日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第55回 海辺の中津、渓谷の中津川(1)

2011年09月02日

山国やまくに川の上流域を核心部とする国指定名勝・耶馬渓やばけいは、奇峰・急崖・石門や大きな岩柱が織り成す変化に富んだ渓谷美で広く知られています。「耶馬渓」の名称は江戸時代後期の儒学者・頼山陽が名付親で、それまで一帯は「山国の谷」などとよばれていました。そのあたりの事情について、JK版「日本歴史地名大系」(『大分県の地名』【耶馬渓】の項)は次のように記します。

……山国川流域の山地は古くは山国、その渓谷を山国の谷(山国渓)とよんでいたが、文政元年(一八一八)頼山陽がこの地を遊歴して「耶馬渓山天下無」と詠じてから山国谷は耶馬渓とよばれるようになった。これ以前、元禄七年(一六九四)には貝原益軒が当地を旅し、「山国より流出。其源彦山の東より来る大河なり。河にそいてのぼれば、山国の谷に至る。此谷ふかく村里多きよしと云。又立岩多く景甚よし、険路なりとかや」と記し(豊国紀行)、……

山国川は大分県の北西端に位置する中津市を貫流する河川です。九州の霊峰として名を馳せる英彦山ひこさんに発し、同山腹を南東方に流れ落ち、やがて北東方に大きく流れを転じて、裏耶馬渓うらやばけい深耶馬渓しんやばけい西耶馬渓にしやばけいなどの支谷を刻んできた数多の支流を集めます。さらに、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の題材となったことで、全国的に知られるようになったあお洞門どうもんを過ぎるあたりからは、流れの向きをやや北寄りにとり、その後、大分・福岡の県境(中津市と福岡県築上ちくじょう上毛こうげ町・吉富よしとみ町の境界)を成しつつ中津平野を流れ下って周防灘に注ぎます。

周防灘に注ぐ直前、河口近くで山国川は東方に一流を分けます。現在中津川とよんでいるこの派川は、かつて山国川の本流でした。天正15年(1587)豊臣秀吉から豊前国8郡のうちの6郡を与えられた黒田孝高(如水)は、この中津川を西の備えとして城(=中津城。「黒田家譜」などでは中津川城とみえます)を築きました。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、黒田氏は筑前名島なじま(今の福岡)に転じ、替わって細川忠興(三斎)が豊前一国と豊後国国東くにさき速水はやみの2郡、あわせて10郡を与えられて中津に入部します。現在の中津市街の原形となる中津城下は、黒田氏の時代に骨格がつくられ、細川氏の時代に整備が進められました。

JK版「日本歴史地名大系」などによりますと、かつては中津川(当時の本流筋)から東方に大家おおえ川が分かれ、現在の中津市街の南部を東流して周防灘に注いでいました。細川氏が中津城(中津川城)と城下の整備を進めた折に、金谷堤かなやづつみを築いて大家川を中津川から分断、大家川の旧流路は中津城の外堀として活用したといいます。

この築堤の影響でしょうか、寛文9年(1669)の大洪水後に、現在の山国川本流筋に相当する直線的な流路が誕生したといいます。ただし、新流路の水量はそれほどではなく、江戸時代には依然として現在の中津川が山国川の本流でした。しかし、近代を迎え明治22年(1889)の大洪水で本流と分流の流量が逆転し、現在のような姿になったとされています。

山国川の河口部。東側の分流が中津川。細川氏が塞いだ大家川の旧流路は、
市街地の南部、地図に見える「中津南高校」「合元寺」「ゆめタウン」を結ぶ線か

Googleマップのページを開く

ところで、確実な史料で「中津」の地名が確認できるのは、江戸時代以降のこと。それまでの史料には「中津川(中津河)」という地名(川名)しか見えず、山国川の川名も戦国期以前は中津川であったと考えられています。江戸時代になると、中津川(現在の山国川)は高瀬たかせ川(あるいは広津ひろつ川)とよぶことが多く、山国川の名称が定着したのは明治時代になってからでした。ちなみに「高瀬川」の名称は現中津市街から1.5キロほど上流に位置する中津市高瀬地区に、「広津川」のそれは、山国川を挟んで中津市街の対岸にあたる吉富町広津地区に由来します。

ここで、今まで述べてきたことを整理してみましょう。安土桃山時代、黒田孝高によって中津川(当時はそうよばれていたと考えられる)と大家川に挟まれた中洲に城が築かれます。当初、「中津川城」などとよばれていたこの城は、江戸時代になって細川氏が入部する頃には「中津城」とよばれ、その城下町を「中津」とよびました。しかし、その頃になると、かつて中津川とよんでいた川は、高瀬川とよぶのが一般的になりました。さらに、寛文年間に生まれた新流路の河道が徐々に広くなって、明治の洪水で本流・分流が逆転する頃には、現在用いられている山国川の名称が定着します。「山国」の名は古く上流域が山国谷とよばれていたことに由来します……。

なぜこのようにくどくどと同じことを繰り返し述べてきたか? といいますと、現存する史料からのみ推測すれば、現在の大分県中津市の市名に継承される江戸時代の中津城下の名は、中津川に由来すると考えるのが妥当と思われます。しかし、一方で、黒田孝高が城を築いた土地(中洲)が、早くから「中津」とよばれていたため「中津川」という河川名が生じたのではないか? との疑いも残されるからです。つまり「中津」が先か? 「中津川」が先か? という命題になります。

次回はこの命題解決のために、JK版「日本歴史地名大系」の個別検索機能を活用して「中津」地名、「中津川」地名の特色などを探ってみることにします。

 

(この稿続く)