日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第58回 信濃の国(1)

2011年10月28日

長野県は、かつての信濃国(信州)ほぼ一国にあたる地域を県域としています。昭和33年(1958)に当時の西筑摩にしちくま神坂みさか村の一部が県境を越えて岐阜県中津川市に編入され、平成の大合併でも、神坂村の残部を編入・合併していた木曾郡(昭和43年に西筑摩郡が改称)山口村が、一村丸ごと同じく中津川市に編入されたため、旧信濃国の一部は岐阜県となりましたが……。

長野県のように律令制の一国の版図はんとが、現在の県域とほぼ重なる県は、ほかにも幾つかあります。具体的にあげますと、栃木県(下野国)、群馬県(上野国)、富山県(越中国)、山梨県(甲斐国)、滋賀県(近江国)、奈良県(大和国)、徳島県(阿波国)、香川県(讃岐国)、愛媛県(伊予国)、高知県(土佐国)、熊本県(肥後国)、宮崎県(日向国)の12県、長野県とあわせると計13県となります。

ただし、埼玉県のようにほぼ旧武蔵国一国だけで構成されていても(東端部のごく一部は旧下総国)、旧武蔵国は現在の東京都や神奈川県にも含まれていますから、その数には入れません。これを「日本歴史地名大系」の立項基準にあてはめれば、該当する県に国名項目が1つしか立項されておらず、かつまた、その国名項目が他県では立項されていない県、ということができます。

和歌山県の県域は、ほぼ旧紀伊国一国に相当しますが、かつての紀伊国牟婁むろ郡の一部は三重県域に含まれており、「日本歴史地名大系」の『三重県の地名』でも、「紀伊国」の国名項目が立項されていますので、残念ながら該当しません。

こうした一県一国のケースでは、たとえば旧越前国と旧若狭国の2国からなる福井県で、越前と若狭(現在では嶺北と嶺南という区分)が何かにつけて角付き合わせるような、旧安芸国と旧備後国からなる広島県では、安芸と備後では風土も住んでいる人々の気質にも隔たりがあると巷間いわれるような、あるいは、旧加賀国と旧能登国からなる石川県では、「加賀人」「能登人」という言い回しがあるような地域間の対立・格差……は非常に少ないと思われがちです。

ところが、意外や意外、長野県のように旧国域と現在の県域がほぼ重なる一国一県の県でも、県内の地域差・対立が問題となる場合も多いようです。

たとえば、甲斐一国からなる山梨県では国中くになか地方(県西部の甲府盆地を中心とした地域)と郡内ぐんない地方(県東部、桂川流域山地を中心とした地域)という地域区分があり、国中地方の南部=峡南(富士川・早川の流域)を河内かわうち地方とよんで3地域に区分することもあります。そして、国中と郡内の2地域(あるいは河内を加えて3地域)は、すでに武田信玄の時代以前からお互いに対抗意識を燃やしていました。また伊予一国からなる愛媛県では東予・中予・南予という地域区分が今も厳然とあって、よきにつけ悪しきにつけ互いに競い合っています。大和一国からなる奈良県では、奈良盆地を中心とする北部と、吉野山地の山々が連なる南部では風土も違い、また経済力の差も顕著で、南北格差という言葉も生まれています。

じつは、長野県も旧信濃国一国で成立しているにもかかわらず、そうした地域間の風土差、対立がありました。一般に長野県内は北信(江戸時代の郡域でいうと、水内みのち郡・高井郡・更級さらしな郡・埴科はにしな郡。以下同じ)、東信(佐久郡・小県ちいさがた郡)、中信(安曇あずみ郡・筑摩郡)、南信(伊那郡・諏訪郡)の4地域に区分しますが、「日本歴史地名大系」の『長野県の地名』では、長野盆地(北信)、上田盆地(東信)、佐久高原(東信)、松本盆地(中信)、諏訪盆地(南信)、伊那盆地(南信)、木曾谷(中信)、飯山盆地とその周辺(北信)の8地域(【総論】の「各地域と地方色」の項より)に区分しています。さて、地域間でどのような風土の違い、対立があったのでしょうか……。

(この稿続く)

山梨県は西部の国中、東部の郡内、南部の河内の3地域に区分することも多い

Googleマップのページを開く