日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
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第126回 「酉」の字が付く「日本歴史地名大系」の項目

2017年01月13日

新年恒例、とはいっても昨年1月(第114回「今年は丙申(ひのえさる)」2016年1月22日更新)に続いて今回で2回目ですが……、十二支の字を用いた地名や寺社名についての話題です。もちろん、今年は酉年ですから「酉」の字が付く地名や寺社名を取り上げます。

ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択し、「酉」の1字を入力、見出し検索をかけますと、北から順に次の5件がヒットしました。

○茨城県筑波郡筑波町(現つくば市)漆所うるしじょの【初酉神社】

読みは「はっとり」とも「はつとり」とも

○三重県員弁いなべ東員とういん町の【酉之新田】

読みは「とりのしんでん」

○大阪市西淀川区の【酉洲新田】

読みは「とりすしんでん」

○大阪市此花区の【本酉島新田】

読みは「ほんとりしましんでん」

○山口県下関市の【酉谷寺】

読みは「ゆうこくじ」

まず、つくば市の【初酉神社】は、筑波山南麓の漆所に鎮座する神社で、祭神は天御桙命と大己貴命。古代における機織部(服部)の集住と関係があると考えられ、南東方に位置する小和田こわだにも同名の初酉神社があります(以上、「日本歴史地名大系」。以下同)。今年は初詣の参拝客も例年に増して多かったことと思います。

古代の服部〔はとりべ〕との関連が指摘される初酉神社。

三重県東員町の【酉之新田】は、現在の東員町鳥取とっとり地区にあたり、員弁川の支流であるふじ川と戸上とがみ川の間に開かれた新田村で、18世紀以降、19世紀のはじめまでの開発と考えられます。酉年の取立と推測され、この間、1705・1717・1729・1741・1753・1765・1777・1789・1801の各年が酉年ですが、その年代は特定できません。

大阪市西淀川区の【酉洲新田】は、現在の西島1・2丁目にあたり、神崎川の河口部を開発して誕生しました。明和2年(1765)酉年の開発と推定され、開発主は薬屋の町として知られる大坂三郷道修どしょう町(現中央区)の西村仁右衛門。

酉洲新田ばかりではなく、神崎川河口部には多くの新田が開かれた。

大阪市此花区の【本酉島新田】は現在の酉島地区にあたります。もとは南酉島新田・北酉島新田(現西淀川区)とともに酉島新田と称され、この酉島新田は大坂三郷の多羅尾七郎右衛門によって寛文年中(1661-73)から開発されました。しかし、中島大水道の海表樋門をふさぐ位置にあるため、天和年間(1681-84)に開発が禁じられ、貞享元年(1684)の安治あじ川開削によって排水がよくなったために再び多羅尾氏に還付されました。その後も多羅尾氏による開発が進められ、元禄15年(1702)に検地を受け、新田村として成立(「西成郡史」など)。地名の「酉」から推定して開発のはじめは寛文9年(1669)酉年ではないかとの見解もあります。

江戸時代の本酉島新田にあたる此花区酉島地区。

下関市南部町なべまちの【酉谷寺】は、忠誉一徳が開いた浄土宗寺院。同じく忠誉一徳が開き、小早川秀秋が養父隆景の遺言により隆景を再建開基として中之町に移転した引接いんじょう寺(日清講和談判の際、清国全権李鴻章の宿泊所ともなった)からみて酉の方向(西方)にあたることから酉谷寺と称したともいわれます。

酉谷寺がある南部町は、古くから交通の要衝であった「赤間関」の町場。

ところで、昨年の「今年は丙申(ひのえさる)」では、おおむね次のようにまとめています。

「日本歴史地名大系」の項目で、十二支の文字が含まれる項目は、近世以降の開発である可能性が高い「新田」項目では、かなりの確率で、開発年との関連が考えられる。しかし、それ以外の項目では、必ずしも開発年を表しているとはいえない……。

今回の「酉」の字が含まれる項目めぐりでも、新田村では開発年次にかかわっていることが多く、それ以外の寺社項目では干支の「酉」とは違う意味で用いられていました。昨年の結論が少しばかり裏付けられたといってもいいようです。

(この稿終わり)