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第11回 「けわいざか」

2008年01月11日

「けわい」とは、『(1)音、匂いなどによって感じられる物事の様子。(2)漠然と全体の感覚によって感じられる物事の様子。雰囲気(ふんいき)。(3)人の言葉や態度、ものごしから感じられる品格。人柄。(4)実体がなくなったあとに残された雰囲気。なくなった人を思い出させるような名残。面影。』といい、その語源については、『(1)ケは気、ハヒは延の義〔和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。(2)ケハヒ(気色)の義。有るがごとくにして定かならざることを気というところから〔国語溯原=大矢透〕。(3)キアヒ(気合)の義〔名言通〕。(4)ケアヒ(気間)の義〔言元梯〕。』などの諸説がある。この「けわい」から派生して『けしょう。みづくろい。おつくり。』の意の「けわい」(仮粧・化粧の字をあてる)が生じた(以上、「日国オンライン」)。

仮粧坂・化粧坂(仮粧・化粧はいずれも「ケワイ」とよむ)は全国各地にある坂名である。気祝坂・毛祝坂・芸息坂などとも書き、ケハイザカ・ケショウザカなどともいう。地名の由来については、巫女が身づくろいをした場所、遊里が近くにあった、実検(首実検)の前に武将の首級に化粧を施したところなど、仮粧・化粧の「けわい」に通じる説のほか、「けわしい坂」がなまったものという説もある。ところで、化粧坂の多くに、ある特定の境域の境界部分を占め、かつ街道沿いにあるという共通性がみられる。

神奈川県鎌倉市(カマクラシ)の仮粧坂(ケワイザカ)は鎌倉七口の一つ。中世都市鎌倉(鎌倉中)の北西部に位置し、源氏山(ゲンジヤマ)の北麓、扇ヶ谷(オオギガヤツ)に刻まれた支谷の一つを通り抜ける。「鎌倉中」の北東部にあたる巨福呂坂(コブクロザカ)と並んで鎌倉への重要な出入口であった。元弘3年(1333)5月、新田義貞は仮粧坂など三方から攻めて鎌倉を陥れた。この坂の付近には、谷間の斜面の岸壁を掘って墓所とした「やぐら」(谷倉)と呼ばれる中世墓が集中する。
静岡県磐田市(イワタシ)の化粧坂(ケワイサカ)も、中世都市見付(ミツケ)の北西部に位置する。見付には平安末期に遠江国府、鎌倉期からは遠江国守護所が営まれ、国府(コウ)・府中(フチュウ)、見付府・見付府中ともよばれた(近世には東海道見付宿として発展)。この見付化粧坂の北西方に一の谷中世墳墓群(イチノタニチュウセイフンボグン)がある。2千余基の墓が確認された同墳墓群は、墓の種類や規模が多様で、かつ墓域も広大であり、これらの点で国内最大級の中世墓地といえる。化粧坂の地名は同墳墓群への埋葬観念とのかかわりで注目された。

鎌倉化粧坂

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見分森(ミワケモリ)は岩手県奥州市(オウシュウシ)のほぼ中央に位置する丘陵一帯をいう。標高は110メートル前後、東森・中森・西森の3つからなり、三分森とも記した。胆沢平野(イサワヘイヤ)にある唯一の丘陵で、古くから上胆沢・下胆沢の境界とされた。また、江戸時代、見分森の北東方にあたる水沢宿(ミズサワシュク)は奥州街道と仙北街道が分岐する交通の要衝である。岩手県の南西部に位置する胆沢・江刺(エサシ)地方には、古くから語り継がれ、奥浄瑠璃や里神楽で演じられた「高山掃部長者物語」という伝説が残り、これにかかわる由来譚を有する地名が数多く分布する。見分森の西麓に位置する化粧坂(ケショウザカ)も、そうした地名の一つである。掃部長者伝説には幾つかの種類があり、そのうちの一つは次のような話である。昔、胆沢地方にとても慈悲深い長者と、その妻で、大変邪な女がいた。やがて長者の妻は長者を殺して屋形に火を放ち、自らは蛇身と化して止々井(トドイ)の大沼の主となり、洪水を起こして村人を困らせた。村人は沼の主に年々娘を生贄として供え、災害を免れてきた。ある年、年番となった郡司兵衛義実は、娘玉依姫の身代わりに、肥前国松浦(マツラ。マツウラとも。現在の佐賀県)から買い求めてきた小夜姫(佐用姫とも)を生贄にたてた。生贄となった小夜姫が祭壇に坐って観音経を唱え、薬師如来を念じたところ、長者の妻は法力によって蛇身の業縛から解かれ、済度したという話である。小夜姫が祭壇に昇る前に身づくろいしたところが化粧坂といい、同所の薬師堂(潟岸薬師堂。化粧坂薬師堂ともいう)には小夜姫の肌守薬師観音とされる仏像や小夜姫が用いたという鏡が安置される。

化粧の目的の一つが異なる自分への変身とすれば、異域・異界との境にあたる地に化粧坂の地名が多く残ることも肯けようか。