国史大辞典のサンプルページ一覧
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鹿鳴館(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
東京麹町区内山下町(東京都千代田区内幸町一丁目)にあった社交クラブ。当初は「外国人接待所」と呼ばれ、外国人の宿泊・接待を目的として外務省によって計画され、コンドルが設計した。着工は明治十三年(一八八〇)、開館式が同十六年十一月に行われている。開館後

阿蘇神社(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
熊本県阿蘇郡一の宮町宮地に鎮座。別名阿蘇宮・阿蘇大明神。旧官幣大社。主祭神健磐竜(たけいわたつ)命を一宮とし、二宮は阿蘇都比〓(あそつひめ)命、三宮は国竜(くにたつ)神、四宮は比〓御子(ひめみこ)神、五宮は彦御子(ひこみこ)神、六宮は

浅草神社(日本歴史地名大系・国史大辞典)
東京都台東区浅草公園に鎮座。旧郷社。祭神は土師真中知(はじのまなかち)命他四柱。明治維新前は浅草寺鎮守の三社権現と称したのを、神仏分離令により明治元年(一八六八)三社明神と改称、さらに同六年浅草神社と改称したもので、祭神も三柱だったのをその際徳川家康

神幸祭(国史大辞典・世界大百科事典)
神社祭祀のうち、神霊が本社より他所に渡御する祭。「おわたり」「みゆき」「おいで」などとも称し、その帰りを還幸祭と呼ぶ場合もある。起源は不詳であるが、古代末期にはすでに行われていた社があり、中世以降多くの社でなされるようになったものとみられる

精霊流し(国史大辞典・日本大百科全書・日本国語大辞典)
盆行事の最終段階で、精霊を送り出す儀礼。先祖の霊は、七月十三日の精霊迎えを経て、十五日または十六日夕方まで各家に滞在したのち、精霊流しによって、再びあの世へ送り返されると信じられていた。祖霊をはじめ、死者の霊は山の彼方の世界に行っているが

クビライ(世界人名大辞典・国史大辞典)
一二一五-九四元朝の初代皇帝。クビライとも表記される。廟号は世祖。モンゴル帝国第五代大汗。成吉思汗の末子トゥルイの第三子。兄モンケが大汗になると、命ぜられて中国の征服に従い、雲南からチベットを平定、さらに北ベトナムの大越国を服属させた。一二五九年に

天神祭(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
七月二十五日、大阪天満宮で行われる夏祭。天満祭ともいう。その盛況で日本三大祭ともいわれている。祭事の中心となる船渡御に先立って、二十四日の宵宮祭が斎行され、鉾流神事がある。これは、本来、神幸の御旅所(おたびしょ)を、その漂着先で定めるものだった

蘇民将来(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
疫病除けの守護神。のちに蘇民守(そみんまもり)と呼ばれる護符の意ともなる。『釈日本紀』七所引の『備後国風土記』逸文に、疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)の縁起として、蘇民将来について次のように記してある。昔、北海にいた武塔の神が南海の神の女に求婚し

雨月物語(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
上田秋成(署名、剪枝畸人)著。五巻九篇から成る怪談小説集。明和五年(一七六八)三月、初稿成立。八年の推敲を経て、安永五年(一七七六)四月刊行。巻一に「白峯」「菊花の約」、巻二に「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」、巻三に「仏法僧」「吉備津の釜」、巻四に

山車(国史大辞典・世界大百科事典)
祭に担がれ、曳かれる屋台。壇尻(だんじり)ともいう。作り山・柱・笠鉾・人形・吹き花・鳥獣・草木などで飾るので、鉾・山などの名もある。ダシとは本来、柱や鉾の先につけた御幣・花・榊・髯籠(ひげこ、放射状に編み残しの竹をつけた籠)など

民俗芸能(国史大辞典・世界大百科事典)
地域社会の中で、住民の信仰や風俗・習慣と結び付きながら伝承してきた郷土色ゆたかな芸能。郷土芸能・民間芸能などともいう。祭や宴遊・講などを主な伝承の場とし、特に農耕の祭に呪術的機能を買われて演じられ、また芸能をもって成人教育とするなど

田楽(国史大辞典・新版 能 狂言事典・改訂新版 世界大百科事典)
広義には稲作に関する芸能の総称として用いるが、狭義には田楽躍(おどり)を本芸とする職業芸能者が演じる芸能をいう。また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。広義の田楽は、(1)田植を囃す楽、(2)職業芸能者である田楽法師による芸能

歎異抄(日本古典文学全集・国史大辞典・世界大百科事典)
浄土真宗宗祖親鸞から学んだ教説と、それに反する異義の批判とを述べたもの。著者は直弟の常陸国河和田住の唯円とするのが定説である。一巻。巻頭の序、本文十八章、最後の総結の文から成る。本文は十章までの前半と以下の後半に分かれ、前半では親鸞から聞いた法語を

吉田茂(国史大辞典・世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任

マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後

犬養毅(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五五 - 一九三二 明治から昭和時代にかけての政党政治家。号は木堂。安政二年(一八五五)四月二十日、岡山藩士犬養源左衛門の次子として生まる。明治八年(一八七五)上京、『郵便報知新聞』に寄稿しながら慶応義塾に学んだ。同十年西南戦争に記者として従軍

原敬(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五六 - 一九二一 明治・大正時代の政党政治家。幼名は健次郎。鷲山・一山・逸山などと号した。最初の夫人貞子は中井弘の娘。安政三年(一八五六)二月九日陸奥国盛岡(南部)藩士原直治・リツ子の次男(第四子)として同藩盛岡城外本宮村(盛岡市本宮)に生まれる

尾崎行雄(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五八 - 一九五四 明治から昭和時代前期にかけての政党政治家。号は咢堂。安政五年(一八五八)十一月二十日、尾崎行正・貞子の長男として相模国津久井郡又野村(神奈川県津久井郡津久井町)に生まれる。地方官であった父の転任で度会県に居住

西園寺公望(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四九 - 一九四〇 明治から昭和時代前期にかけての政治家。最後の元老。嘉永二年(一八四九)十月二十三日公家の清華の家柄である右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として京都に生まれる。母は宇佐八幡宮神主正親盛澄の娘斐子。徳大寺実則の実弟

田中正造(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四一 - 一九一三 明治時代の政治家、社会運動家。天保十二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれる。父は名主役富蔵、母サキ、幼名兼三郎。少年期赤尾小四郎塾で学ぶ。安政四年(一八五七)十七歳で父の割元昇進に伴い

北里柴三郎(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八五二 - 一九三一 明治・大正時代の細菌学者。嘉永五年(一八五二)十二月二十日肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。父は惟信、母は加藤海助の女貞子、柴三郎はその長男である。明治二年(一八六九)熊本藩の藩校時習館に入ったが

小村寿太郎(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五五 - 一九一一 明治時代の外交官、外相。侯爵。安政二年(一八五五)九月十六日、日向国飫肥(宮崎県日南市)に生まれる。父は飫肥藩の徒士小村寛平、母は梅子。文久元年(一八六一)藩校振徳堂にはいり頭角をあらわして、小倉処平の注目する

陸奥宗光(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四四 - 九七 明治時代の政治家で第二次伊藤内閣の外務大臣。伯爵。父は和歌山藩士伊達藤二郎宗広、母は同じく和歌山藩士渥美源五郎の長女政子。その第六子として、弘化元年(一八四四)七月七日誕生。幼名牛麿。父宗広は家禄八百石、藩の重職を歴任したが

大隈重信(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三八 - 一九二二 明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路に、父信保、母三井子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家としてつかえ、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された

板垣退助(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三七 - 一九一九 幕末・明治時代の政治家。天保八年(一八三七)四月十七日高知城下中島町の邸に生まれた。父は高知藩士乾正成、母は林氏賢貞。家禄三百石、馬廻格。退助の幼名は猪之助。安政二年(一八五五)勤番を以てはじめて江戸に上り、翌年帰藩

福沢諭吉(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三四 - 一九〇一 明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福沢百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の、第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内

岩倉具視(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二五 - 八三 幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって

木戸孝允(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三三 - 七七 明治維新の指導的政治家、萩藩士。通称は小五郎、のち貫治と改め、また準一郎と称す。新堀松輔とも変名。号は松菊・木圭・広寒・猫堂・老梅書屋・竿鈴(干令)。天保四年(一八三三)六月二十六日藩医和田昌景の次男として萩に生まれた

徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山

勝海舟(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男