日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第76回 3国の境にそびえる三国山・三国岳(2)

2014年08月01日

三国山・三国岳、それに三国峠なども加えて「三国」地名の考察の続きです。先回、北海道の三国山・東三国山について、「元来は(3国境の)三国山が2つあり、そのうち東方に位置する山を『東三国山』として識別したのか、はじめ、三国山があり、その東方にあることから(3国境ではないのに)『東三国山』と名付けたのか、明確な答えは出しにくいといえるでしょう」と記しました。

しかし、今一度考え直してみますと、約30キロメートル離れている三国山と東三国山は別々の山塊に属していますから、長野県上田市の市街背後にそびえる太郎山と東太郎山のように、同一山塊に属する2つの峰を呼び分けた関係ではないようです。また、同じ長野県の伊那谷で、東方の甲斐駒ケ岳を「東駒」、西方の木曽駒ケ岳を「西駒」と呼び分けるように、一つの谷、あるいは一つの平地を隔てて両峰が屹立している関係でもありません。そうしますと、北海道の東三国山は3国(北見国・十勝国・釧路国)の国境に由来する「三国山」である可能性がきわめて高いといえる、と訂正したいと思います。

めげずに「三国」地名の考察を続けます。大分県大野市と佐伯さいき市の境界に「三国峠」があります。江戸時代には豊後国と日向国を結ぶ主要道「日向道」の一路として利用されていた峠です。しかし、豊後国と日向国の国境に位置しているわけではなく、ましてや3か国の国境ではありません。現在でこそ大野市と佐伯市の境界に位置していますが、峠の南方にあたる佐伯市南西部(旧宇目うめ町域)は、昭和25年(1950)にそれまでの大野郡から南海部みなみあまべ郡に編入された地域です。大野市は旧大野郡域ですから、江戸時代でいえば、峠は豊後国大野郡の真っ只中に位置していたことになります。

地図右上の三国街道とみえる道筋が三国峠越えの道

じつは、「峠の名は臼杵・岡・佐伯の各藩領境にあることから付けられたという(弘化二年「高千穂採薬記」)」(ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の大分県大野郡「三国峠」の項)とあるように、江戸時代に豊後国臼杵うすき藩、同国岡藩、同国佐伯藩の3藩領の境界に位置することから名付けられました。明治維新後に西南戦争の戦場となり、「峠上の三国神社には西南戦争中当峠で戦死した宮崎県飫肥おび(現日南市)出身の兵士の墓碑」(同上)があります。かつては国道326号が峠を越えていましたが、現在の国道326号は、峠の南西麓をトンネル(三国トンネル)でくぐりぬけています。

「国(邦・クニ)」という言葉には様々な意味がありますが、一般的な国家・国民の「国」、古代から近世まで続いた行政区画としての「国」(六十余州はこれにあたります)のほかに、地域・地方という意味もありますから(「南の国」「雪国」など)、大分県の三国峠は3つの地域(藩領域)の境界にあたる「三国」地名といえるでしょう。

前回、ジャパンナレッジの「詳細(個別)検索」で「日本歴史地名大系」を選択し、「三国山」「三国岳」「三国峠」の3語を入力して、全文検索(or検索)をかけると228件がヒットする、と記しました。同じように「三国」と入力し、今度は見出し検索をかけますと、25件がヒットしますが(ほとんどは「三国山」「三国岳」「三国峠」関連)、なかに毛色の変わった「三国」地名があります。それは福井県坂井さかい郡三国町(現在は坂井市)の「三国湊」です。

山や峠に多い「三国」地名ですが、海辺にも「三国」地名がありました。やはり旧3か国にまたがって湊が形成されたのでしょうか? 「日本歴史地名大系」の記述は以下の通りです。

竹田たけだ川と九頭竜くずりゆう川の合流する右岸に位置する。近世初期までこの辺りは三国浦といい、その津を三国湊と称したらしい。町内治定改方記録(国立史料館蔵「三国町諸用記録」所収)に「当所いにしへハ三国浦と相となへ候得共貞享二丑年御国御絵系(図)出来候節大公儀へ三国湊と書記御出し已来湊ニ相改リ候」とあり、三国湊の名は貞享二年(一六八五)以降、三国浦をも含めた呼称となった。

さらに続けて

「三国」の名はすでに「日本書紀」継体天皇即位前紀に、継体天皇の母振媛の居住地として「三国坂中井」が記されており、また「日本書紀」のその後の記述や「続日本紀」には三国公・三国真人とよばれた豪族がしばしば登場する。この三国氏の根拠地は坂井郡であったようだが、振媛の居住地や、三国氏の本拠地を当湊とすることには疑義もある。

とあります。律令制の国郡郷(旧六十余州の母型)が誕生する以前、「継体天皇即位前紀」にすでに「三国」の名が見えるのですから、少なくとも旧3か国の国境に由来する「三国」地名ではないことは確かです。このあたりのことについて、web版『福井県史』「通史編」(福井県文書館のH.P.の「デジタル歴史情報」で誰でも閲覧できます)の《原始・古代 序章》「第二章 若越地域の形成」のなかの《第二節 継体王権の出現》「一 継体天皇の出自」の《三国の意義》は次のように記します。

 継体天皇の母振媛は、『紀(日本書紀)』では三国の坂中井の高向、『上宮記』では三国坂井県の多加牟久村の出身と記されている。高向(多加牟久村)は、現在の丸岡町の一部をなす旧高椋村に該当しよう。坂中井(坂井県)はおおむね今の坂井郡に相当する地域であろう。三国はそれより広域なのであるから、現在の三国町を指すという見解は誤りである。少なくとも越前の北半くらいを指す広い地域と考えなければならない。
 三国については古くから「水国」を意味するとする説と、「三つの国」を指すとの両説があったが、「三つの国」と理解した方が正しいと思われる。継体天皇の時代に坂井郡一帯が「水国」であった証跡はまったくみられないからである。しかしながら「三つの国」がのちの律令制下の郡でいう坂井・足羽・丹生、坂井・大野・足羽、または坂井・江沼・足羽のいずれと考えるべきかは、まだ議論の余地がある。

と。さらに、「三国」の3つの国(律令制下でいう郡)は、のちの、どの3郡にあてるのが妥当かについて、『上宮記』の「祖にまします三国命」という記載から、三国命は振媛の母であるアナニヒメをさしている可能性が強く、アナニヒメは余奴臣の祖であり、余奴は「与野評」と記された墨書土器などからエヌ(江沼)と訓む説が強く、このことから「三国」は「江沼・坂井・足羽の三郡をさす」という説に若干の根拠を与えることになるだろう、と記述しています。

つまり、現在の坂井市三国湊の「三国」の由来は古代の国郡制でいう越前国坂井郡・足羽あすわ郡、および加賀国(9世紀前半に越前国から分離独立)江沼えぬま郡の3郡(3つの地域)にあたるだろうと推測しています。

九頭竜川の河口に発達した福井県三国湊(三国港)

筆者は「日本歴史地名大系」や『福井県史』の記述に触れる以前、三国湊がその河口に立地する九頭竜川に着目しました。じつは、九頭竜川の支流である日野ひの川が、福井、岐阜、滋賀の3県境に位置する三国岳(1209メートル)にその源を発していることに気がついたからです。もちろん三国岳の名称は越前(福井)、美濃(岐阜)、近江(滋賀)の3国境に由来します。暴れ川と呼ばれた九頭竜川ですから、日野川が本流であった時もあるに違いない、日野川は三国岳が源流なのだから三国川と呼ばれた時期もあっただろう、三国川の河口湊だから「三国湊」である、と憶測したわけです。しかし、三国岳の呼称が発生する以前に三国湊の由来となる「三国」地名が存在したのですから、筆者の憶測はものの見事に粉砕されました。

次回は「三国」地名の一方の雄、上越国境の三国峠・三国山の周辺を探索します。

(この稿続く)