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日本近代文学大事典 episode.2

近代文学がブームに

――日本近代文学館は、2023(令和5)年に発足60周年を迎えると伺いました。

中島 日本近代文学館の立ち上げの中心となったのは、のちに初代理事長も務めた、作家の高見順です。高見順は、近代文学の資料を自身でも集めており、散逸し続けていく状況をなんとかしたいと思っていたようです。当時の日本には、近代文学の資料をまとまって収集する団体も保存する場所もありませんでした。高見の日記に、こう書かれています。

《小田切進氏来る。夕方まで雑談》(1962(昭和37)年1月31日)

  近代文学研究者の小田切進は、この当時、立教大学の教授でした。小田切自身も、近代文学資料の散逸を問題視していて、この時、文学専門図書館の話題があがったそうですが、この雑談が、のちに日本近代文学館発足の契機になったようです。今回の「増補改訂デジタル版」も、文学研究者と作家がタッグを組んだプロジェクトですが、同館発足も同様に、研究者と作家が同じ方向を目指したものでした。

紅野 当時の社会状況も後押ししたのではないでしょうか。日本は高度成長期にありましたが、文学の分野では、じつは文学全集ブームでした。「近代文学」そのものに、世間の関心が集まっていました。家庭に文学全集があるかどうかが、ステイタスのひとつになっていたんです。こうしたなか、高見、小田切に作家の伊藤整が加わり、彼らを中心に1962年5月には、文壇・学界の有志23名による設立準備会が発足しました。7月には、「日本近代文学館設立趣意書」が各界に送られましたが、その冒頭にこうあります。

《日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません。近代・現代文学の関係資料を、包括的に集めているところが、これまでどこにもありませんでした》

中島 設立発起人には、川端康成や歌人の佐佐木信綱、文芸評論家の瀬沼茂樹や柳田国男ら、文学者、研究者、出版人の計243名が名を連ねました。翌1963年4月には、創立総会が開かれます。
 個人的にも、この頃のことを思い出すと懐かしいですね。私が高校3年生の時です。日本近代文学館の創立を記念して、東京・新宿の伊勢丹で、「近代文学史展」が開催されました。明治から現在までの100年の文学の流れを追う展覧会で、白秋の詩歌ノートなど出品総点数は5000点。私は二度足を運びましたよ。2週間の期間中に、4万2200人を集めたといいますが、実際、展示会場は満員で、階段のところまで入場を待つ人の列が伸びていました。

紅野 今でこそ、百貨店で文学展を催すなど信じられないかもしれませんが、当時は近代文学が人を惹きつける呼びものでした。1964年11月に、新宿駅に京王百貨店が誕生しますが、12月には同店で「生誕百年記念 二葉亭四迷展」が開かれています。同様に、あちこちの百貨店で文学展が開催されました。


初代理事長・高見順の執念

――「日本近代文学館」と名に「館」がつくように、同法人の目的は近代文学専門図書館の設立です。そう簡単なことのように思えませんが。

中島 実際、場所の確保や資金面で、それは大変だったようです。政財界のフィクサーといわれるような人たちにも頭を下げて回ったようですし、川端康成も「オレが行く」と言って、積極的に挨拶回りに動いていたようです。

紅野 こののちの1968年、川端康成はノーベル文学賞を受賞するわけですが、文学をひたすら追究する作家の側面と、リアリストである生活者としての側面が、この挨拶回りのエピソードによく出ていますね。

中島 図書館は運営費、維持費もかかりますから、最初は、国立国会図書館内につくれないか、と動いていたようです。実際、1964年11月、国会図書館支部上野図書館に「日本近代文学館文庫」が開設・公開されました。出版各社から寄贈された図書は3万冊。個人では古書店・ペリカン書房の品川力氏から毎週のように、貴重な書籍・雑誌が届きました。野村胡堂氏のご遺族からも寄贈いただくなど、徐々に資料も充実していきました。高見順本人も、雑誌1700種2万5000冊を寄贈しました。とくに昭和初期のプロレタリア関係や戦前戦中の同人誌など、貴重なものが多数含まれていました。

紅野 増えてくると当然、納まりきらなくなります。文学館独自の建物を望む声が高まってきました。現在、建物が建つ駒場公園は、国が土地を所有し、都が管理する公園です。法的にクリアしなければならない部分も多かったようですが、折衝を重ね、ようやく今の地への建設が決まりました。建設資金の想定は約4億円。各界に幅広く寄付を呼びかけ、なんとか建設にいたりました。

中島 先駆的な文学館でした。「近代文学の資料の保存」「近代文学の専門図書館」「近代文学センター」という3つの機能を持ち、近代文学研究の核となる場所でした。
 起工式は、1965年8月16日。ところが、その式に本来いるはずの高見順の姿がありませんでした。じつは1963年10月に食道がんの宣告を受けた高見は、四度手術を受けるも、ついには全身に転移。この日は病床にありました。起工式の1か月前には危篤状態に陥るなどしましたが、「起工式までなんとしてでも生きたい」との信念で闘病生活を続け、起工式の挨拶文も、夫人に口述筆記をさせています。「起工式無事終了」の報せを受けた高見は、満足そうな表情を浮かべ、そのまま昏睡状態に陥りました。亡くなったのは、起工式の翌日です。高見順をはじめとする先人の執念が、この大きな事業を実現させたのでしょう。





東京・目黒の駒場公園内にある日本近代文学館

東京・目黒の駒場公園内にある日本近代文学館。1967(昭和42)年4月13日に開館。現在は図書や雑誌を中心に約130万点の資料を収蔵。2011年には公益財団法人に認定された。

1962(昭和37)年5月31日の設立総会

1963(昭和38)年4月7日の創立総会。この日、日本近代文学館の名称、運営の方針、役員人事などが決定した。中央に立っているのが初代理事長となる高見順。

1963(昭和38)年10月に開催された「近代文学史展─文学百年の流れ─」

1963(昭和38)年10月に開催された「近代文学史展─文学百年の流れ─」。1500部の図録は売り切れとなり、多額の入場料が近代文学館に寄付された。

1965(昭和40)年12月駒場の建築現場を視察する一行

1965(昭和40)年12月駒場の建築現場を視察する一行。左から瀬沼茂樹、伊藤整、小田切進、徳田雅彦、中村光夫。

日本近代文学館の2階にある川端康成記念室

日本近代文学館の2階にある川端康成記念室。今回のデジタル化を記念して、2022(令和4)年春に「文学事典のこれまでとこれから」展が開催された。写真は今年没後50年を迎え、館の設立にも尽力した川端康成の回顧展の展示の様子。

初代理事長高見順の銅像

館には初代理事長高見順の銅像がある。

中島国彦(なかじま・くにひこ) 中島国彦(なかじま・くにひこ)

1946年東京都生まれ。日本近代文学館理事長、早稲田大学名誉教授。早稲田大学大学院修了、文学博士。1995年『近代文学にみる感受性』(筑摩書房)でやまなし文学賞受賞。著書には『漱石の地図帳 歩く・見る・読む』(大修館書店)、『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)など。


紅野謙介(こうの・けんすけ) 紅野謙介(こうの・けんすけ)

1956年東京都生まれ。日本近代文学館理事、日本大学文理学部特任教授。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。父は早稲田大学名誉教授・紅野敏郎氏。著書に『書物の近代』(ちくま学芸文庫)、『国語教育の危機』(ちくま新書)、『職業としての大学人』(文学通信)など。





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