日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第77回 3国の境にそびえる三国山・三国岳(3)

2014年08月15日

先回は「『三国』地名の一方の雄、上越国境の三国峠・三国山の周辺を探索します」という文言で終わりました。「一方の雄」と記したのは、東日本、とりわけ関東地方の人間にとって、もっとも身近に感じる「三国」地名は上述の三国峠・三国山ではないか、と思うからです。ちなみに西日本、とりわけ近畿圏にお住まいの人々にとって、もっとも馴染みの深い「三国」地名は、先回触れた福井県坂井市(旧三国町)の三国湊、あるいは大阪府堺市の「三国ヶ丘」(旧摂津国・河内国・和泉国の3国境に由来する地名)あたりでしょうか。

なぜ、関東地方の人間にとって三国峠・三国山が身近に感じるか? それは、三国峠を越える道が江戸時代には三国街道・三国通などとよばれ、江戸と佐渡を結ぶ3つの主要街道である「佐州三路」の一つに数えられていたからです。上野国高崎宿で中山道から分岐し、北進して渋川しぶかわ宿(現群馬県渋川市)・永井ながい宿(現群馬県利根郡みなかみ町)などを経て三国峠に至る三国街道は、現在の国道17号に相当します(17号は現在、峠の南西方を三国トンネルで通り抜けています)。

国道17号が通過する三国峠と三国山

佐州三路とは、佐渡金山の産出金銀を江戸へ運ぶための輸送路で、三国街道のほかに、おおむね千曲ちくま川沿いに進む北国ほっこく街道(現在の国道18号に相当)と、おおむね阿賀野あがの川沿いに進む会津街道(現在の国道49号に相当。陸奥白河で奥州道中に接続)がありました。ただし、産金輸送路として用いられたのは北国街道が多く、三国街道や会津街道は佐渡金山に水替人足として送られた江戸無宿者の目籠送りの道筋として利用されることが多かったようです。

この三国峠・三国山の「三国」とは、旧上野国(群馬県)、旧信濃国(長野県)、旧越後国(新潟県)の3国に由来します。現在、三国峠に鎮座する御阪みさか三社神社(三国三社大明神、三社宮、三国大権現、三阪神社などとも称される)も赤城明神(上野国一宮)、諏訪明神(信濃国一宮)、弥彦明神(越後国一宮)と3国それぞれの一宮を祀っています。三国峠越えの道(近世の三国街道)は古くから上越を結ぶ主要路として利用されていましたが、街道として整備されたのは、近世に入ってからといいます(ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」)。

ところで、実際に旧上野国・信濃国・越後国の3国境にそびえている山は、三国山の西南西約12キロメートルに位置する白砂しらすな山(標高2139.8メートル)で、この山は利根川支流の吾妻あがつま川に注ぐ白砂川(旧上野国)、信濃川支流の中津なかつ川に注ぐ渋沢(旧信濃国)、同じく信濃川支流の清津きよつ川(旧越後国)の各河川の源頭部にあたります。

現在、群馬・長野・新潟の3県境にそびえるのは白砂山である

ジャパンナレッジの「日本歴史地名大系」で、白砂山および三国峠の麓一帯に位置する村々の項目を読んでも、所属する国が変更されたとの記述は見当たりません。つまり、旧国の版図が変わったことによって上信越の国境自体が変化したという兆候はみられないのです。ただし、上信越国境一帯の山々は現在でもアプローチが長いことで知られるように、いずれの山も麓の集落からは遠く離れており、かつては限られた地元の人々以外に上信越3国の国境にそびえる山を特定できる者はいなかったと思われるのです。

ちなみに「江戸幕府が諸大名に命じて調進せしめた国ごとの地図」(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)である国絵図のうち、天保9年(1838)に完成した天保国絵図(「国立公文書館デジタルアーカイブ」で閲覧できます)では、その名称にひかれたためか、三国峠が上信越3国の国境とされています(峠付近に「三社宮」の記載もあります)。しかし、三国峠は実際には上越国境であって3国の国境ではありませんから、峠を3国の国境とした各国の国絵図はそれぞれ矛盾を抱えています。

具体的にいえば、上野国天保国絵図・信濃国天保国絵図では三国山の南西約5キロメートルに位置する稲包いなつつみ山(1598メートル)が上信国境に記されています(稲包山は実際には上越国境にそびえています)。同様に越後国天保国絵図では、『北越雪譜』で知られる秋山あきやま郷を流れる中津川が越後国内で収まり(現実には信濃国を経て上野国に源流部があります)、本来、越後国内に収まっているはずの清津川が越後国を貫流し、その上流部を信濃国に求めています。

さらに、明治時代中期に参謀本部陸軍部測量局(のちの陸地測量部)によって測量された輯製二十万分一図(ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の「明治復刻地図」のコーナーで閲覧できます)では、群馬・新潟・長野の3県境の山は「三峯山」とみえますが、位置関係でいえば、今の上ノ倉山(2107.9メートル)か忠次郎山(2084メートル)にあたります(両山ともに稲包山と白砂山の間にそびえています)。そして「三国峠」の記載はありますが、「三国山」は記されていません。

こうしたことから、上信越3国の国境付近を越える峠である「三国峠」の名称は早くに定着していたが、現在の三国山が「三国山」とよばれるようになったのは、比較的新しい時代のことなのではないか、との疑問が生じます。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の群馬県>利根郡>新治にいはり村(現みなかみ町)の「三国峠」の項目には次のような記載があります。

御阪三社神社は前述のように上野の赤城、信濃の諏訪、越後の弥彦を祀るもので、前掲縁起によると、その昔三坂峠をさること数里の白根しらね山に悪鬼が住み、「上野・信濃・越後この三の国に飛行」して悪業を繰返した。そこで坂上田村麻呂が討伐のため当地に来、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請したのに始まるという。最初の鎮座地は「万座山三街路」という所であったがのち「四万三坂」に、さらに当地に遷座したという。神主家は峠をやや下った三坂の地にいた田村家が代々勤め(前掲社領安堵願)、神職のかたわら茶屋を明治末まで営んでいたという。

現在、三国峠に祀られる御阪三社神社の鎮座地は、「万座山三街路」「四万三坂」「三国峠」の順に遷座したというのです。このうち、「万座山三街路」については、同じく「日本歴史地名大系」の群馬県>吾妻郡>嬬恋つまごい村>干俣ほしまた村の「万座山越道まんざやまごえみち」の項目に次のような記載があります。

広大な万座山一帯の峠越えで信州高井たかい郡地方と干俣ほしまた村・門貝かどがい村などを結ぶ道を万座山越道とよぶ。狭義には伐掛きつかけ橋・松尾まつお沢・矢筈やはずなどを経て万座温泉に達し、西方の鞍部万座峠(標高一八二七メートル)を越えて信州に至る道をいう。永禄五年(一五六二)羽尾入道が鎌原氏に帰路を絶たれて落延びた道(加沢記)である。

万座山・白根山など万座峠一帯の山並み

さらに続けて、

ほかに万座川沿いに進み毛無けなし峠(標高一八二三メートル)越で須坂すざか城下(現長野県須坂市)への道、干俣村から浦倉うらくら山北方鞍部峰山みねやま峠(標高一七八〇メートル)越で灰野はいの(現同上)へ出る道があり、「三峰紀聞」には「大笹街道よりは甚だ里程近く路難もすくなし」と記され、干俣と灰野を六里で結び三原みはら道とよばれる。これらの道は大戸おおど道(信州道)に連結するが、大笹おおざさ関所の要害地内にある停止道のため万座山抜道といえる。古くから上信の村々の山稼道で、また高井郡地方から米穀類など物産の移入路として流通経済に貢献していた。

これまでの経緯を勘案しますと、筆者の考えはこうなります。

現在の白砂山を中心とする一帯(東方は稲包山あたり、西方は白根山・万座山あたりまでを含む)は、古くから上野・信濃・越後3国の国境と考えられていた。上信越を結ぶ道は、はじめ、この3国の国境山岳地帯を通過する道(のちの万座山越道に相当)が重きをなしていたと思われ、御阪三社神社も「万座山三街路」に祀られていた。しかし、時代が下るにつれ、険阻な万座山越道に替わって、西方では大笹街道(現在の国道144号・406号に相当)や北国街道が、東方では三国街道などが整備されてゆく。
(もちろん、万座山越道や草津峠越の草津道などの利用も続いていたが)周辺諸街道の整備に伴う交通量の変化などもあって、御阪三社神社の鎮座地は三国峠に移った。これは三国峠のほうが、大笹街道が越える鳥居とりい峠より、比較の問題として万座峠(広い意味での上信越国境の山岳地帯)に近いためである。ただし、いきなり三国峠に移ったのではない。
三国峠を越える道は、当初は高崎宿から北に直進したのではなく、渋川宿から西に折れて吾妻川沿いを進み、中之条なかのじょう(現群馬県吾妻郡中之条町)で四万しま川沿いに北に進路を変え、四万温泉(現同上)に出て、同所で北東に向かい、赤沢あかざわ山(1454.7メートル)の鞍部を越えて法師ほうし温泉に下り、ここで、のちの三国街道の道筋に合流していた。あるいは、四万川を詰め、稲包山付近を越えて越後に入った可能性もあるだろう。
赤沢山越のルートは、渋川宿から四万温泉までは現在の国道353号に相当し、四万温泉から法師温泉までの道は現在の上信越自然歩道に相当する。このため、御阪三社神社も一時期「四万三坂」に鎮座していた。三国街道が整備されるにつれて、三国峠に御阪三社神社が祀られるようになると、三国峠にもっとも近い山が三国山と名付けられたのではないか?

四万温泉、赤沢山、法師温泉を結ぶ道筋は、現在上信越自然歩道に指定される

以上はもちろん筆者の推測で、当たるも八卦、当たらぬも八卦の域をでるものではありません。しかし、上信越国境に位置することがその名称の由来であることは確実といえる「三国山」が、なぜ旧3国の国境に位置していないのか、という疑問に筆者なりの理屈を述べてみた次第です。「三国」地名は少なくとも31道府県に分布しているのですから(この稿の連載第1回)、きっと読者の皆さんの身近にも存在していることでしょう。お近くの「三国」地名が、旧六十余州のどの3か国に由来しているのか、あるいは旧国とは関係のない珍しい三国地名なのか、一度お調べになってはいかがでしょうか。何か新しい発見があるかもしれません。

(この稿終わり)