季節のことば

日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。

晩秋―其の一【紅葉】

春は桜、秋といえば紅葉(もみじ)。紅葉は月と並んで秋を代表する景物である。『万葉集』の時代からすでに「春へには花かざし持ち 秋立てば黄葉かざせり」(柿本人麻呂)と詠われている。当時は「黄葉」と書くのが通例だった。額田王は「秋山の木の葉を見ては 黄葉をば とりてぞしのぶ 青きをば 置きてぞなげく」ことができるので、秋は紅葉があるので、むしろ春にまさるとさえ詠っている。『新古今集』序(藤原良経)には「春がすみたつたの山に初花をしのぶより、夏はつまごひする神なびの時鳥、秋は風に散るかつらぎの紅葉、冬は白妙の冨士の高嶺に雪つもる年の暮まで、皆折にふれたる情なるべし」と桜、時鳥、紅葉(月を退けて)、雪をそれぞれ四季を代表する景物としている。

当然、歌に詠まれることも多く、「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(藤原定家)や『百人一首』にある「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(よみ人知らず)などよく知られた歌も多い。後者の歌のように紅葉は鹿との関連で詠われることが多く、それは花札の絵柄にまで及んでいる。また「ちはやぶる神世も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは」(在原業平)のように竜田山、竜田川は紅葉の歌枕として特に有名だった。さらに「移る」「過ぎる」(その多くは死去の意味)の枕詞としてもよく用いられた。

紅葉は楓(かえで)をさすことが多く、植物分類学上も同じ意味に用いる。それは楓の紅葉(こうよう)が他の紅葉する木にくらべ際立って美しいことによる。楓の語源は、古くは「かえるで」と呼んだように、葉の形が蛙の手に似ているところからきている。同様に紅葉の語源も蛙の手に由来するという説がある。アカガエルの古名「蝦蟇(もみ)」の手、つまり「もみで」からきたというのだが、ちょっとこれは無理なようで、定説になっているのは紅花をもんで赤い色を出す「揉出(もみづ)」からきたという説。赤く染めた絹を「紅絹(もみ)」というのもいわれは同じである。なお「楓」の字は『本草和名』や『新撰字鏡』ではカツラとよまれ、『万葉集』でもカツラと訓読されている。それがいつのまにかカエデをさすようになってしまった。しかし中国で「楓」はマンサク科のフウという木をさし、カエデとは別のものである。

草木の葉が黄(紅)変する現象は、葉の中にアントシアンという色素が形成されることによって起こるが、それは別に秋にかぎったことではない。常緑樹では春の終わりに、新しい葉が出ると古い葉が黄変して落葉することが見られる。しかし日本の秋の紅葉が特に美しいとされるのは、その気候や地形が紅葉に適した条件を整えるからである。紅葉が鮮やかに発現するには、温度、水分、光などが密接に関係し、昼夜の寒暖差が大きいこと、適度の湿度があること、紫外線が強いことなどの条件が必要である。日光、奥入瀬、箱根などの山間部の渓流近くで特に紅葉が美しいのはこれらの条件がそろうからである。

紅葉するのはもちろん楓だけではなく、紅葉の美しい木には下に紅葉を付けて、漆紅葉、櫨(はぜ)紅葉、銀杏黄葉、柿紅葉などといい、これらを一括して「名木紅葉(なのきのもみじ)」ということがある。また美しく照り輝く紅葉した葉を「照葉(てりは)」、紅葉をめでに山野におもむくことを「紅葉狩」という。

桜の美しさは生命感に満ちた若やいだものだとすれば、満山の紅葉を前にした時のしーんと心に沁みてくるような美しさには、去り行く季節のあわれが感じられる。

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 橋本鷹女
強き灯の照らすところの紅葉かな 日野草城

2001-10-09 公開