日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第117回 「サクラ」の話

2016年04月01日

先々回、先回は「梅」をめぐっての話題でした。そこで、今回は「サクラ」を取り上げましょう。ただし、花の「桜」地名については、50回・51回(2011年4月・5月更新)の「花の名所は桜川」で少しばかり触れましたので、今回は花の「桜」以外の「サクラ」地名です。

「地名の語源」(角川小辞典13)によれば、花の「桜」を除いた「サクラ」地名は、狭間を表す「サク」に関連するといいます。ほかに接頭語の「サ」+谷を表す「クラ」とする池田末則氏(日本歴史地名大系「奈良県の地名」監修者)の説を紹介しています。「サク」+α、「サ」+「クラ」いずれにせよ「谷間の小平地」といった地形になると考えられます。

ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、まず、「さくら」と入力し、次の入力窓に「次を含まない(NOT)」の条件で「桜」と入力して検索をかけますと(いずれも見出し・部分一致)、87件がヒット。

87件のうちには、「朝倉」「浅倉」の「アサクラ」地名、「笹倉」「篠倉」の「ササクラ」地名も含まれており、これらを除くと、「サクラ」地名の表記は「佐倉」「佐久良」「作良」といったところであることが判明します。

はじめに「佐倉」の表記から。「佐倉」と聞いて、皆さんが一番先に思い浮かべるのは義民「佐倉惣五郎」で名高い千葉県の「佐倉市」ではないでしょうか。佐倉市の市名のもととなったのは近世=江戸時代の佐倉城下です。しかし、それより以前、中世の佐倉(本佐倉)は、江戸時代の佐倉城下より少しばかり東方、現在の印旛いんば酒々井しすい本佐倉もとさくら上本佐倉かみもとさくらから佐倉市大佐倉おおざくらにかけての一帯に広がっていました。

中世の佐倉は、15世紀半ば以前から史料に現われ、「作倉」などとも表記されます。15世紀後半には千葉氏本宗家の居城である佐倉城(本佐倉城)が築かれ、城下も形成されていました(以上、「日本歴史地名大系」)。一帯の地形は、印旛沼南岸の台地と、これを開析した樹枝状の谷が展開する、まさに「サクラ」地名に適った地形であるといえるでしょう。

妙見神社のすぐ北に中世の佐倉城(本佐倉城)跡がある。

さて、千葉県の「佐倉」関連以外では、以下の7箇所で【佐倉村】の項目(「日本歴史地名大系」の基本である村項目)が立項されています。ただし、福島県大沼おおぬま郡昭和村の「佐倉村」は「さぐら」と訓んでいますので、除外しました。

宮城県角田かくだ
茨城県稲敷いなしき江戸崎えどさき町(現稲敷市)
静岡県小笠おがさ浜岡はまおか町(現御前崎おまえざき市)
三重県四日市よっかいち
兵庫県篠山ささやま
奈良県宇陀うだ菟田野うたの町(現宇陀市)
広島県甲奴こうぬ上下じょうげ町(現府中市)

これら7箇所の「佐倉村」のうち、三重県四日市市の「佐倉村」は、現在地名では「桜町さくらちょう」「桜台さくらだい」「桜台さくらだい 本町ほんまち」などと「桜」の表記に変更されましたが、それ以外は「佐倉」の表記(大字・町名)を継承しています。また、阿武隈あぶくま川の沖積低地に展開する宮城県角田市の「佐倉村」を除く6箇所の「佐倉村」は、開析された台地の谷、または山間の谷筋に立地しており、「谷間の小平地」という「サクラ」地形に合致していました。

篠山市の「佐倉地区」は黒岡川の谷口集落的な立地を呈する。

続いて「佐久良」「作良」表記の検証にうつります。まずは「佐久良」から。「佐久良」と入力して検索(見出し・部分一致)すると、岐阜県加茂かも白川しらかわ町の【佐久良田さくらだ神社】、滋賀県蒲生がもう日野ひの町の【佐久良村】、奈良県宇陀郡菟田野町(現宇陀市)の【佐久良】の3件がヒットしました。

これらのうち、白川町の「佐久良田神社」は神社項目(旧社名は白山神社)、菟田野町の「佐久良」は、先述菟田野町の「佐倉村」に継承される中世地名ですので除外します。残された日野町の「佐久良村」は、佐久良川(琵琶湖へ注ぐ日野川の支流)の谷口集落ともいえる立地で、「谷間の小平地」の条件に合致しているといえます。しかし、明治期に入ると「佐久良村」を含む佐久良川の上・中流域諸村は合併して「桜谷さくらだに村」に編成されており(のち、東桜谷村・西桜谷村に分村)、花の「桜」由来の地名である可能性も少しだけ残しておきたいと思います。

最後に「作良」表記の検証です。同じく「作良」と入力して検索(見出し・部分一致)すると、尾張国愛智あいち郡(愛知郡)の【作良郷】、愛知県名古屋市港区の【作良新田】、同南区の【作良郷】の3件がヒット。尾張国愛智郡の「作良郷」は古代郷、名古屋市南区の「作良郷」は中世郷で、いずれも近世の愛知郡「桜村」に継承されたと考えられます。

この「桜村」は現在の名古屋市南区桜台さくらだい桜本町さくらほんまち元桜田町もとさくらだちょうを遺称地として、一帯に比定されます。天白てんぱく川西岸の平坦地に開けていますが、さらにその西方の台地(笠寺かさでら台地)にも展開しており、元来の「作良(桜)」は、この笠寺台地の開析谷に発達した可能性も十分に考えられます。

港区の「作良新田」は、古くは「熱田あつた 築地前ちくじまえ新開」と称しましたが、幕末に「作良新田」と改称しました。埋立新田なので「谷間の小平地」とは無関係ですが、南区の「桜村」と何らかの関連があるのではないでしょうか。

ここまでの検証結果をまとめますと、「桜」以外の表記が用いられた「サクラ」地名は、谷間に発達した集落や耕地を指すことが多いことがわかりました。しかし、その一方で「桜」「佐倉」「佐久良」「作良」の表記は互いに通じ合っており、「桜」と書いて「谷間」に関連していたり、「佐倉」と記して花の「桜」に関連していることも一概には否定できないと思われます。

ところで、古代・中世の「作良郷」が形成された名古屋市笠寺台地の周囲には、かつて海が入り込んでいたといいます。台地は島の様相を呈し、台地近辺で海は干潟となって「年魚市潟あゆちがた」とよばれていました。そして、この「年魚市(潟)」が現在の県名である「愛知」のもとになったともいいます。

羈旅の歌を得意とした万葉歌人高市たけちの 黒人くろひとには「作良(桜)郷」と「年魚市潟」を合わせて詠んだ歌が一首あります。

桜田さくらだへ たづ鳴き渡る 年魚市潟あゆちがた 潮干しおひにけらし 鶴鳴き渡る

(この稿終わり)