季節のことば
日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。
「内裏雛人形天皇の御宇とかや」という芭蕉の句がある。意味は天皇、皇后の姿に擬した一対の雛人形が優美に飾られているが、これはいったい何天皇の時代かといえば、人形天皇のお治めになる御世とでも申すべきであろうか、といったところ。芭蕉が意識していたかどうかはわからないが、この句は内裏雛の歴史をくしくも皮肉に象徴している。
雛人形を中心にした桃の節供、雛祭りが今日のような形になったのは案外に新しく、室町時代から江戸初期にかけてのことのようだ。『源氏物語』や『枕草子』には「雛遊び」というのがみえるが、これは現在のままごと遊びのようなもので、紙の小さな人形を中心にミニチュアの所帯道具などを使った貴族の子供たちの一般的な遊びで、まだ三月の節供とは関係はなかった。
またそれとは別に古代中国には、三月の初めの巳の日(上巳)を陽の気が窮まった忌むべき日として、川辺に出て不浄を除くため水で祓えを行うという風習があった。同様な風習は日本にもあったので、二つは習合し、紙で作った人形(ひとがた)の形代(かたしろ)に人の穢れを移して、水に流すという象徴的な行事に変わる。この行事が雛遊びと結びつき、上巳も三月三日に定着して今日の雛祭りに発展してきたのである。 雛祭りが庶民の年中行事として盛んになってきた背景には、朝廷の権威がまったく地に落ちた時代に、武家の支配以前のかつての王朝文化を懐かしむ気持ちがあった。したがって芭蕉のこの句は、有名無実となってしまった朝廷の権威をするどく皮肉ってもいるわけでもある。
雛人形が今日のように雛段の上に鎮座する座り雛の形になったのは、徳川家康の孫、東福門院和子が子供のために作ったものがはじまりとされている。彼女は二代将軍秀忠の娘として生まれたが、幕府の婚姻を利用した朝廷懐柔策のため、十四歳で後水尾天皇の中宮として入内した。天皇との間に皇女興子、高仁親王と二子を得るが、高仁親王は夭逝。天皇は周囲の反対を押し切って、興子(明正天皇)に譲位してしまう。平安時代以来絶えていた女帝の誕生である。和子は、興子が美しい花嫁となって嫁ぐ日を夢見ていたが、天皇となったからには、もはやかなわぬ夢。それでその夢を座り雛に託したというわけである。
桃の節供と呼ばれるのは、季節のものという理由のほかに、桃には邪気を払い百鬼を制すという魔除けの信仰があったからである。桃は兆しをもつ木で、未来を知らせ、魔を防ぐとされた。鬼退治の主人公はどうしても桃太郎でなければならなかったのである。また「兆」には多数という意味もあり、二つに割った桃の実は女陰に似て、聖なる呪いの要素ももつ。
草の戸も住み替はる世ぞ雛の家 松尾芭蕉
雛の影桃の影壁に重なりぬ 正岡子規
函を出てより添ふ雛の御契り 杉田久女
白き粥かがやく雛の日とおもふ 桂信子
2002-02-25 公開
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