日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第48回 川口(かわぐち)が河口(かこう)だった頃(1)

2011年01月21日

川口という地名(「河口」の表記もあります)は、それこそ全国各地に分布しています。JK版「日本歴史地名大系」の個別検索で「川口」(見出し・部分一致)および「河口」(同)と入力してOR検索をかけると、132件がヒットします。

JK版「日本国語大辞典」で「かわぐち」(表記は【川口・河口】)を調べてみると、「川の流れが海や湖にそそぎこむ所。かこう。川尻。江口(こうこう)。」とありますから、「川口(河口)」は、まさに川の河口部を表す地名ということになります。

先ほど「川口」「河口」のOR検索で132件がヒットしたと記しましたが、地名と神社仏閣名や遺跡名・城郭名などとの重複を避けるために(完全に重複を排除することはできませんが)、「川口・河口」(部分一致)と「日本歴史地名大系」の基本項目である(江戸時代の)「町・村」(後方一致)をAND検索した結果を下表にまとめてみました。

「川口」「河口」と「村」「町」の組合せ
で「見出し検索」をかけた結果の一覧
入力語1(部分一致)入力語2(後方一致)AND・ORヒット件数
川 口AND52
川 口AND10
河 口AND6
河 口AND3

大雑把にいえば、「日本歴史地名大系」では全国で約70箇所の「川口(河口)地名」を項目として立てている勘定になります。そこで、この約70件の川口(河口)地名の立地状況をざっと調べてみました。

その結果、福山湾に注ぐ芦田あしだ川の河口部を占める安芸国深津ふかつ郡「川口村」(現広島県福山市)、霞ヶ浦に注ぐさくら川の河口部に形成された常陸国新治にいはり郡土浦城下の「川口町」(現茨城県土浦市)など、海浜や湖畔に位置する川口(河口)地名を確認できました。

しかし、奥羽山脈の山懐に抱かれた出羽国最上もがみ郡「川口村」(現山形県鮭川さけがわ村川口)の立地に「大きく蛇行しながら南流する鮭川と支流泉田いずみた川の合流点付近に位置する」とみえ、四国のほぼ中央部、土佐国長岡ながおか郡の「川口村」(現高知県大豊おおとよ町川口)については「吉野川にその支流立川たぢかわ川が合流する付近に位置する山村」と記されるように(いずれもJK版「日本歴史地名大系」の該当項目)、数のうえでは、内陸部にある川の合流点(多くは支流が本流に注ぐところ)に位置する川口(河口)地名のほうが、はるかに多いようです。

こと、地名に限っていえば、「かわぐち」の「川の流れが海や湖にそそぎこむ所」という文言は、「川の流れが海や湖、また支流がその本流にそそぎこむ所」というふうに修正しなければいけないかもしれません。

もちろん、川口(河口)地名は海や湖に川が注ぎ入る地にもありますから、a=海に川が注ぐ所、b=湖に川が注ぐ所、c=川の合流点の3パターンが、川口(河口)地名の王道といえるでしょうか。

ところで、現在、市町村の名称に川口(河口)地名が用いられているのは、埼玉県の川口市と山梨県南都留みなみつる郡の富士河口湖ふじかわぐちこ町の2箇所だけです。平成の大合併以前は、新潟県北魚沼きたうおぬま郡川口町もありました。しかし、新潟県の川口町は2010年(平成22)3月、長岡市に編入されてしまいました。

ここからは、長岡市に編入されてしまった川口町を含め、3箇所の自治体「川口(河口)地名」を検討してみましょう。はじめは山梨県の富士河口湖町です。町名の由来となったのは江戸時代の甲斐国都留郡川口村(史料では「河口村」の表記もみえます)。この「川口村」は、西にし川が河口湖に注ぐ河口部にありますので、bパターン、「湖畔の川口」にあたります。また、この地は10世紀に成立した『延喜式』の諸国駅伝馬条に載る甲斐国の「河口」駅に比定されており、もしこれが正しければ、古代にさかのぼる由緒ある地名ということにもなります。

次は新潟県の旧川口町。同町の町名由来となったのは江戸時代の越後国魚沼郡川口村。同村は、魚沼川が信濃川に合流する地を占めていましたから、cパターン、「合流点の川口」ということになります。では、埼玉県の川口市はどうでしょうか?

 

新潟県旧川口町の市街は信濃川(西方)と魚野川(東方)の合流点に発達した

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川口市の市名由来となったのは江戸時代の武蔵国足立郡川口町。江戸と日光を結ぶ街道、日光御成道にっこうおなりみちの宿場町(川口宿)で、荒川の南方対岸の岩淵いわぶち宿(現東京都北区)との間を川口渡が結んでいました。JK版「日本歴史地名大系」は川口町の立地について、「町の南側を東流する荒川と東端を南流するしば川が合流する扇の要に位置する」と記しています。その後の河川改修工事で、芝川の合流点は下流に移動しましたが、少なくとも江戸時代の川口町は、cパターン、「合流点の川口」に合致しています。

しかし、一般的に現在の埼玉県川口市に継承される「川口」という地名は、同所がかつて入間いるま川(現在でいえば荒川の流路)の河口部に位置していたことに由来する、という説が有力です。つまり、aパターン、「海辺の川口」ということになります。とすれば、現在は内陸部に位置する川口市の中心市街が河口部だったのはいつ頃であったか? ということが問題となってきます。

 

(この稿次回に続く)