季節のことば
日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。
最もよく知られた日本文化論といえばR・ベネディクトの『菊と刀』、フランスの海軍士官、P・ロティが日本を舞台に書いた小説は『お菊さん』。外国人が日本をイメージするとき、まず思い浮かべる花は桜とならんで菊のようだが、それは菊が天皇家の紋章になっているためもあるだろう。十六弁の八重菊を皇室の紋章に加えたのは後鳥羽院で、そういえば彼の寵愛を受けた白拍子の名は亀菊。ただ十六弁が皇室、十四弁の裏菊は宮家と規定されたのは明治二年で、これを天皇家や宮家以外が使用することを禁じたのは明治四年である。
しかし菊の原産地は中国で、唐代かそれより少し前に交雑してできた雑種が現在の菊に到っていると考えられ、奈良朝に日本にもたらされた。漢詩では「懐風藻」からすでに見えるが、「万葉集」には菊を詠んだ歌は一首もない。またキクは字音であって訓読みはない(フジバカマ、カラヨモギ、カハラヨモギなどと読みかえた例外はある)。 中国から渡ってきたときの菊のイメージは、不老長寿の思想と強く結びついていた。神仙思想では菊は強い不老長寿の力がある霊薬と信じられ、たとえば後漢末の『風俗通義』には河南省南陽の甘谷(かんこく)の水には菊の滋液が含まれていて、その谷に住む人々は皆、長生きで、七、八十歳で死んだ人は若死と呼ばれたという話が載っている。この話は能の「菊慈童」「枕慈童」の原典となり、「水辺の菊」という絵のモチーフにもなっていく。
陰暦九月を「菊月」ともいうが、これは中国では一、三、五、七、九の奇数を陽数(吉数)と考えるので、一年のうちで最も大きい陽数の月を、最もめでたい花である菊の月と称したのである。さらに九の重なる陰暦九月九日を「重陽の節供」とした。また「重九(ちょうく)」ともいい、これは長く久しい「長久(ちょうきゅう)」に通じるとも考え、この日を長寿を祈る節目の日としたのである。
この日には前夜、菊の花に被せておいた綿(菊の着せ綿)をとり、菊の香と露をたっぷり含んだそれで顔の皺などを拭うと老いをはらえるとした。また菊の花びらを浮かべた菊酒を飲んで祝った(菊花の宴)。この風習は日本に入ってさらにさかんになり、持ち寄った菊の優劣を競い、和歌を詠い合う菊合わせ、菊細工、菊人形へと発展していく。陰暦九月九日に合わせた十月十八日に、東京・浅草の浅草寺では菊供養会が行なわれる。これは重陽の節供に重ねて、観音さまのご利益もいっしょに頂戴しようという法要である。
代表的な菊といえば白菊と黄菊ということになるが、黄は君主の色ということで中国では黄菊を賞するのに対して、日本では白菊への好尚が強い。またその年の最後に咲く花(「菊の後大根の外更になし」芭蕉)ということで「残菊」への思いが日本では強いが、中国では霜に傷んで無残に咲き残る残菊のイメージには衰亡、凋落の印象しかない。
早々と芽を出しながら最も遅れて花を咲かせる菊は、謙譲の美徳、君子の徳を表わし、薫香を秘めてひっそり咲くさまは、貞潔な心、孤高の意志の象徴ともなり、「隠君子」「千代見草」「契草」「翁草」「大般若」「草の主」「百夜草」「花裏の仙」などの異名が非常に多い。
菊ヲ采ル東籬ノ下、悠然トシテ南山ヲ見ル 陶淵明
秋風のふきあげに立てる白菊は
花かあらぬか浪のよするか 菅原道真
庭の面にうつろふ菊のこむらさき
枯れなでにほへ霜はおくとも 頓阿
菊の香や奈良には古き仏達 松尾芭蕉
黄菊白菊其外の名はなくもがな 服部嵐雪
負け菊をひとり見直す夕べかな 小林一茶
ほろほろと菊が残るや石のそば 高浜虚子
有る程の菊抛げ入れよ棺の中 夏目漱石
しらぎくの夕影ふくみそめしかな 久保田万太郎
菊の前去りぬせりふを覚えねば 中村伸郎
白菊とわれ月光の底に冴ゆ 桂 信子
2002-09-24 公開
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