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第121回 吹屋の条件

2016年08月05日

岡山県の中西部にある高梁たかはし市は、天守の現存する城として日本で最も高所にある「備中松山城」の所在地として広く知られています。その高梁市の中北部、新見にいみ市との境近くに成羽町なりわちょう 吹屋ふきや地区(旧川上郡成羽町吹屋)があります。

吹屋地区は 吉備きび高原の一画を占め、江戸時代には銅山とベンガラ(弁柄)の生産で栄えた町です。旧吹屋往来に沿った中心街の家並みは赤い石州瓦、ベンガラ色の土壁・格子といった特徴ある景観を今に伝え、1977年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の岡山県川上郡成羽町の【吹屋村】の項目は、次のように記します。

坂本さかもと村の東、急峻な坂道を登った標高約五〇〇メートル前後の高原上の村で、東は宇治うじ村(現高梁市)、北は哲多てつた郡境。吹屋往来、備後東城とうじよう(現広島県比婆郡東城町)に至る道が通る。中国地方最大規模の銅山吉岡よしおか鉱山がある。(中略)寛政六年(一七九四)の書上(大塚文書)によると「吉岡銅山吹屋村之儀、御高七拾石余之村方ニ而、百姓竈百軒余ニ及、男女多勢住居仕、御田畑者銅焼候而悪所多ク、中々農業斗ニ而渡世難相成、何れも銅山稼方相兼、先年より御百姓相続仕候儀ニ御座候」と記載され、農業生産性の低い村柄で、銅山稼とそれに付随する雑業および商業活動に依存する鉱山集落特有の様相を呈した。(中略)

江戸時代にベンガラの生産が盛行した経緯については、次のような記述がみえます。

坂本村の本山もとやま銅山で硫化鉄鉱が採掘されたのを契機に、宝暦年間(一七五一―六四)頃より当村および坂本村・中野なかの村で緑礬稼が本格化し、西江家(坂本村)・広兼家(中野村)と当村の片山家などで株仲間を結成して弁柄を量産した。吹屋弁柄は伊万里焼や九谷焼の赤色顔料等として重用され、銅山とともに二大基幹産業に成長した。吹屋往来沿道には弁柄窯元・同問屋・酒醤油醸造業者・米問屋・鉄問屋などが軒を並べ街村を形成。その経済力を背景に、町屋は入母屋造妻入を主体に、屋根は赤褐色の石州瓦葺、弁柄塗壁・格子や側面焼板腰張りの外壁など、豪壮な構えの建物群が山間に誕生した。(後略)

高梁市の成羽町吹屋地区は吉備高原の山中に集落が形成されている。

また、吹屋地内の「吉岡銅山」については次のように記します(項目名は【吉岡銅山跡】)。

吹屋ふきや銅(鉱)山と通称され、戦国時代から江戸時代初頭にかけて石塔せきとう銅山・関東せきとう銅山とよばれた時期もあったという(「備中吹屋」町並調査報告書)。文化元年(一八〇四)の銅山相続次第書上案(大塚文書)によると、大同二年(八〇七)の開坑と伝え、当初は黄金こがね山の背後、大深おおぶか谷で銀を採掘したという。「延喜式」主税寮に「凡鋳銭年料銅鉛者、備中国銅八百斤」と記される備中産の銅は当地産という説もあるが確証はない。前掲書上案では、銅採掘は南北朝時代末期に黄金山南麓で銅屋庄右衛門が開始したとある。以後永禄年間(一五五八―七〇)尼子氏の武将吉田六郎兼久が黄金山城に在城時、地元の大塚孫市・松浦五郎左衛門が中興、以降毛利氏・備中国奉行小堀氏・成羽藩山崎氏の支配を経て、幕府直轄下に入った。この間地元大塚家のほか、大坂・江戸の商業資本が請負稼行したが、いずれも短期間で交替した。(後略)

吉岡銅山には9世紀開坑の伝承があり、戦国期には尼子氏や毛利氏も経営に携わっていたようです。【吹屋村】の項目には地名由来の具体的な記述はありませんが、「御田畑者銅焼候而悪所多ク」などとみえますから、銅の精錬関連施設があったと考えても、そんなに外れてはいないと思います。ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【吹屋ふきや】について次の二つの語釈を載せます。

(1) 金属を精錬したり鋳造したりする工場。また、その職人。
(2) 大言をはく人。口から出まかせをいう人。

高梁市の「吹屋」はもちろん(1)ですが、「金属を精錬したり鋳造したりする工場。また、その職人」に由来する「吹屋」地名は大字・町名レベルでどのくらい存在するのでしょうか? ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「吹屋」と入力して見出し検索(部分一致)をかけてみました。 結果は11件がヒット。うち、高梁市の【吹屋村】項目と関連する【吹屋往来】を除いた9項目を北から順にあげますと、

山形県米沢市の【吹屋敷村】
福島県耶麻郡高郷村(現喜多方市)の【吹屋村】
群馬県北群馬郡子持村(現渋川市)の【吹屋村】と【吹屋古墳群】
石川県金沢市金沢城下の【吹屋町】と【浅野吹屋町】
和歌山県和歌山市和歌山城下の【吹屋町】
岡山県津山市津山城下の【吹屋町】
広島県高田郡高宮町(現安芸高田市)の【吹屋城跡】

となりました。金沢城下の【吹屋町】と【浅野吹屋町】、津山城下の【吹屋町】については、鋳物師に関連した町名との記述がみえます。和歌山城下の【吹屋町】は「和歌山市史」によれば、「同職集住」の町人町といいますから、これも鋳物師に関連した町名といえるでしょう。また、広島県高宮町の【吹屋城跡】は城郭の項目ですが、城跡のある川根地区(項目名は【川根村】)について「この地方は砂鉄の産地で鑪が盛んであったと伝え、その遺跡も残る」との記述がみえ、地内に鍛冶屋かじや西梶矢にしかじやなどの字地名もありますから、やはり、製鉄・鍛冶に関連する城名と推測されます。

群馬県子持村の【吹屋村】(【吹屋古墳群】は関連項目)も「日本歴史地名大系」では鋳物師に関連した地名と推測しています。同所は、関東管領上杉氏の有力被官長尾氏(白井長尾氏)が拠った白井城の城下の一端を担い、「中世、白井に城が置かれていた時代、当村域の町並は松原屋敷・吹屋屋敷とよばれ、(中略)白井城の北の遠構の役を果した」と記されます。江戸時代には鋳物師の活動が確認でき、鍋屋・釜屋といった屋号も残っています。

米沢市の「吹屋敷村」の読みは「ブキヤシキムラ」と濁りますが、ここの地名由来も「吹屋」の語釈(1)の可能性が高いと考えられます。同所は近世の米沢城下の西端部に接していて、城下から外れていますが、戦国期には伊達輝宗(伊達政宗の父)の隠居城とされる館山たてやま城の城下の一画を占めていたと考えられます。

館山城は最上川の上流部、鬼面おもの川と大樽おおたる川の合流点に位置する城館ですが、単に輝宗の隠居城ではなく、米沢盆地に進出した伊達氏の主城であったという説も、近年は有力視されるようになってきました。そうしますと、米沢市の「吹屋敷村」も、中世白井城の「吹屋屋敷」であった群馬県子持村の「吹屋村」と同様の地名由来を想定できるのではないでしょうか。館山城を挟んで吹屋敷地区の反対側、大樽川に沿った米沢市赤芝町あかしばまち地内にも「吹屋敷」(読みは同じく「ブキヤシキ」)の字が残ります。

館山城(この画面では見えない)の城下であった米沢市の吹屋敷地区。

ここまで、「吹屋」地名の立地をみてきましたが、近世の城下町や中世・戦国期の城下に多くみられることが判明したと思います。「信玄の隠し金山」などと巷間いわれるように、中世以降、在地の有力大名は領内の鉱山開発に力を注ぎ、城下にはその精錬(製鉄・鍛冶)施設を設けました。こうした手法は近世大名にも継承され、それが「吹屋」地名の立地に反映されたのだと筆者は考えます。

高梁市の「成羽町吹屋」は城下ではありませんが、「中国地方最大規模」を誇った吉岡銅山の付帯施設ですから、鉱石の運搬などを考慮して鉱山の近くに精錬所を置いたのではないでしょうか。吉岡銅山は尼子氏・毛利氏・備中国奉行小堀氏・成羽藩山崎氏の支配を経て幕府直轄となっており、いかに重要視されたかがうかがえます。

ところで、ヒットした「吹屋」地名で、これまで福島県高郷村(現喜多方市)の「吹屋村」には言及しませんでした。じつは、同所の近辺に鉱山や有力な中世城館跡はなく、もちろん近世の城下町でもありません。そうしますと、高郷村「吹屋」の地名由来は「吹屋」の語釈 (2) の「大言をはく人。口から出まかせをいう人」が多く住んでいたため、ということになるのでしょうか?

旧高郷村吹屋地区(現喜多方市高郷町上郷地区)の方々の名誉のためにいいますが、もちろん、そんなことはありません。そこで、高郷村の【吹屋村】項目にみえる次の記述に注目します。

南東部には天文年中(一五三二―五五)頃田代丹波が住したというはなノ館の館跡があったが、文化年中にはすでに畑地となっていた(以上「新編会津風土記」など)。

これまでの検証から推測すると、弱小の在地領主である田代丹波が開発した鉱山の関連施設が地内にあった可能性もあるでしょう。あるいは、田代丹波によって鋳物師・鍛冶屋が置かれていたのかもしれません。いずれにせよ、精錬や鋳造にかかわる何らかの施設が地内に存在していたことが、地名の由来になったのではないかと筆者は推測します。

(この稿終わり)