一三 明治時代の政治家、社会運動家。天保十二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれる。父は名主役富蔵、母サキ、幼名兼三郎。少年期赤尾小四郎塾で学ぶ。安政四年(一八五七)十七歳で父の割元昇進に伴い
志賀潔(国史大辞典・世界大百科事典)
一八七〇 - 一九五七 明治から昭和期にかけての細菌学者。志賀赤痢菌の発見者。医学博士。貴洋史と号す。明治三年(一八七〇)十二月十八日仙台に生まれる。父は旧仙台藩士佐藤信。母の生家志賀家を嗣いだ。明治十九年東京に出、同二十九年帝国大学医科大学卒
北里柴三郎(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八五二 - 一九三一 明治・大正時代の細菌学者。嘉永五年(一八五二)十二月二十日肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。父は惟信、母は加藤海助の女貞子、柴三郎はその長男である。明治二年(一八六九)熊本藩の藩校時習館に入ったが
東郷平八郎(世界大百科事典)
明治・大正期の海軍軍人,元帥。薩摩藩士の家に生まれ,薩英戦争,戊辰戦争に参加,1871年(明治4)イギリスに留学,78年帰国して海軍中尉に任官,90年呉鎮守府参謀長,日清戦争時は浪速艦長,95年以降常備艦隊司令長官,舞鶴鎮守府司令長官となり,1903
小村寿太郎(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五五 - 一九一一 明治時代の外交官、外相。侯爵。安政二年(一八五五)九月十六日、日向国飫肥(宮崎県日南市)に生まれる。父は飫肥藩の徒士小村寛平、母は梅子。文久元年(一八六一)藩校振徳堂にはいり頭角をあらわして、小倉処平の注目する
陸奥宗光(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四四 - 九七 明治時代の政治家で第二次伊藤内閣の外務大臣。伯爵。父は和歌山藩士伊達藤二郎宗広、母は同じく和歌山藩士渥美源五郎の長女政子。その第六子として、弘化元年(一八四四)七月七日誕生。幼名牛麿。父宗広は家禄八百石、藩の重職を歴任したが
大隈重信(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三八 - 一九二二 明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路に、父信保、母三井子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家としてつかえ、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された
板垣退助(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三七 - 一九一九 幕末・明治時代の政治家。天保八年(一八三七)四月十七日高知城下中島町の邸に生まれた。父は高知藩士乾正成、母は林氏賢貞。家禄三百石、馬廻格。退助の幼名は猪之助。安政二年(一八五五)勤番を以てはじめて江戸に上り、翌年帰藩
福沢諭吉(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三四 - 一九〇一 明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福沢百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の、第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内
伊藤博文(世界大百科事典)
明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換を
岩倉具視(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二五 - 八三 幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって
木戸孝允(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三三 - 七七 明治維新の指導的政治家、萩藩士。通称は小五郎、のち貫治と改め、また準一郎と称す。新堀松輔とも変名。号は松菊・木圭・広寒・猫堂・老梅書屋・竿鈴(干令)。天保四年(一八三三)六月二十六日藩医和田昌景の次男として萩に生まれた
徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山
勝海舟(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
井伊直弼(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
水野忠邦(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五一 江戸時代後期の老中で、天保の改革の指導者。遠江国浜松藩主。通称は於菟五郎、松軒・菊園と号する。寛政六年(一七九四)六月二十三日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)
大塩平八郎(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一七九三 - 一八三七 江戸時代後期の大坂町奉行所与力。儒学者。諱は後素、字は子起、通称平八郎、号は連斎・中軒さらに中斎と改めた。大塩敬高を父とし、寛政五年(一七九三)正月二十二日天満四軒屋敷の与力邸に生まれた。先祖は駿河・遠江の守護
シーボルト(世界大百科事典)
江戸後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれる。大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に
伊能忠敬(国史大辞典・世界大百科事典)
一七四五 - 一八一八 江戸時代中期の地理学者、測量家。延享二年(一七四五)正月十一日、上総国武射郡小堤(おんづみ)村(千葉県山武郡横芝町小堤)の神保利左衛門貞恒の三子として、同山辺郡小関(こせき)村(同九十九里町小関)に生まれる
田沼意次(世界大百科事典)
江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増
杉田玄白(国史大辞典・世界大百科事典)
一七三三 - 一八一七江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。諱は翼、字を子鳳、号を斎といい、晩年に九幸翁の別号を用いた。その居を天真楼と称し、家塾名ともした。晩年建てた書斎を小詩仙堂と呼ぶ。玄白は通称。享保十八年(一七三三)九月十三日
大岡忠相(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
[1677―1751]江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり
徳川吉宗(改訂新版 世界大百科事典)
1684-1751(貞享1-宝暦1)江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行
新井白石(国史大辞典・世界大百科事典)
一六五七 - 一七二五江戸時代中期の儒学者、政治家。名は君美(きんみ)。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる
徳川綱吉(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六四六 - 一七〇九 江戸幕府第五代将軍。一六八〇―一七〇九在職。三代将軍家光の第四子。母は本庄氏(於玉、桂昌院)。正保三年(一六四六)正月八日、江戸城本丸に生まれる。幼名徳松。慶安元年(一六四八)三ノ丸に移る。同四年四月三日
益田時貞(天草四郎)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一六三八 島原の乱における一揆軍の首領。通常、天草四郎時貞といわれるが、一揆当時の史料には「四郎」「益田四郎」とあり、乱後の覚書などには「大矢野四郎」「江辺(部)四郎」の呼称がみえる。没年の年齢が十六歳というから
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