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国史大辞典のサンプルページ一覧

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勝海舟(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
井伊直弼(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
水野忠邦(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五一 江戸時代後期の老中で、天保の改革の指導者。遠江国浜松藩主。通称は於菟五郎、松軒・菊園と号する。寛政六年(一七九四)六月二十三日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)
大塩平八郎(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一七九三 - 一八三七 江戸時代後期の大坂町奉行所与力。儒学者。諱は後素、字は子起、通称平八郎、号は連斎・中軒さらに中斎と改めた。大塩敬高を父とし、寛政五年(一七九三)正月二十二日天満四軒屋敷の与力邸に生まれた。先祖は駿河・遠江の守護
伊能忠敬(国史大辞典・世界大百科事典)
一七四五 - 一八一八 江戸時代中期の地理学者、測量家。延享二年(一七四五)正月十一日、上総国武射郡小堤(おんづみ)村(千葉県山武郡横芝町小堤)の神保利左衛門貞恒の三子として、同山辺郡小関(こせき)村(同九十九里町小関)に生まれる
杉田玄白(国史大辞典・世界大百科事典)
一七三三 - 一八一七江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。諱は翼、字を子鳳、号を斎といい、晩年に九幸翁の別号を用いた。その居を天真楼と称し、家塾名ともした。晩年建てた書斎を小詩仙堂と呼ぶ。玄白は通称。享保十八年(一七三三)九月十三日
新井白石(国史大辞典・世界大百科事典)
一六五七 - 一七二五江戸時代中期の儒学者、政治家。名は君美(きんみ)。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる
徳川綱吉(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六四六 - 一七〇九 江戸幕府第五代将軍。一六八〇―一七〇九在職。三代将軍家光の第四子。母は本庄氏(於玉、桂昌院)。正保三年(一六四六)正月八日、江戸城本丸に生まれる。幼名徳松。慶安元年(一六四八)三ノ丸に移る。同四年四月三日
益田時貞(天草四郎)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一六三八 島原の乱における一揆軍の首領。通常、天草四郎時貞といわれるが、一揆当時の史料には「四郎」「益田四郎」とあり、乱後の覚書などには「大矢野四郎」「江辺(部)四郎」の呼称がみえる。没年の年齢が十六歳というから
徳川家光(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六〇四 - 五一 江戸幕府第三代将軍。一六二三―五一在職。二代将軍秀忠の次男。慶長九年(一六〇四)七月十七日生まれる。母は秀忠正室浅井氏(お江、崇源院)。兄長丸早世により、実質長男として祖父家康の幼名竹千代を与えられた
伊達政宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
斎藤道三(国史大辞典・世界大百科事典)
? - 一五五六 美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば
北条早雲(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四三二 - 一五一九戦国時代の武将。小田原北条氏の初代。早雲は庵号で、また北条を称したことはなく、一般に言い古されているこの呼称は、俗称というほかない。正しくは、伊勢を氏とし、新九郎を通称としている。入道してからは、「早雲庵宗瑞」あるいは「宗瑞」と
一休宗純(国史大辞典・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
一三九四 - 一四八一 室町時代前期の臨済宗大応派大徳寺派下の禅僧。はじめ法名を周建といい、のち宗純と改め、一時宗順とも称し、道号を一休といい、別に狂雲子と号した。後小松天皇の皇子、母は南朝の遺臣花山院某の女。応永元年(一三九四)京都の民家において出生
足利義政(国史大辞典・世界大百科事典)
一四三五 - 九〇 室町幕府第八代将軍。一四四九―七三在職。六代将軍義教の子で七代将軍義勝の同母弟。永享七年(一四三五)正月二日誕生。幼名三春。嘉吉三年(一四四三)七月義勝の死後、八歳で家督を嗣ぎ文安三年(一四四六)十二月十三日後花園天皇から
世阿弥(国史大辞典・世界大百科事典)
生没年不詳 室町時代前期の能役者・能(謡曲)作者・能楽伝書の著者。大和猿楽観世座(結崎座)の二代目大夫。幼名は鬼夜叉・藤若。通称三郎、実名は元清といい、秦氏を称した。法名は至翁・善芳。阿弥号は正式には世阿弥陀仏で、世阿・世阿弥はその略称
足利義満(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五八 - 一四〇八 室町幕府第三代将軍。一三六八―九四在職。二代義詮の子。母は石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。良子の母通玄寺開山智泉聖通は順徳皇子四辻宮善統親王の孫にあたる。良子は義詮に侍し義満とその弟満詮を生む。義満は延文三年
足利尊氏(国史大辞典・世界大百科事典)
一三〇五 - 五八 室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を
新田義貞(国史大辞典・世界大百科事典)
? - 一三三八 鎌倉・南北朝時代の武将。新田朝氏の嫡子。小太郎。左中将、右衛門佐、治部大輔を歴任。義貞は元弘三年(一三三三)河内に蜂起した楠木正成討伐の楠木合戦に御家人として参加したが途中で上野に帰国した。ところが幕府の軍費調達の有徳
楠木正成(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一三三六 南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく
北条時宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一二五一 - 八四 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して
北条時頼(国史大辞典・世界大百科事典)
一二二七 - 六三 鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着
北条泰時(国史大辞典・世界大百科事典)
一一八三 - 一二四二 鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)
北条政子(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五七 - 一二二五 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから
源義経(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一五九 - 八九 鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)ら
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