日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第90回 「小寒」から「燃水祭」へ

2015年02月20日

ジャパンナレッジにログインしてはじめに表示される「基本検索」の画面。現在、検索ボックスには、その時期の二十四節気を表わす言葉があらかじめ入力されています。

「詳細(個別)検索」を選択しても同様で、「日本歴史地名大系」を選択した場合は、3つある検索ボックスの最上段に、該当する時期の節気を表わす言葉(このコラムの更新時ならば「雨水」)が入力されています。

しかし、「日本歴史地名大系」の見出し項目(初期設定は「見出し・部分一致」)で二十四節気を表わす言葉を含むものは意外と少なく、わずかに「霜降そうこう」で滋賀県/高島たかしま郡/新旭しんあさひ町(現高島市)の【霜降しもふり村】と山口県/宇部市/末信すえのぶ村の【霜降城しもふりじょう 跡】の2件、「大雪たいせつ」で北海道/総論の【大雪山たいせつざん】、北海道/上川かみかわ支庁の【大雪山だいせつざん 国立公園こくりつこうえん】、北海道/上川支庁/上川町/上川村の【大雪たいせつダム】と【大雪高原たいせつこうげん 温泉おんせん】の4件、「小寒しようかん」で大分県/日田市の【小寒水村】の1件がヒットするのみ。ほかの大部分の期間は、ゼロヒットのちょっと寂しい初期画面が表示されることとなります。

ところで、「小寒」でヒットした日田市の【小寒水村】の読みは「おそうずむら」(「おそずむら」とも)。「そうず」(寒水)は一般に泉や清水の意で、「日本歴史地名大系」の項目に記述はありませんが、「小寒水村」は小さな湧水を核として発達した村落かもしれません。

「そうず」は「寒水」のほかに、「早水」「浅水」「沢水」「清水」「草水」「左右水」「僧都」などの表記があり、また「そうづ」の振り仮名(意味は同じく泉・清水)では、「相津」「宗津」「惣津」「僧津」などの表記もあります。

今度は「そうずむら」「そうづむら」と2つの検索語を入力して、いずれも「見出し・部分一致」の条件で、「または(OR)」検索をかけますと22件がヒット。地方別では九州・沖縄地方が13件で、過半を占めます。旱害の多かった西南日本で、泉・清水が貴重であったことが反映しているのでしょうか。

この22件のなかには「くそうずむら(草水村)」と「くそうづむら(草生津村)」という、あまり聞きなれない村名も計2件含まれています。じつは、「くそうず」は石油の古称で「くさみず」が変化した語といい、一般には臭水・草生水などの字が充てられます(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)。

ヒットした「草水村」(新潟県/北蒲原郡/安田町=現阿賀野市)、「草生津村」(新潟県/長岡市)の項目に石油に関連する記述はありません。しかし、両村が属する新潟県は日本で数少ない産油県の一つですから、村名由来に石油が関連していた可能性は否定できません。

そこで、今度は検索範囲を「全文」とし、「くそうず」「くそうづ」の2語を1段目と2段目の検索ボックスに入れて「または(OR)」の条件で検索をかけると、43件がヒットします。この43件を検証しますと、県別では29 件で新潟県がトップ、次いで秋田県が10 件、産油県が上位を占めています。また、3分の1近い項目で石油に関連した記述がみられます。そのなかの1件、新潟県三条市の【如法寺村にょほうじむら】の項目は次のように記します。

当村には「如法寺村の火井」として知られた天然ガス井戸があった。石油を臭水くそうずとよんだのに対し、天然ガスは風臭水かざくそうずとよばれた。天明六年(一七八六)当地を訪れた橘南谿は「東遊記」に次のように記している。

「此村に自然と地中じちゅうより火もえ出る家二軒あり。百姓庄右衛門といふ者の家に出る火もつとも大なり。三尺四方程の囲炉裏の西のすみに、ふるき挽臼ひきうすゑたり。其挽臼の穴に、箒の程の竹を壱尺余に切りてさし込有り。其竹の口へ常の火をともして触るればたちまち竹の中より火出て、右の竹の先にともる。
(中略)此火有るゆゑに、庄右衛門家はむかしより油火は不用、家内隅々までも昼のごとし。」

南谿の問いに対して庄右衛門は、正保二年(一六四五)同家でふいごを吹いた折、ふと地中より出て、以来絶えず、家の普請などの際も挽臼は動かさず大切にしていると語っている。藩主や幕府巡見使なども通行時に見物したことが記録にみえる。火井は近年まで煮炊きなどに利用されていた。

現在の新潟県三条市如法寺地区

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天然ガスのことを古くは「風臭水」といったのですね。ところで、「日本歴史地名大系」で引用されていた橘南谿の「東遊記」は、ジャパンナレッジの「東洋文庫」では「東西遊記」(248)の名称で搭載されています。南谿は如法寺村の風臭水の記述のあとに続けて、黒川くろかわ村(新潟県胎内たいない市。旧北蒲原きたかんばら郡黒川村)に近いたで村(「日本歴史地名大系」では北蒲原郡/黒川村/【館村たてむら】)について次のように記しています

「其所にちいさきいけ有りて、その いけあぶら くこと也。其油のわくいけ、此に五十ありという。入口いりぐちの所四つ五つを見る。池のおおきさ四畳敷よじようじき ばかり、或は五六畳七八畳敷斗りにて、あまりおおいなるは無し。其池の水中すいちゆうに油わき出でて、みずあぶら別々べつべつにきわちて見ゆ。水中にある時見れば其色そのいろ 飴色あめいろなり。日にえいじては五色ごしきにきらめけり。其上そのうえ小屋こやをかけ、あめらざるようにして、此あたりの里人さとびと おのおの此地をりようじて、毎日まいにち油を汲取くみとり、なおすこし水のまじりたるを、カグマという草をもつてしぼり取る時、油と水とたやすくわかるると也。よくいけは毎日油二斗ばかりずつをるという。
(中略)
此所より毎日まいにち数十こくの油出るゆえ、此くににてはおおく此油をもちう。まことに地中よりたからのわきずるというべし。されば、此へんの人は、他国たこくにて田地でんち 山林さんりんなどをちて家督かとくとするごとく、此池一つもてる人は、毎日まいにち五貫拾貫のぜにて、こと人手ひとでもあまた入らず、じつ永久えいきゆうのよき家督かとく也。此ゆえに池の売買うりかい甚だとうとし。今年も油よくいけ一つはらものに出でたりといいしまま、「いかほどのあたいにや」とたずねしに、金五百両なりしという。「扨、其カグマというくさはいかなるくさぞ」とうに、京都にてシダ、裏白草うらじろぐさなどいうもののたぐいこゆ。

南谿の「何でも見てやろう」の精神が伝わってきて、ついつい引き込まれてしまいます。それにしても、石油採掘権は昔から随分と高値で取引されていたようですね。「日本歴史地名大系」の【館村】の項目に「東遊記」からの引用はありませんが、「正安二年(一三〇〇)から汲上げていると伝えられる草生水油を産し、一年のうち六ヵ月は運上用、二ヵ月は願人分油坪小屋普請料、四ヵ月は百姓六分と決められていた」とあって、石油生産が住民の収入源となっていた様子がうかがえます。

また、「日本歴史地名大系」の北蒲原郡【黒川村】の項目には、「村名の由来については諸説あるが、古くから臭水(石油)の産地で、また奥山庄波月条絵図(中条町役場蔵)に当村域と推定される地に『久佐宇津条』とみえていることなどから、黒い水(石油)の流れる川によるともいわれる」と記されています。「久佐宇津条」とは「草水条くそうずじょう」のこと。「草水条」は、胎内たいない川扇状地とその下流の沖積平野を中心に成立した奥山庄おくやまのしょう内の地名で、胎内市の旧北蒲原郡黒川村一帯に比定されています。

こうしたことから、「日本書記」天智天皇7年(668)7月条に「又、越国こしのくに燃土もゆるつち燃水もゆるみづとをたてまつる」(ジャパンナレッジ「日本古典文学全集」)とみえる、燃水(臭水のこと)の産地は、江戸時代の館村や黒川村などを含む、旧北蒲原郡黒川村地区であったとする説が有力視されています(「燃土」とは現在でいえばアスファルト)。

胎内川の流域に展開した旧北蒲原郡黒川村

ところで、現在、胎内市の旧「館村」地区に黒川石油公園があります。同公園は明治時代中期から昭和50年代まで稼動していた「黒川油田」を史跡として整備した公園。園内の「シンクルトン記念館」は、明治6年、当地に竪穴掘りの石油採掘法を導入したイギリス人医師シンクルトンを記念して建立された展示・資料館で、彼が伝えた近代的掘削法が黒川油田の基礎となったといいます。

例年7月1日、黒川石油公園では園内のつぼ(自然湧出した「臭水」が溜まった窪地)から「カグマ」(「東遊記」にも記されるシダ類を束ねたもの)を使って採油するなど、天智天皇に「燃水」を献上した故事にちなんだ「黒川燃水祭」が行われます。さらに、採取された「燃水」は近江神宮(滋賀県大津市。祭神は天智天皇)に搬送され、同月7日(土・日になる場合は5日)に同神宮において「燃水」の献上儀式(燃水祭)が執り行われています。

「小寒」から始まった「ジャパンナレッジサーフィン」の旅は、大津市近江神宮の「燃水祭」にたどりついたところで終わりました。皆さんもぜひ「ナレッジサーファー」になって、「知識の大海原」へと漕ぎ出してみてはいかがでしょう。

(この稿終わり)