日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第96回 「竹水門」はどこだ!(1)

2015年05月15日

先回まで「古事記」と「日本書紀」におけるヤマトタケルの東征説話について記してきましたが、今回はその続編といった按配になります。表題の「竹水門」は「たかのみなと」と読みます。「日本書紀」によれば、攻め入ってきたヤマトタケル(日本武尊)を迎え撃とうとして、蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちが集結した場所です。ただし、「古事記」に、この記述はみえません。

ところで、先の「あづまはや(2)」において、筆者はヤマトタケルの東征経路について、尾張を起点にたどると、「古事記」では「尾張・(三河)・(遠江)・駿河・相模(以下省略)」、「日本書紀」では「尾張・(三河)・(遠江)・駿河・相模(以下省略)」になる(括弧内の国名は筆者の推測)、と記しました。しかし、「日本書紀」では東征に出立するにあたって、ヤマトタケルが(のちの)尾張国に入ったという記述はありません。そこで、「日本書紀」では(「尾張」を括弧内に変更して)「(尾張)・(三河)・(遠江)・駿河・相模(以下省略)」と訂正したいと思います。

「日本書紀」には後段で「日本武尊やまとたけるのみことまた尾張をはりかへりまして」との記述がみえますので、尾張に立ち寄った可能性は高いと思うのですが、あくまでも筆者の推定ということになりますので、括弧内に訂正いたします。

本題の「竹水門」に戻ります。「古事記」にこの記述はみえない、と記しました。「古事記」では、走水(浦賀水道)の海神の怒りを弟橘比売(「日本書紀」では「弟橘媛」)の入水によって鎮めたのち、ヤマトタケルは(さらに東へ進んで)荒ぶる蝦夷、山河の荒ぶる神たちを平定します。大和へ帰る途次、ヤマトタケルは足柄坂(足柄峠)で「あづまはや」と弟橘比売を偲び、甲斐の酒折さかをり宮に入ります。ここで、「新治にひばり筑波つくはを過ぎて、幾夜いくよつる」とヤマトタケルが歌ったのに対し、篝火を焚く役の老人が「かが(日日)なべて、には九夜ここのよには十日とをかを」と返したという有名な片歌かたうたによる歌問答の場面があります(その結果、老人はあづまくにみやつこに任じられます)。その後、ヤマトタケルは科野しなの(信濃)国を経て尾張に戻ります。

一方、「日本書紀」では、馳水(浦賀水道)の海神の怒りを弟橘比売の入水によって鎮めたのち、ヤマトタケルは上総を経て陸奥国に入ります。この時、ヤマトタケルは乗船に大きな鏡を懸け、海路から葦浦あしのうらに回り、玉浦たまのうらを経て蝦夷居住地との境に着きます。蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちは竹水門に集まって防ごうとしました。しかし、彼らはヤマトタケルの乗船を望むと、その威勢に怖れをなして平伏・臣従します。ヤマトタケルは蝦夷を許し、その首領を随従させて日高見国ひたかみのくにを去り、西南の常陸国を経て甲斐国の酒折宮に着きます。ここで、先述の「新治、筑波云々」の歌問答が交わされます。さらに、ヤマトタケルは未だ臣従しない越国こしのくに(北陸地方)・信濃国を平定するために武蔵・上野を経て碓日嶺(碓氷峠)に至ります。ここで、弟橘媛を偲び「あづまはや」と歎いたあと、吉備武彦きびのたけひこを越国に派遣し、自らは信濃に入ります。信濃の山の神と戦って勝利したヤマトタケルは道に迷いながらも美濃に出て、越から戻った吉備武彦と合流、尾張国に還ります。

「日本書紀」(岩波書店:日本古典文学大系67)では、ヤマトタケルの「竹水門」あたりの様子を次のように記します。

ここに日本武尊、則ち上総かみつふさよりうつりて、陸奥国みちのくのくにりたまふ。時におほきなるかがみ王船みふねけて、海路うみつちより葦浦あしのうらめぐる。よこしま玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしさかひに至る。蝦夷の賊首ひとごのかみ嶋津神しまつかみ国津神くにつかみたち竹水門たかのみなといはみてふせかむとす。しかるにはるか王船みふねおせりて、あらかじめ其の威勢いきほひぢて、こころうちにえちまつるまじきことをりて、ふつく弓矢ゆみやてて、のぞをがみてまうさく、「あふぎてきみみかほれば、人倫ひとすぐれたまへり。けだかみか。姓名みなうけたまはらむ」とまうす。みここたへてのたまはく、「われこれ現人神あらひとかみみこなり」とのたまふ。ここ蝦夷えみしどもふつくかしこまりて、すなはきものかかげ、なみけて、みづか王船みふねたすけてきしく。りてみづから ゆはひて服罪したがふ。かれつみゆるしたまふ。りて、其の首帥ひとごのかみとりこにして、従身みともにつかへまつらしむ。蝦夷すでけて、日高見国ひたかみのくによりかへりて、西南ひつじさるのかた常陸ひたちて、甲斐国かひのくにいたりて、酒折宮さかをりのみやします。

ここで、「古事記」と「日本書紀」の物語の筋について共通項を基準に整理します。ヤマトタケルは弟橘比売(弟橘媛)の入水と酒折宮での歌問答の間に、「古事記」では荒ぶる蝦夷、荒ぶる山河の神を平定し、「あづまはや」と弟橘比売を偲びます。一方、「日本書紀」では、この間に上総から陸奥国に至り、「竹水門」に集結した蝦夷の賊首、嶋津神・国津神を平伏・臣従させます。しかし、弟橘媛を偲ぶ場面は、酒折宮での歌問答の後に置かれています。この構成の違いを再度確認しておきたいと思います。

さて、「竹水門たかのみなと」です。吉田東伍の「大日本地名辞書」は、この水門(湊)を現在の宮城県宮城郡七ヶ浜しちがはま町の湊浜みなとはまあたりに比定し、「和名抄」にみえる陸奥国宮城郡多賀たが郷(七ヶ浜町の西に接する現在の宮城県多賀城たがじょう市付近とされる)の郷名「多賀」が「たか」を継承しているとする既存の説に賛同しています。

しかし、一方で吉田は、常陸国多賀たが郡(「和名抄」では「多珂郡」と表記。現在の茨城県北茨城市・高萩市・日立市)、陸奥国行方なめかた郡(現在の福島県南相馬市一帯、郡内に「多珂郷」がある)などを候補地とする説があることも紹介しています。

ジャパンナレッジ「日本古典文学全集」の注記も、「書紀集解」が「延喜式」神名帳にみえる陸奥国名取なとり郡の「多加たか神社」や陸奥国行方郡の「多珂たか神社」との関連を指摘していることを紹介しながらも、「大日本地名辞書」の湊浜説に賛同しています。

「大日本地名辞書」が「竹水門」の第一候補とする宮城県七ヶ浜町湊浜地区

また、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」は福島県/陸奥国/行方郡の【多珂たか郷】の項目で、「竹水門」の候補地として、行方郡多珂郷のほかに、常陸国多珂たか郡(のち多賀郡)、宮城郡多賀城(現宮城県多賀城市にあった古代の城柵)付近をあげています。

なお、「日本歴史地名大系」は、前述「書紀集解」があげた名取郡多加神社を現在の名取市高柳たかやなぎ多賀たが神社、あるいは、仙台市太白たいはく富沢とみざわ多賀たが神社に、行方郡多珂神社を福島県南相馬市原町はらまちたか多珂たか神社にそれぞれ比定しています。

なかなか「竹水門」にたどりつけませんが、今少しだけ、周辺を固めて行きたいと思います。

(この稿続く)