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第100回 地域区分のいろいろ(2)

2015年07月10日

先回は、三重県が中部地方か近畿地方か、という設問に対して、一般的には近畿地方に含まれるが、中部地方を「東海地方+北陸地方」と規定すると、中部地方に入ってしまう……ことを確認しました。一方で、近畿地方の規定を「五畿内=近畿」(五畿七道について、これまで当欄で何度か言及してきましたので、説明は割愛します)と考えると、今度は奈良・京都・大阪と兵庫の一部だけが近畿地方となって、三重県だけではなく、滋賀県や和歌山県も「近畿地方」の蚊帳の外になる問題が発生する、というところまで記しました。

日本において「近畿」という言葉が用いられたのは意外と新しく、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は明治2年(1869)刊の「布令必用新撰字引」(松田成己)にみえる「近畿 ミヤコノキンジョ」を早期の使用例としてあげています(もう少し早く流布していたようなのですが、そのことは後述します)。

三重県の所属問題を含めて「近畿地方」の地域区分については、思ったより関心が高いらしく、平成17年度の第2回大阪商業大学大学院公開講座では、イザベラ・バードの研究家として知られる人文地理学者、京都大学大学院の金坂清則教授(現在は名誉教授)が「近畿そして近畿地方」の演目で講演しています。その講演記録によりますと、地域区分としての「近畿」を定着させたきっかけは、明治31年(1898)に刊行された中学校(旧制)地理教育の教科書「中外地理学」(松島剛)において「近畿区」という名称が用いられたことだといいます。

この時の近畿区の範囲は、現在の近畿地方から三重県を除いた2府4県で、中部地方は北陸4県が「北陸区」、三重県を含む東海4県と甲信地域を併せて「山海区」と区分されていました。「山海区」とは東山道(岐阜・長野)の「山」と、東海道(三重・愛知・静岡・山梨)の「海」の合成と考えられます。ただし、東北地方が「奥羽区」、九州地方が「西海区」の名称で、現在の地域区分名称と異なっているほかは、「北海区」「関東区」「中国区」「四国区」となっていて、現在の地域区分に合致するものでした。また、「近畿」「北陸」「山海」の3区を除く各区の所属道府県も現在の所属府県と変化はありません。

その後の教科書においても、甲信越地方を「本州中部東」、ほかの中部地方を「本州中部西」に区分するなど、現在の近畿地方・中部地方の名称・区分についてはいろいろ変遷するのですが、明治36年(1903)の第1期国定地理教科書「小学地理」において「北海道」「奥羽地方」「関東地方」「本州中部地方」「近畿地方」「中国地方」「四国地方」「九州地方(沖縄を含む)」の8地方区分(ほかに「台湾」)が採用され、現在の8地域区分に踏襲されることになります。

甲信越地域(山梨県・長野県・新潟県)を「中部地方東」地区とする地域区分もかつてあった。

明治30年代の学校教育において、所属単位を六十余州の「国」とし、五畿七道に分ける従来の地域区分から、さまざまな試行錯誤を経て、現在に継承される都道府県を所属単位とする8地域区分が確定していった背景を、金坂教授は次のように推測します。

明治4年(1871)の廃藩置県時に3府306県であった府県が同年12月には3府72県、明治9年(1876)12月には3府35県にまでまとめられ、その後も分割・統合が続いたが、明治21年(1888)に愛媛県から香川県が分離・再置され、現在につながる47道府県体勢が確立し(東京都の成立は昭和18年)、道府県の単位が安定してきたこと(ただし、明治26年に三多摩地域が神奈川県から東京府に移管されるなど、府県域の異動は続いている)、日清戦争の結果、明治28年(1895)に台湾が日本の領土となったために、国の領土区分として、旧来の五畿七道の領域区分では(仮に修正を加えたとしても)、国土全体を捉えきれなくなったこと、加えて、京都から東京へ帝都・首都が移転したため、京都(あるいは畿内)を中心とする五畿七道区分に不都合が生じたことなどが、大きな要因だったのではないかと……。

地域区分の話をもう少し続けます。

(この稿続く)