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第54回 東京都の区名あれこれ(3)

2011年07月22日

先回は東京都23区のうちで、昭和7年(1932)の大東京35区体制の成立時に誕生し、現在も続いている11区(葛飾・江戸川・足立・荒川・豊島・板橋・中野・杉並・渋谷・目黒・世田谷の各区。来年、80周年を迎えます)の区名の傾向性について考察しました。その結果、11区の区名でもっとも多いパターンは、それまで区域の中核であった町の名称を受け継いだケース(板橋・中野・杉並・渋谷・目黒・世田谷の6区)であることがわかりました。今回は、これに次いで数が多い、旧郡名を区名に採用したケース(葛飾・足立・豊島の3区)について考察してみます。

はじめは足立区の考察です。足立区は昭和7年に、それまでの東京府南足立郡千住町・西新井町・梅島うめじま町・伊興いこう村・江北こうほく村・綾瀬村・淵江ふちえ村・東淵江村・舎人とねり村・花畑はなはた村の3町7村が合併して誕生しました。この3町7村は旧南足立郡の全域にあたりますから、「足立区」は相応しい区名の付け方といえるでしょう。

ただし、南足立郡の母体となった旧武蔵国足立郡は、現在の埼玉県南東部、鴻巣市・北本市・桶川市・上尾市・さいたま市・川口市・戸田市・蕨市・鳩ヶ谷市・草加市・伊奈町および東京都足立区にまたがる広大な境域を有していました。この古代から続く足立郡が、近代に入って埼玉県に属する北足立郡と、東京府に属する南足立郡とに分割されたのです。ですから、現在の足立区は、ほんとうは「南足立区」という区名がベストであったかもしれません。

ちなみに、平成13年(2001)に埼玉県大宮・浦和・与野の3市が合併した際、埼玉県の中心ということで「さいたま市」と命名されました。しかし、歴史的な由緒からいえば、「北足立市」もしくは「足立市」が相応しい市名であると考えられます。武蔵国一宮である氷川神社が鎮座する現大宮区一帯は、古くから足立郡の中心として発展してきましたから、足立市(あるいは北足立市)を名乗る資格は充分に備わっている、といえます。

なお、埼玉県の県名は旧武蔵国埼玉郡を淵源としていますから、全域が足立郡であった「さいたま市」は、ある意味で「詐称」といえます。もっとも、さいたま市は、のちに旧埼玉郡に属していた岩槻市を合併して岩槻区としましたから、詐称の罪一等は減じられたといえるでしょうか。

次は葛飾区の考察です。葛飾区も足立区と同じく昭和7年にそれまでの東京府南葛飾郡新宿にいじゅく町・本田ほんでん町・金町・奥戸おくど町・南綾瀬町・水元みずもと村・亀青かめあお村の5町2村が合併して誕生しました。ただし、南葛飾郡の母体となった下総国葛飾郡の変遷は、足立郡以上に複雑です。古代の葛飾郡は下総国の西端部、旧利根川の流域に展開していました。利根川河道の変遷に伴い、近世に入ると、現在の江戸川以西の葛飾郡は武蔵国に編入されたため、葛飾郡は武蔵・下総の両国に分属することになります。さらに近代になると、茨城県・千葉県・埼玉県・東京府の4府県に分属して、西葛飾(茨城県)、北葛飾・中葛飾(埼玉県)、東葛飾(千葉県)、南葛飾(東京府)の5郡に分割されたのです。

大東京35区成立時に、南葛飾郡は向島区(現墨田区)・城東区(現江東区)・江戸川区および葛飾区に分属しました。現在の葛飾区となった5町2村の境域は、足立区の場合と違って旧東京府南葛飾郡の全域ではありませんし、旧南葛飾郡域でもっとも繁華な地域であったわけでもありません。さらに、南葛飾郡役所は西小松川村(現江戸川区)に置かれていました。

そうしますと、足立区では「南足立区」がベストと述べましたが、葛飾区の場合は「南葛飾区」がベストとはいえないようです。じつは、古代末期になると、のちに東京都南葛飾郡となった地域に葛西御厨かさいのみくりやが成立し、一帯は「葛西」と通称されました。そして、この葛西御厨の領主葛西氏の拠点となった西光寺や葛西城は、現在の葛飾区域に所在していました。こう考えますと、葛飾区の場合は「葛西区」がベストの区名で、「南葛飾区」がセカンドチョイス、「葛飾区」の区名は3番目といえるでしょうか。

最後は豊島区の考察です。豊島区は昭和7年に東京府北豊島郡巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町の4町が合併して誕生しました。ただし、足立区や葛飾区と違って、北豊島郡の母体となった旧武蔵国豊島郡は、全域が東京府に含まれていました。ここで旧武蔵国豊島郡の変遷をのぞいてみましょう。

古代の豊島郡の境域は、現在の区名でいえば、文京・台東・渋谷・豊島・板橋・北・荒川の各区のほぼ全域と、千代田区・港区・新宿区・練馬区の各一部にあたったと考えられます。郡の中心となる郡衙の所在地については、現在の北区西ケ原2丁目から上中里1丁目にかけて展開する御殿前ごてんまえ遺跡(平塚神社一帯)が有力視されています。また、7世紀建立と伝える浅草寺がある浅草(現台東区)一帯も重要な地でした。

中世になると、豊島郡の有力豪族豊島氏の一族が居城とした板橋城(現板橋区に推定)・練馬城・石神井城(現練馬区)などが所在する石神井川の流域が、豊島郡の重要な地となります。徳川家康が関東に入部すると、江戸城(現千代田区)、およびその城下(御府内)は豊島郡の南部(および荏原郡北端部)に形成されました。現在でいえば、千代田区・港区・文京区・台東区・新宿区などが御府内に取り込まれます。五街道の整備が進むと、郡北部の板橋には江戸四宿のひとつ板橋宿が、同じく西部には内藤新宿が設置されます。近代に入り、明治11年に豊島郡が南・北の2郡に分割されると、北豊島郡の郡役所は下板橋宿(現板橋区)に、南豊島郡の郡役所は内藤新宿(現新宿区)に置かれました(明治29年、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となりました)。

こうしてみますと、現在の豊島区域は、豊島郡が成立して以降、郡の中核となるような地域になったことは一度もなかったといえます。歴史的にみれば、古代には豊島郡衙が所在していたと推定され、豊島氏の居館跡とみられる清光寺もあり、豊島郡(または豊島庄)に由来する豊島(1丁目‐8丁目)という町名も残る現在の北区が、「豊島区」を名乗るのにもっとも相応しい地域といえるでしょうか。次いで、北豊島郡役所が置かれていた板橋区なども候補となります。

このあたりの事情について「豊島区史」は、「豊島区の成立」の章で『区名の豊島は、北豊島郡がなくなるので、その名を残すためにとられたものであった。しかし、豊島区地域が本来郡の中心地であったわけではなく、それは板橋であったが、郡内でもっとも発展した地域にその名を付けたのである』と記しています。「郡内でもっとも発展した地域」という記述は、旧御府内に接して都市化の波がいち早く押し寄せていた事情を現わしています。

今回は区名に旧郡名を採用したケースを考察してきました。そして、足立・葛飾・豊島の3区ともに、必ずしも郡内の中心地であったわけではないことが判明しました。じつは、この傾向性は東京都の区名に限ったことではなく、全国的にも同様の傾向がみられます。これは、郡の中核的地域(近代以降に「市」となるような地域)は、郡名とは違う個別の地名が付けられており、その個別の地名が市名に引き継がれる場合が多いためです。たとえば山形県村山市や東京都多摩市はそれぞれ旧出羽国村山郡、旧武蔵国多摩郡の郡名を冠していますが、村山郡の中核部は山形市、多摩郡の中核部は八王子市と個別地域名称を市名として市制を施行しており、村山市・多摩市が郡の中心地域であったとはいえないのです。

埼玉県秩父市(旧武蔵国秩父郡)、福岡県八女市(旧筑前国八女郡)、大分県大分市(旧豊後国大分郡)などは、古くから郡の中枢であり、かつ市名に旧郡の名称を採用した珍しいケースといえます。ただし、大分市の場合は、明治8年に7ヵ町が合併して大分市の前身となる「大分町」を称します。同様に秩父市の場合も大正5年(1916)に、それまでの大宮町が秩父町と改称し、昭和25年、そのまま市制に移行しています。

ほかにも千葉県千葉市(旧下総国千葉郡)、宮崎県宮崎市(旧日向国宮崎郡)、秋田県秋田市(旧出羽国秋田郡)などがありますが、前2者(千葉・宮崎)の場合は、郡名を市名に採用したというより、それ以前に「千葉町」「宮崎町」という郡名を冠した都市が誕生していましたし、秋田の場合は江戸時代の久保田城下を明治4年に秋田城下の名称に変更したのですが、この「秋田」は秋田郡の郡名というより、古代の「秋田城」にあやかったとも考えられます。

なお、最後に付け加えるならば、昭和22年に品川区と荏原区が合併した折に、「荏原区」を区名に採用していたとしたら、古くから武蔵国府の外港として栄えた品川湊や近世の東海道品川宿が置かれた郡の中心地域を含み、かつ旧郡名を継承する由緒ある区名として、今頃は区民の誇りとなっていたかもしれません。

 

(この稿終わり)

 

平塚神社を含む周辺一帯が、古代武蔵国豊島郡の郡衙であったと推定されている

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