日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第94回 あづまはや(2)

2015年04月17日

先回はヤマトタケルが亡き弟橘媛(弟橘比売)を偲び「あづまはや」と歎いた地がたくさんある? というところで終わりました。その候補地となっている、静岡・神奈川県境の足柄あしがら峠、長野・群馬県境の碓氷うすい峠(現在の入山いりやま峠、碓氷峠の2説あり)と鳥居とりい峠の3箇所について検討してみましょう。といっても説話に登場する地名ですから、それぞれの候補地が古代にはどういう位置付けであったか、という点が重要になります。

まず、「古事記」の足柄峠(足柄坂)は、古代の官道である東海道の経路にあたり、「日本書紀」の碓氷峠(碓日嶺)は東山道の経路にあたるという大きな違いがあります。

ここにいう東海道・東山道は古代の官道であると同時に、また、律令制下における地域行政区分でもあります。以下、両道の所属国をあげますと(括弧内は現在の都道府県名)、まず東海道は、

伊賀・伊勢・志摩(三重県)、尾張・三河(愛知県)、遠江・駿河・伊豆(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、武蔵(神奈川県・東京都・埼玉県)、安房・上総(千葉県)、下総(千葉県・茨城県)、常陸(茨城県)

となります。次いで、東山道に所属する国々は

近江(滋賀県)、美濃・飛騨(岐阜県)、信濃(長野県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、武蔵(神奈川県・東京都・埼玉県)、陸奥(福島県・宮城県・岩手県・青森県)、出羽(山形県・秋田県)

となります。なお、武蔵国を東海道・東山道の両道であげたのは、当初、東山道に所属していた同国が、宝亀2年(771)に東海道に所属替えとなったからです。

ここで、ヤマトタケルの東征経路について、尾張を起点にたどってみますと、「古事記」では、

尾張・(三河)・(遠江)・駿河・相模・(上総)・常陸・(武蔵)・相模・甲斐・信濃・尾張

となり、「日本書紀」では、

尾張・(三河)・(遠江)・駿河・相模・上総・陸奥・常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張

となります(括弧内の国名は、記紀に具体的な地名・国名の記載はないものの、筆者が推測する通過経路)。

「古事記」の経路にあたる国々は、武蔵(筆者の推測。当初は東山道に属していたので、東山道でカウント)・信濃を除くと、すべて東海道に属する諸国です。一方、「日本書紀」の場合、「古事記」と重複する東海道諸国のほかに、東山道に属する陸奥・武蔵・上野・信濃・美濃の国々が登場します。

「古事記」におけるヤマトタケルの東征譚は、のちに東海道諸国となる地域勢力との角逐が肝であり、「日本書紀」のそれは、これに東山道諸国を加えたもの、といえるのではないでしょうか。

ここまで、足柄峠(足柄坂)は東海道、碓氷峠(碓日嶺)は東山道という相違について記してきましたが、一方で、両峠には共通点も多々みられます。

まず、畿内を起点にすると、東海道の足柄峠の手前の駅は駿河国横走よこはしり駅、峠を越えた次の駅は相模国坂本さかもと駅。同様に東山道では碓氷峠の手前の駅は信濃国長倉ながくら駅、峠を越えた次の駅は上野国坂本駅となります。これら4駅の駅馬(駅使が駅と駅の間を乗り継ぐ馬)の数を「延喜式」(兵部省)の「諸国駅伝馬条」でみますと、東海道の横走駅が20疋、坂本駅(相模)が22疋、東山道の長倉駅が15疋、坂本駅(上野)が15疋となっています。4駅の近隣の駅の駅馬数は東海道では10~12疋、東山道では10疋ですから、足柄・碓氷の両峠がいかに難所であり、かつまた要所であったことがうかがえます。

また、先回にも引用しましたが、昌泰2年(899)9月19日付太政官符(類聚三代格)によれば、僦馬しゅうばの党を称する坂東諸国の富豪の輩からなる群盗が鋒起した際、足柄坂および碓氷坂に関所が設けられています。さらに、「将門記」によれば、天慶2年(939)蜂起した平将門は、朝廷の追討軍が坂東へ攻め来ることになったら、足柄・碓氷の2関を固守しよう、といったとされます。

足柄・碓氷の両峠は東海道と東山道という所属に違いがあったものの、坂東(現在の関東地方)にとって非常に重要な地であった、といえるでしょう。こう考えますと、ヤマトタケルが「あづまはや」と歎いた地の候補として、足柄・碓氷の両者は甲乙つけがたいのではないでしょうか。

次に鳥居峠について検討します。鳥居峠は碓氷峠の北方、現在の群馬県吾妻あがつま嬬恋つまごい村と長野県上田市との境に位置し、かつては上野国吾妻郡と信濃国小県ちいさがた郡の境に位置した国境・郡境の峠でした。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【吾妻郡】(群馬県)の項目は、「日本書紀」の碓日嶺における日本武尊の説話に触れたあとに「郡の西側には日本武尊を祀る山(四阿山・吾嬬山など)が多く、郡名の起源とされる」と記し、ヤマトタケルとの関連に言及しています。

吾妻郡の郡名が、ヤマトタケルの伝説と結びついて「吾妻」の表記となった可能性はあると思います。しかし、だから、ヤマトタケルの歎きの地が鳥居峠である、というのは本末転倒ではないか、と筆者は考えます。

四阿山と湯ノ丸山の中間に位置する鳥居峠

鳥居峠越えの道について、古代の史料にみえないこと、さらにさかのぼって古墳分布などを考慮しても、このルートが早くから開けていたとは考えられませんから(何事も断定はできませんが)、筆者の推測は以下のようになります。

「吾妻郡」の表記はヤマトタケルと関連が深い。だから、四阿あずまや山・吾嬬かづま山などにヤマトタケル(日本武尊)を祀っている。「日本書紀」には「、碓日嶺うすひのみねに登りて、東南たつみのかたおせりて三たび歎きてのたまはく、『吾嬬あづまはや』とのたまふ。故りて山のひむがし諸国もろもろのくにを号けて、吾嬬国あづまのくにと曰ふ。」とあるのだから、「碓日嶺」は吾妻郡の西に所在する。そうなると、郡の西に位置する鳥居峠が碓日嶺である、というふうに展開したのではないでしょうか。

筆者の考え方では、ヤマトタケルの歎きの地の候補として、足柄峠・碓氷峠に比べると、鳥居峠は弱いのですが、吾妻郡では現在でも広く支持されているようです。高原キャベツの特産で知られる吾妻郡嬬恋村は明治22年(1889)に鎌原かんばら村・大前おおまえ村・大笹おおざさ村など11か村が合併して誕生した村ですが、「嬬恋」の村名は、日本武尊が弟橘媛を追慕した故事にちなんだものといいます。

(この稿続く)