日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第133回 偏在には訳がある?(1)

2017年08月04日

先回は、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の全文検索機能を活用して「はやま(葉山・羽山・麓山・端山)」神社の地域的な偏在について記しました。

同神社の東北地方南部(南東北地域)に偏った分布に対して、古代の特定の時点における「にぎえみし」(熟蝦夷・和蝦夷)の生活圏と重なり合う可能性があるのではないか? という筆者の推論(妄想)も記しました。しかし、この推論は、あくまでも法螺・与太話の類であることは、改めて強調しておきます。

ところで、ほかにも何か面白そうな「偏在」はないか……今回もジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の全文検索機能を活用した「偏在」探しの旅を続けようと思います。

まずはじめは、「日本三大修験道場」に関する探索です。「三大修験道場」について、ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【英彦山ひこさん】の項目に、

英彦山は奈良時代の医僧法の入峰以来,山伏の修験道場として栄え,最盛期には僧坊3800を数え,その信仰は九州一円に及び,大峰山,羽黒山と並んで日本の三大修験道場とされた。

という記述がありました。大峰山・羽黒山(出羽三山)・英彦山を日本の三大修験道場とよんでいたことがわかります。ちなみに、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【英彦山】(大分県の地名)の項目では、

彦山とも書く。かつての豊前・豊後・筑前三国にまたがる英彦山山地の主峰で、標高一一九九・六メートル。北部九州随一の高山であり、早くから霊山として信仰の対象となっていた。のち山域には洞窟などの修験の道場が営まれ、遅くとも平安時代には彦山権現社・霊仙れいせん寺(現添田町英彦山神宮)を中心とした一山組織として整備される。

と記されます。ところで、修験道とは「日本古来の山岳信仰が外来の密教,道教,儒教などの影響のもとに,平安時代末に至って一つの宗教体系を作りあげたもの」(ジャパンナレッジ「世界大百科事典」)で、これら修験者たちの山岳修行の道場となった霊山は「大峰山,富士山,木曾御嶽,白山,立山,出羽三山,石鎚山,彦山など」(同上)をはじめとして全国各地に分布していました。

三大修験道場の一つに数えられる英彦山。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「修験道場」をキーワードに全文検索をかけると81件がヒットします。地域分布をみると、

北海道・東北=11件
関東=14件
中部=17件
近畿=10件
中国=3件
四国=10件
九州・沖縄=16件

となっていて、全国に満遍なく分布していたことがわかります。

これら各地の修験道場となった霊山のなかでも、とくに勢力の強かった近畿の大峰山(熊野修験)、東北の羽黒山(出羽三山=羽黒修験)、九州の英彦山(彦山修験)が「三大修験道場」と認識されていて、古くは、それぞれの修験者の勢力範囲(霞場・旦那場・檀那場)に熊野修験は熊野権現、羽黒修験は羽黒権現、彦山修験は彦山権現を祀ることは、ごく普通のことでした。

その後、明治新政府によって修験道が廃止されると、名称をそれぞれ熊野神社(熊野社)、羽黒神社(羽黒社)、彦山神社(彦山社)などと改めて、信仰は維持されました。

前置きが長くなりましたが、「三大修験道場」の偏在探索に戻ります。まずは、熊野修験の偏在探索です。これまでの経緯から、キーワードは「熊野権現」「熊野神社」「熊野社」の3語とします。

この3語を「または(OR)」でつないで検索窓に入力し、全文検索にかけてみますと、3310件がヒットしました。県別でみるとゼロヒットの都道府県はなく、地域別分布では、

北海道・東北=632件
関東=715件
中部=745件
近畿=445件
中国=237件
四国=145件
九州・沖縄=391件

となりました。東日本にやや厚い傾向はみられますが、全国に満遍なく分布していて、「偏在」というより、熊野修験の活動が広く全国におよんでいたことが確認できました。

同様に、「彦山権現」「彦山神社」「彦山社」でみると、全国で52件がヒットしました。ただし、北海道・東北、関東、中部、近畿、四国の各地域はゼロヒット、中国(山口県)が1件で、九州が51件(ただし、沖縄県はゼロヒット)という内訳です。

九州偏在の結果がでましたが、福岡・大分県境にそびえる英彦山(彦山)を修行場とした彦山派修験の活動範囲に重なると考えられますから、当然の結果といえるでしょう。

最後は「羽黒権現」「羽黒神社」「羽黒社」の分布です。今度は全国で243件がヒットし、その地域分布は以下のとおりです。

北海道・東北=114件
関東=61件
中部=51件
近畿=1件
中国=1件
四国=0件
九州・沖縄=15件

山形県の出羽三山を修行道場とする羽黒派修験の活動範囲ですから、中部以東、とりわけ東北地方に厚い分布は納得がゆきます。近畿(1件)、中国(1件)、四国(ゼロヒット)が低いのはわかるのですが、これら3地域と比較して、出羽三山からは最も遠く、しかも、彦山修験のお膝元である九州(15件)に多いのが気になります。

そこで、九州の県別内訳をみると、9件の長崎県が突出していました(ほかは、佐賀県・宮崎県・鹿児島県が各2件)。さらに、長崎県でも旧肥前国松浦(古くは「まつら」、現在は「まつうら」)郡域(長崎県北松浦郡・南松浦郡・松浦市)に集中していることも判明します。加えて、佐賀県2件のうちの1件も旧肥前国松浦郡域(佐賀県東松浦郡)ですから、「羽黒」を祀る施設は、九州のうちでも旧肥前国松浦郡に「偏在」していたといえるでしょう。

長崎県五島列島の中通島(旧肥前国松浦郡)にある支自岐(しじき)羽黒神社。

肥前国松浦郡といえば、真っ先に思い浮かぶのは「松浦党」。なかには悲恋物語「佐用姫」伝説を思い浮かべる人もいるかもしれません。それはさておき、「松浦党」について、ジャパンナレッジ「世界大百科事典」は次のように記します。

肥前国松浦郡(かつての佐賀県東・西松浦郡,長崎県南・北松浦郡)に割拠した弱小武士集団。松浦地方には嵯峨源氏の末流と称する一族が平安時代以来土着しており,彼らは源姓で名前に一字名を名のっている。その経緯は明らかではないが,中央から肥前国司として下向した者や,在庁官人の子孫が土着したものと推定される。伝説では,松浦一族の始祖は1069年(延久1)ころ摂津国渡辺荘から宇野御厨(うののみくりや)検校として下向した源久とされているが確証はない。

これに続けて、松浦党=海賊という曲解を生んだ背景についても記しています。

これら嵯峨源氏の一族をはじめ,この地方の住人は宇野御厨の贄人として活動していたが,しだいに根本開発領主として勢力を拡大し,平安時代末期には武士化して郡内各地に割拠する者も多かった。さらに地理的に朝鮮,中国大陸に近接していたことから,船を利用して海外との貿易に従事する機会も多く,やがて武装的貿易従事者となり,この地方の住人は水軍さらには海賊常習者であるとのイメージが中央貴族をはじめ,一般の人々にも固定観念として定着することになり,松浦党の呼称が与えられることになった。

随筆「甲子夜話」(ジャパンナレッジ「東洋文庫」で読むことができます)の作者として名高い平戸藩主松浦静山(松浦清)も松浦党の末裔です。「確証はない」とはいえ、松浦党は源氏の一族とする考えが一般的です。しかし、一部では、松浦党の始祖を、前九年の役で兄である安倍貞任とともに源頼義と戦って敗れ、のち大宰府に配流となった安倍宗任とする伝承も語り継がれています。

ジャパンナレッジ搭載の「古事類苑」の【松浦党】も「太平記」や新井白石の「藩翰譜」などの記述を引いて、宗任始祖説を紹介しています。

安倍氏といえば、古代の奥羽地方に一大勢力を築いた豪族(俘囚の長)であり、当然のことながら、出羽三山・羽黒修験(その萌芽となる修験者集団)との関係もあったのではないか? と筆者は想像します。そこで、キーワード「羽黒」の旧肥前国松浦郡域での「偏在」と、松浦党における安倍宗任始祖伝承との間には、何らかの有機的な関連が存在するのではないか? という、新たな推論(妄想)が浮かんだ次第です。

もう少し「偏在」探しの旅にお付き合いください。

(この稿続く)