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第109回 時計回りの巡礼道(3)

2015年11月13日

先回まで、各地の観音霊場や六地蔵巡りなどの巡礼道について、その回り方を考察してきました。その結果、反時計回り(左回り)を許容する順拝もなくはないのですが、基本は時計回り(右回り)であることが確認できたと思います。

しかし、巡礼といえば何といっても「お遍路さん」。四国八十八ヵ所霊場の巡礼道でしょう。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」は、徳島・香川・愛媛・高知の四国各県で【遍路道】の項目を立てています。そのなかから、「徳島県の地名」の【遍路道】の冒頭部分を紹介します。

四国霊場八十八ヵ所を結ぶ道。第一番札所霊山りようぜん寺(現鳴門市)を起点として第八八番札所の大窪おおくぼ寺(現香川県長尾町)に至る全長一四〇〇キロに及ぶ道。

四国遍路は、古くは「今昔物語集」巻三一(通四国辺地僧、行不知所被打成馬語第十四)に「四国ノ辺地」を回る僧侶の逸話がみえ、その起源を平安時代末期とみることができる。中世の遍路は僧侶たちの厳しい修行の場であったが、中世の弘法大師信仰の展開や西国三十三ヵ所観音霊場の成立による影響を受けて札所と遍路道が確定されていく。江戸時代になり、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)には庶民も参加する札所巡拝が盛んになり、ほぼ現在の遍路道が確定した。なお経路確定のうえで影響を与えたのは、四国霊場を二〇回踏破し、貞享四年(一六八七)の案内記「四国遍礼道指南」を記した真念と考えられている。霊場の回り方には、札所の番号順に回る順打ちと逆に回る逆打ちとがある。遍路を開始する徳島県を「発心の道場」、高知県を「修行の道場」、愛媛県を「菩提の道場」、香川県を「涅槃の道場」とよんでいる。(以下、省略)

これによりますと、四国遍路は平安時代に萌芽がみられ、中世には僧侶の修行場だったのですが、西国三十三所観音の影響などもあって庶民の巡拝も徐々に増え、江戸時代中期頃には現在のように徳島(阿波)⇒高知(土佐)⇒愛媛(伊予)⇒香川(讃岐)と、四国を時計回り(右回り)に回る巡礼道が確定したようです。

遍路道確定に大きな影響があったのは「四国霊場を二〇回踏破し、貞享四年(一六八七)の案内記「四国遍礼道指南」を記した真念」だそうですが、一方で、第51番札所、愛媛県松山市石手いして寺(伊予の豪族、河野氏との関係が深い寺院)の縁起にみえる「衛門三郎」を創始者とする伝承も広く人口に膾炙しています。「愛媛県の地名」の【遍路道】の項目が、この伝承の一部を紹介しています。

一般に四国遍路の始まりは五一番札所石手いして寺の縁起に出てくる衛門三郎といわれている。伊予国浮穴うけな荏原えばらの郷に衛門三郎という強欲非道な長者があった。ある日きたない乞食僧が門前に立って食を乞うたが三郎はこれを追い返した。僧は懲りず、毎日のように門前に立ったので、激怒した三郎は手にした箒で僧の持つ鉢をしたたか打った。鉢は八つに割れて虚空に飛び散った。その夜から三郎の子が一人ずつ死んでいき、八日にして八児を失った。三郎は初めて乞食僧が弘法大師であったことを知り、自らの罪業に気づき、大師に一目会って謝罪したいと思い巡拝の旅に出た。八十八ヵ所を五回、一〇回と巡ったが会えず、二一回目に老いと病のため一二番焼山しようざん寺(阿波)で倒れた。そこに大師が現れ、修行によって罪業は消滅したと告げ、なにか来世に望みはないかと尋ねた。三郎は「来世は一国一城の主として生れたい」と答えたので、大師は小石を拾い「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長八年(八三一)のことという。のち道後湯築ゆづき城主河野息利の一子息方が生れたが左の手をかたく握って開かない。河野家では安養あんよう寺の僧を招いて祈祷をさせると初めて手を開き、衛門三郎と記した一寸八分の石が現れた。これにより石を宝殿に納め、安養寺を石手寺と改めたというのである。(以下、省略)

その縁起に「衛門三郎」が登場する第51番札所、松山市の石手寺。

ところで、遍路道の基本が右回りであることについて、普通は次のような解釈がなされています。それは、仏教では「右が清浄、左は不浄」とされてきたことに起因する、というもの。そのため、仏教において「相手に対して恭敬の意を示す着衣上の礼法」である【偏袒右肩】(「へんたんうけん」。「へんだんうけん」とも)は、「袈裟(けさ)の右肩をはずして、左肩だけを覆」います(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)。そして、仏(仏像)など「聖なるもの」の周囲を回るには、清浄な右肩を「聖なるもの」に向けて回るために右回り(時計回り)になるといわれ、この回り方を「右繞」(うにょう。「右遶」とも記します)とよびます。

現在はNTTデータ・ジェトロニクス(株)が発行している文化広報誌 『SPAZIO』の第63号・64号に掲載された高野義郎氏(横浜国立大学名誉教授/素粒子論)の論考「時計回りの文化、反時計回りの文化」は、世界各地の「回り方の文化」について、さまざまな検討を加えており、仏教における時計回りの起源についても言及しています。

この論考で高野氏は、ギリシア文化(時計回り)、ローマ文化(反時計回り)の聖地巡礼などの宗教儀式、聖なるものの配置の仕方などの比較検討を突破口に、幅広い知見を駆使して論を展開しています。そのなかで、仏教の時計回りの起源に関して言及している箇所から、筆者が勝手に「つまみ食い」した部分を以下に紹介します。

(前略)さて、インドにおける右遶の礼法は、農耕祭祀に由来するのではないだろうか。稲作農耕にたずさわる人々は、稲の神の在す田の周りを、太陽になぞらえて、時計回りに巡りながら、豊作を祈ったのではなかろうか。

農耕文化は太陽の文化である。太陽の恵みによって、春夏秋冬の四季は巡り、東南西北の四方は定まり、穀物は実る。農耕にたずさわる人々にとって、大地を巡る太陽の運動こそが、もっとも高貴なる、聖なる運動でなければなるまい。そして、時計回りは、この大地を巡る太陽の運動を象徴するものに外ならないのである。

ちなみに、時計の針の回る向きは、北半球における、日時計の針の影の回る向きに定められたのであった。

(中略)

さて、佛教が農耕社会に根差す宗教であるのに比べて、キリスト教は、遊牧社会に根差す宗教であると言ってもよかろう。キリスト教の聖職者は牧師と呼ばれ、聖書に記された「迷える仔羊」の譬えもよく知られている。農耕文化が太陽の文化であるのに対して、遊牧文化は星の文化である。羊飼いたちは、夜、星に導かれ、草や水を求めて進む。東方の三博士も、星の示すところによって、救世主の誕生を知ったのであった。

そして、夜の星々は、北極星の周りを、反時計回りに巡るのである。北極星は、指導者に、救世主になぞらえられる。すなわち、反時計回りは、北極星を巡る星々の運動を象徴するものであり、遊牧にたずさわる人々にとっては、もっとも高貴なる、聖なる運動に外ならないであろう。

(中略)

時計回りは、大地を巡る太陽の運動を象徴し、反時計回りは、北極星を巡る星々の運動を象徴する。佛教は、聖所を時計回りに巡り、キリスト教は、聖所を反時計回りに巡る。佛教は、農耕社会に根差し、キリスト教は、遊牧社会に根差す。農耕文化は、太陽の恵に支えられる、太陽の文化であり、遊牧文化は、星の示すところに従う、星の文化である。(後略)

時計回りの文化は太陽の運行、反時計回りの文化は星の運行に淵源するのではないか、との考え方で、筆者はなかなかの卓見ではないかと思います。ところで、四国遍路は、基本は時計回りなのですが、先に「札所の番号順に回る順打ちと逆に回る逆打ちとがある」と記したように「逆打ち」と称する反時計回りの順拝も見られます。衛門三郎が大師と巡り合うために「八十八ヵ所を五回、一〇回と巡ったが会えず、二一回目に」やっと巡り合えた、その「二一回目」は「逆打ち」だったといいます。

さらに、「逆打ち」の功徳は、普通の「時計回りの順拝」の功徳に数倍するともいわれます。これは、遍路道が時計回りを基本として整備されているために、反対回りの場合は労苦が多く、より高い困難を乗り越えなければ成就しない、との認識があるからだと思われます。ただし、逆打ちは、まず普通の「時計回りの順拝」を3回くらい行ってから挑戦するものとされ、また、閏年に行うのがよい、ともいわれています。

ここまで、繰り返し確認してきましたが、四国八十八ヵ所や各地の三十三所観音霊場など、仏教の聖地を回る巡礼道は、時計回り(右回り)が基本です。ただし、京の六地蔵巡りは「反時計回り」でも構わない、四国遍路は「逆打ち」の功徳が高い、といった融通無碍な日本的? 展開も間々みられます。そして、このような融通無碍(いい加減?)も悪くはない、と筆者は思うのですが、いかがでしょうか。

最後に「遍路」は俳句では春の季語。ただし、これまた融通無碍に「秋遍路」という秋の季語もあります。

道のべに阿波の遍路の墓あはれ(高浜虚子)

香煙のさすらふさまに秋遍路(阿波野青畝)

(この稿終わり)