季節のことば

日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。

初春―其の二【春一番】

春は強い風が吹く日が全国的に多く、特に太平洋岸にこの傾向が顕著である。西高東低の冬型の気圧配置が崩れると、今まで太平洋岸を通過していた低気圧がそのコースを日本海に向けるようになる。この日本海低気圧のうち、春先に最初に発達して通過する低気圧に吹き込む強い南風を春一番というのである。春は北風と南風が入れ替わる季節でもあるわけだが、そのターニングポイントにあたる風が春一番。

春一番という語感には、厳しく寒い冬から開放され、暖かい春の到来を期待させるいかにも明るい感じがあるが、実態はやや異なる。そもそもこのことばのルーツには、悲惨な海難事故がある。安政六(1859)年、旧暦二月十三日、長崎県五島沖に出漁した壱岐の郷ノ浦の漁師53人は、春先の強い突風にあって遭難、全員、水死してしまう。このとき以来、春の初めの強い南風を「春一(はるいち)」または「春一番」と呼ぶようになり、当地では今日でも二月十三日には出漁をみあわせ、「春一番供養」を行っている。郷ノ浦町には「春一番の碑」もある。冬の間、北西や西の季節風ばかりを警戒して過ごしてきた漁師が、突然の突風をともなう南風に思わず不覚をとるということは充分に考えられることである。なにしろ当時の漁船に動力はなく、櫓や風だけが頼りだったのである。

春一番の吹く平均日は東京で二月二十五日。春一番があるのだから春二番も春三番もあるわけだが、漁船の遭難といえばとにかく春一番が最も多い。それに対して山の遭難になると、気温上昇による雪崩のためか、春二番や春三番がずっと多くなる。

春の強風については、地域によって、またニュアンスによってさまざまな呼び名がある。「春疾風(はるはやて)」は「春荒(はるあれ)」「春嵐」とも言って、やはり春の強風だが、その春になって最初に吹くのが春一番である。吹き方にニュアンスを置いた言い方で、俳句のほうで中村草田男(「春疾風乙女の訪ふ声吹きさらはれ」)や石田波郷(「春疾風屍は敢て出でゆくも」)などが詠んでから、季語として注目され出し、普及した。

春一番や春二番をともなった低気圧が通過したあとに、それまでの強い南風に替わって強い北西の風が吹くことも多い。一時的に西高東低の気圧配置に戻るためである。特に北日本では春寒の北西の風が、雪をともなって吹き荒れる。これを「春北風(はるきた)」と呼び、西日本では「黒北風(くろぎた)」と呼ぶ。丹後地方の漁師たちは「くろげた」と訛って呼んでいる。春北風も黒北風も一般的な冬の季節風のように長続きしないが、濃霧をともなうので、漁船にはたいへん恐い存在なのである。

春一番武蔵野の池波あげて 水原秋櫻子
声散つて春一番の雀たち 清水基吉
春一番山を過ぎゆく山の音 藤原滋章
春一番二番三番四番馬鹿 三橋敏雄

2002-02-12 公開