季節のことば

日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。

初春―其の一【ぶらんこ】

一年中あるのに、どうして歳時記では特定の季節になっているのか、首を傾げたくなるような季語が結構多いのではないだろうか。自然のものや気象現象ならば、そのものの、ある季節におけるあり方に特に日本人の美意識が結びついたというのはわかるとして、人工物で一年中使っているのに、季節が決められているものがある。そんな場合は、その背景に宗教的、歴史的な理由があるとまず考えた方がいい。春の揺動式遊戯器具つまり「ぶらんこ」がその代表格である。

冬が去り、ポカポカ暖かい春の盛り。陽気に誘われて、公園のぶらんこにでものってみようかという気持ちはごく自然に起きてくる。だからぶらんこは春のものなのだというわけではない。もちろんそれもあるが、もともとは子孫繁栄と農作物の豊穣を祈る儀礼に使われた乗り物だったことで春との結びつきができたようだ。

ぶらんこの語源はブランと下がっているからという柳田国男の説が有力だが、別の説ではポルトガル語のBALANCOからきたともいわれる。古代ギリシャには豊穣を祈るために女性がぶらんこにのるアイオラという祭りがあったし、インドでは紀元前2000年ころ、冬至の日の農耕儀礼として女性がぶらんこにのる儀礼が行なわれていた。それが中国に伝わり、「鞦韆(しゅうせん)」と呼ばれて、唐代には、冬至から数えて105日後の寒食の日にやはり女性がのる儀礼が宮中で行われていた。唐の玄宗皇帝は羽化登仙(人間に羽が生えて仙人となり天に登ること)の感じを味わうことができるというので、これに「半仙戯」の名を与えた。韓国にもクネという似た習俗があるが、こちらは端午の節供の日に女子の成年儀礼として行なわれた。いずれも女性がのるというのが、もとは農耕儀礼であったことを裏付ける。

漢詩には春の景物としてしばしば詠まれている。最も名高いのは蘇東坡の「春夜」という「春宵一刻直千金」で始まる七言絶句で、その最後に「鞦韆院落夜沈沈」(人気の絶えた中庭に、ひっそりぶらんこがぶらさがり、静かに夜はふけていく)とある。それらの影響で、春の景物として日本でも定着していく。「ふらここ」「ふらんど」「ゆさはり」などとも呼ばれた。

女性がのるものということで、艶なイメージがもともとのぶらんこにはあったのだが、現在、学校や公園で見かけるぶらんこは、古来の優雅な遊びとしてのぶらんこが引き継がれたものではないようだ。富国強兵をはかる明治政府がドイツに倣って、体力増強のために西洋式のぶらんこを輸入したのがそのはじまり。腕力、腹筋、背筋を鍛え、さらにバランス感覚やリズム感を養うというわけである。しかし学校では、校庭の舗装のため、ぶらんこはどんどん減らされている。

「小寒の氷が大寒に解ける」という言葉があり、年によっては小寒の方が大寒より寒さが厳しいことも少なくない。春の訪れがかすかに感じられる大寒に比べて、小寒の時期は「寒の内」の最盛期なのである。

ふらここや花を洩れ来るわらひ声 三宅嘯山
ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭 太祗
ふらんどや桜の花を持ちながら 小林一茶
鞦韆にしばし遊ぶや小商人 前田普羅
鞦韆の月に散じぬ同窓会 芝不器男
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
日の暮れのぶらんこ一つ泣き軋る 渡邊白泉
ぶらんこや坪万金の土の上 鷹羽狩行
生きてこし生命かすかに揺らしつつ
鞦韆に細き月をみてをり 志垣澄幸
サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ/
見えるともないブランコだ/頭倒さに手を垂れて/
汚れ木綿の屋蓋のもと/
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 中原中也

2003-02-07 公開