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第104回 加古川の戦(1)

2015年09月04日

加古川の戦? 聞いたことがないなあ、という方がほとんどでしょう。源平合戦における富士川の戦、建武3年(1336)に足利尊氏軍が楠正成・新田義貞の軍勢を破った湊川の戦、戦国時代に織田・徳川の連合軍が浅井・朝倉連合軍を撃破した姉川の戦などはとてもよく知られています。しかし、かつて加古川で大きな合戦が行われたという記録は残されていません(嘉吉の乱の際、幕府軍と戦った赤松則繁が「賀古川」で溺死していますが……)。では、なぜ「加古川の戦」なのか?

皆さんは「河川争奪」という言葉をご存知ですか? ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」の【川】の項目(>川のつくる地形>(6)川の争奪)には次のように記されています。

川はつねに流域内の山地を侵食して山地を解体する方向を目ざすが、その解体速度は流域によって異なる。隣り合った流域で川の侵食力に差があると、一方の川の流域で山地の解体が早く進み、遅いほうの流域に食い込んで分水界が移動する。一方の川が他方の川との間の分水界を食い破って、谷頭が隣の川の河床とつながると川の争奪(河川争奪)がおこり、争奪された地点(争奪の肱(ひじ)という)から下流は無能川(misfit river,underfit river)となる(図D)。無能川とは河川争奪によって上流部を奪われたために水量が減って侵食力が衰え、広い谷の中を水流が細々と流れるようになった川で、不適合河川ともいう。

「無能川(谷)」とか「不適合河川(谷)」とか、あまり穏やかな用語でありませんね。地理学用語では「上流部を奪」うことを斬首(behead)ともいうそうですから(奪われたほうが、首を切り取られる)、これまた物騒です。確かに、(上流部を奪われると)流量は減少し、(その流量に適さない)広い河谷だけが残るわけですから、「無能川(谷)」とか「不適合河川(谷)」などとよばれることは、甘んじて受け入れるほかないのでしょう。

福井大学地域環境研究教育センター研究紀要「日本海地域の自然と環境」No.6(1999年)には、「地形図に現われる福井の地域環境」というフォーラムで発表された福井県下の「河川流路の変遷と河川争奪」についての論考(服部勇・田中和子)が収録されています。そして、その発表は次のような文言で締めくくられています。

このフォーラムで紹介した河川争奪はほんの少数例であり,スケールを問わなければ,県内はもとより,日本国中どこにでも存在する。また,前回のフォーラムで紹介した足羽川の河川改修による流路変更も,人為的であれ,河川争奪とみることができる。すなわち,人為的水路が足羽川を奪い,無能河川が狐川きつねがわである。この足羽川の例にみられるように,近年の土木技術の進展により,各所で,人為的に河川争奪が起こされている。

河川争奪により河川網が変化し,地形も変化する。また,断層運動により地形が変化し,河川争奪が発生する。今回紹介したように, 地形図を見る(読む)だけで, 地域の過去の地形や将来の地形が想像できる。地形図は実に多くの情報を提供してくれていることが実感できる。ただし,自然界で起きている河川争奪に関する時間スケールは万年単位であり,過去とか将来といっても,我々の目の前で河川争奪が発生するということはない。

このフォーラムで紹介した河川争奪は自然界の現象であるが,類似の現象は人間界の,特に交通網でも起きている。例えば,たいへん交通量の多い道路に,横から新しい道路が接合すると,交通が新しい道路へ流れて,旧来の道路は閑散としてくることは珍しくない。鉄道交通網でも同じことが起こりうる。これらも現象的には河川争奪と同じである。

「河川争奪」は全国いたるところで見られる(起こった)現象であること、基本的には自然現象ではあるが、技術の進歩により、人工的にも起こりうること、川の流ればかりではなく、ヒト・モノの流れでも類似の現象が生じること、などがわかります。

東京都でいえば、石神井しゃくじい川と藍染あいそめ川の河川争奪はよく知られています。藍染川(上流部では谷戸やと川、さかい川、谷田やた川などともよばれました)は大正12年(1923)の関東大震災後に暗渠化された河川。かつては本郷台地と上野台地の間(根津谷)を流れ下り、不忍しのばず池に注ぎ込んでいましたが、じつは、この流路は石神井川の本流だった可能性が高いのです。

現在の石神井川は北区役所から王子駅・飛鳥山公園付近で山の手台地の東端部(飛鳥山から南へ諏訪台・上野台地と続く)を横断(一部は暗渠)、東京低地に出て北東に流れ、隅田川に注いでいます。しかし、かつて東流してきた石神井川は山手台地にぶつかると南東方向へ流路を変更し、不忍池を目指しました。

山手台地の東端部を侵食したのは縄文海進(有楽町海進)期の海食で、約6000年前のことといいます。確かに不忍通(藍染川の旧流路の西側を並行する道路)沿いの平地は、想像する藍染川の水量(暗渠となってわからないのですから、あくまでも推測です)に比べて谷幅が広いような気もします。

飛鳥山を侵食・横断、隅田川に注ぐ石神井川下流部(高速道路の下になっているところは見にくい)

先に、「近年の土木技術の進展により,各所で,人為的に河川争奪が起こされている」というフォーラムでの発表をあげましたが、足立区・葛飾区・江東区・江戸川区を流下する中川(旧中川)は、寛永年間(1624-1644)の利根川東遷以前は、利根川の本流筋であったわけですから、東遷(人為的な河川争奪)によって、その首(上流域)を斬られたことになります。自然・人為を含めての話ですが、「河川争奪」は意外に身近な存在であることがわかります。

「加古川の戦」に戻りましょう。じつは、兵庫県随一の河川である加古川の流域には河川争奪の結果と思われる地形が数多く存在します。では、加古川はどのような河川と争奪合戦を繰り広げてきたのでしょうか。それは、また次回に。

(この稿続く)