季節のことば

日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。

仲夏―其の三【短夜(みじかよ】

近代化していく生活は、次々に発明、工夫される照明具によって、身のまわりから暗闇を追放していく過程でもあった。しかしガス、電気が照明に使用される以前の庶民の生活においては、「他人おそろし、闇夜はこわい、親と月夜はいつもよい」という奉公に出された娘が歌った子守唄からもうかがえるように、夜はあくまで暗く、恐ろしいものであった。また一方では男女の逢瀬のかけがえのない時間でもあった。夜の闇の密度というものが現代人の感じているそれとは大きく異なっていたのである。

その夜の時間の長さは、太陽と地球の関係がつくる季節によって変化する。その最も短いのは、北半球で6月22日ころ、つまり夏至(げし)である。この日、東京の夜の長さは9時間25分、午前4時25分には日の出を迎える。つまり昼は14時間35分。いかに夏の夜が短いかがわかる。その短かさ、はかなさを惜しむ気持ちから夏の夜を呼んだのが「短夜」という季語である。これに対することばとして、春の「日永(ひなが)」、秋の「夜長(よなが)」、冬の「短日(たんじつ)」があり、いずれも物理的な時間の長短からというよりも、それぞれの季節を背景にした情感を主としたことばである。

『枕草子』の冒頭で、「夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍おほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」と、清少納言が夏の最もすばらしい時間帯は夜といっていることはよく知られている。同時にその時間には、明けやすさを恨む男女の後朝(きぬぎぬ)の情も重ねられた。そのため『古今集』や『新古今集』には、夏の夜の短さをかこつ歌が多い。このような夏の夜に対する思いが「短夜」のことばとしての背景にはある。

かつて夜は一日のはじまりであった。現在と違って日没から一日が始まると考えられていた。「あした」ということばが、現在の「翌日」ではなく、もとは「朝、夜明け」を意味していたのもそのためである。日没から翌朝までがひとつづきの時間と意識されていたのである。なぜなら夜は百鬼夜行する、神々の時間、聖なる時間、神話的時間だったからである。その時間が過ぎてからでなければ、世俗の人間の時間はやってこない。神話的世界を経てはじめて人間の世界が成り立つと考えるのが、近世以前の庶民の世界観であった。

夜の神話性、神秘性はしだいに消滅していくわけだが、その記憶も「短夜」ということばは、かすかにとどめている。このように「短夜」には、日本人が体験してきた夜のさまざまな記憶がうち重なっているといえるのである。

短夜の残り少なく更けゆけば
 かねてもの憂き有明の空 藤原清正
短夜や浪打際の捨篝(すてかがり) 与謝蕪村
短夜やまだ濡れ色の洗い髪 三宅嘯山
短夜や空と分るゝ海の色 高井几菫
短夜や乳ぜり啼く児を
 須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女
短夜のあけゆく水の匂ひかな 久保田万太郎
蜑(あま)の子や沖に短き一夜寝て 山口誓子
短夜の看とり給ふも縁かな 石橋秀野

2002-06-24 公開